【015】 羨望と期待と嫉妬とⅡ
六月の終わりごろ、夏の西東京大会のベンチ入りメンバーが発表されました。
一年生でベンチ入りしたのは藤堂だけで、彼は背番号『9』を着けたれっきとしたレギュラーでした。
そして七月に入って最初の日曜日に、ベンチ入りできなかった三年生の引退試合がひっそりと行われました。
彼らは一足早く引退し、ベンチ入り選手のサポート役に回ることになります。それについては不満がないわけではないでしょうが仕方がないことです。単純に実力がなかったということですから。
しかしそれを目の当たりにする二年生の中には強い危機感を覚える人たちが出てきました。少なくとも何人かにとってはソレが来年の自分の姿になるわけですから。
実際に三年間の練習の成果を見せる機会を奪われるのはちょっとキツイと思います。
ですからこの時期、メンバーに漏れた三年生より、二年生の方がナーバスだったような気がします。当然その中には椎名も入ってました。
「残念だったな? 藤堂は入ったのにな」
例によって椎名は、自分がベンチ入りしなかったことは棚に上げて杉浦を哀れむようなことを言ってました。杉浦本人はまったく意に介さない様子でしたが、そういった態度もよくなかったのかもしれません。椎名の嫌がらせはこの頃から徐々にエスカレートしていきました。もしかしたら三年生が大会に集中してマークが甘くなるのを見計らっていたのかもしれません。
そして大会の初戦を迎えました。
第二シードだったウチが初戦をコールドで飾ったその夜、ちょっとした問題が起こりました。
あの日、僕と杉浦は寮の部屋でグラブを磨いていました。
床に座り込んで二人で雑談しながら――。
するとそこに椎名がやってきました。というより彼の部屋でもあるわけですから当然なんですが。
「よお、杉浦」
椎名は怪しい笑みを口元に浮かべたまま杉浦に近づきました。その顔を見ただけで「なにかよからぬことを考えている」ということはわかりました。
「おまえ、ヤマジに教えてもらってたんだってな?」
いつものように絡みつくような間延びした口調でいいました。
「え。山路さんご存知なんですか?」
「ああ、知ってるよ。よ~くな」
椎名は相変わらず嫌な目つきでした。口元は歪めたまま、腕を組んで僕らを見下ろしていました。
「うちの親父もシニアでコーチやっててよ。何回も会ったことがあるってよ」
「そうなんですか?!」
杉浦はなんだか嬉しそうでした。
「僕は中学一年のときから教えてもらってたんです!」
杉浦が他人の話に食いつくのを初めて見たような気がしました。
山路という人が誰なのか僕にはわかりませんでしたが、杉浦にとってはすごく思い入れがあるような……そんな口ぶりでした。
椎名はといえば、杉浦が話しているあいだずっとへらへらと笑っていました。そして――。
「おまえってホントにバカだな。」
椎名は小馬鹿にした態度で言ったんです。
「山路ってのはブローカーなんだよ。おまえみたいなのを高校に紹介してカネもらってんの!」
いいコーチでもなんでもねえっつうの――。
僕は杉浦の様子を見ていました。
いつになくにこやかだった彼の表情が曇っていくのがわかりました。
「おまえはいくらになったんだろうな? 今度聞いてこいよ」
椎名は悪意に満ちた声でそう言いました。
嫌悪感を抱かせるその声に僕は思わず拳を固めました。
コイツを黙らせないと――。
僕は本気でそう思い、立ち上がろうとしました。僕の我慢はとっくに限界に達していたんです。
しかし……そのとき杉浦が呟きました。
「……談としてはあんまり面白くないスね」
「あ? なんだと」
「つまんないって言ったんですよ」
杉浦の声は感情を抑えているような静かなものでした。しかしそれは普段の穏やかな雰囲気とは違う冷たい声色でした。
僕は拳を固めたまま彼の声に耳を傾けていました。しかし勘の悪い椎名は茶化すような態度のままでした。
「お~怖。でもおまえが怒る相手はオレじゃねえだろ。肩をぶっ壊した名コーチ――」
「つまんねえ――。って……何回言わせるんスか? センパイ」
それは一瞬でした。
突然立ち上がった杉浦は、椎名の肩を掴み壁に強く押しつけていました。
「ば、なんだよぉ。だから、オレじゃなくて、山路に……」
「杉浦、やめとけよ!」
僕は慌てて二人の間に割って入りました。
ココで止めないと大変なことになりそうな予感がありました。そしてドコかほっとした気持ちになっていました。結局僕はなにもできなかったんです。
「あんだよ、人が親切に教えてやったっていうのに……」
椎名はぶつぶつ言いながら、逃げるように部屋を出て行きました。
「ごめん。」
椎名が出ていってしばらくしてから、杉浦は俯いたままそう言いました。
僕は何も言わずに、彼の肩を軽く叩きました。
椎名の方から絡んでいったのに、なんで杉浦が謝らなければいけないのか……僕は腑に落ちない気持ちでいました。
でも同時に僕らのいるこの場所がとても理不尽な世界なんだということに気付きました。
才能に恵まれた杉浦のような人間を椎名のようなクズがアゴで使い、そしてソレをただ黙ってそれを見ているだけの僕。
なにが正しくて、何が正しくないのか曖昧な世界。
いまにして思えば、僕の中の価値観はこのときには壊れかけていたのかもしれません。
そして翌日――。
「なにやってんの。早く行こうぜ」
僕は杉浦に向かって言いました。
もうそろそろ行かないと朝練に間に合わなくなる時間でしたが、杉浦は自分の荷物を引っかき回しながら、頻りに首を傾げていました。
「さがしものか?」
「ああ。ボール、なんだけどさ。ねえんだよ、ドコ探しても」
そう答えた杉浦はどことなく心細いといった表情で、コイツでもこんな顔をすることがあるんだと驚きました。
そのボールは僕も見たことがありました。
手垢にまみれた汚いボールで、マジックで何かの線が書かれていましたが、消えかけててハッキリとソレを読み取ることは難しかったです。ただ杉浦が大事にしているものだということは知っていました。
「困ったな……。でも取りあえず戻ってきてから探そうぜ。おれも手伝うからさ」
僕は渋る杉浦を促し、グラウンドへと向かいました。
練習が終わって帰ってくると、杉浦はまたボールをさがし始めました。とはいっても大してモノのない六畳間です。さがす場所なんてたかが知れています。
朝練前には探していないところ……ボールはあっさり見つかりました。
椎名のグラブケースに入っていました。
あれだけさがしても見つからないわけです。椎名が持って練習に行ってたんですから。
「……どういうつもりなんスか?」
杉浦は見つけ出したボールを椎名の鼻先に突き出して言いました。
「知るかよ。そんな汚ねえボール」
椎名は完全に惚けていました。
「知らないじゃなくてさ……怒んないから正直に言ってくださいよ」
杉浦は哀れむように笑ってました。
しかし椎名も強情な奴で「知らない」の一点張りでした。
「謝ってくれればいいんスよ。それ以上はべつに――」
「だから知らねえって言ってるだろ!」
椎名が手を払った瞬間、その手が杉浦の持つボールにぶつかり、弾みでボールが床に転がりました。
「――!!」
気が付くと椎名が倒れていました。ちょうど尻餅をついたような感じで……。
椎名は目尻が赤く擦り切れたようになっていました。
僕は何が起こったのかすぐにわかりました。
「杉浦……」
僕は椎名を睨みつけたままの杉浦の腕をそっと掴みました。しかし彼はすぐに僕の手を振りほどきました。
そしては座り込んだままの椎名の胸ぐらを掴み上げると、僕の制止も聞かずに椎名を殴り続けました。
無言のまま、無抵抗の椎名が動かなくなるまで……まあボッコボコって感じです。
それでも僕には椎名を心配する気持ちはありませんでした。寧ろ杉浦の拳を心配していました。心の中で「右手は止めてくれ!」と叫んでいたくらいです。
そして杉浦はその日のウチに停学になりました。
大会期間中で、しかも勝ち進んでいる状況でしたから学校側も穏便に収めるつもりだったようです。
その日の午後、僕と椎名そして杉浦は学校と監督に呼ばれ、別々に話を聞かれました。
杉浦と椎名がどんな話をしたのかはわかりませんが、僕は知っている限りのことを全て話しました。これまでの嫌がらせのことも含めた全て……まあ若干脚色しましたが。
監督は僕が話してるあいだ、深刻そうな表情で黙って耳を傾けていました。
結局、杉浦の停学は一週間と決定し、一旦実家へ帰りました。おそらく椎名と同部屋だということの配慮もあってのことだったと思います。
さっきもお話したとおり、学校側もコトを荒立てることを望んでいないようでしたから、これで一件落着となるはずでした。
ところが今度は椎名が学校を辞めると言い出したのです。
もともと気の小さい奴でしたから、杉浦に殴られたことに相当ビビってしまったようです。
それ以上に慌てたのが学校側でした。
大会期間中の暴力事件が外部に漏れることを危惧していたようです。しかも加害者が特待生です。マスコミの格好の餌食になってしまう可能性があります。
そして一週間後、杉浦は寮に戻ってきました。
しかしその日のウチに荷物をまとめて寮を出て行きました。結局、彼は退学処分となりました。学校側は杉浦を切ったのです。表向きは自主退学だったらしいですが。
杉浦が寮を出た日、僕らは玄関でばったり会いました。
奴は少し淋しそうでしたが、穏やかな笑みを浮かべていました。
やっぱりコイツは不思議な奴だな、そう感じたのをいまでも思い出すことがあります。
「いろいろ迷惑かけちゃったな。……頑張ってくれよな。おれの分まで」
「ああ。杉浦も元気でな――」
それが彼と交わした最後の会話です。
ウチを辞めたあとのアイツがドコで何をしてるのか……僕にはもうわかりません。もともと連絡先も知りませんでしたから。
近藤は、火のついていない煙草をくわえたまま小さく頷いた。
話し終えた森本は、放心したように焦点の合わない目を足元に向けていた。
その端正な顔は若干の憂いを帯びているようだった。しかしそれはずっと心に溜めていたものを吐きだした安堵の表情にも受け取れた。
おそらくそのことで彼自身も傷ついたのだろうと、近藤は思った。
「なるほど……。冴島先生が口を噤む理由はそれか」
「監督は最後まで杉浦を庇っていたみたいですけど……学校はそうじゃなかったみたいです」
森本は感情の窺えない顔で、校舎の方へ視線を延ばした。
「でも……なんでそんな話をしてくれる気になったんだ?」
森本は近藤の方へ視線を戻した。
そして少し胸を張るような仕草をしてから「時効かなと思ったんで。」と呟いた。
「時効……?」
「椎名のグラブケースにボールを入れたのは僕ですから」
「!」
近藤はくわえていた煙草を落としそうになった。
そんな近藤の様子に、森本は笑みを浮かべると淡々と話し始めた。
「椎名を追い出そうと思っただけなんですよ、もともとは」
森本は抑揚のない声で言った。
「杉浦を使って椎名を脅かして……ってハズだったんですけど……思ったより騒ぎになっちゃいましたね」
何かを思い出したかのように微笑んだ。
「おまえ……何を言ってるのかわかってるのか?」
「はい。でも何故かあのタイミングで気付いちゃったんですよね……」
森本はそう言って首を傾げた。
「椎名って奴は本当に嫌な男でした。でも……たぶんそれ以上に杉浦に嫉妬してたんですよ、僕は」
「でも、仲がよかったって……」
「ええ。よかったですよ。ちょっとなに考えてるのかわかりにくいところもありましたけどね」
アイツはいい奴でしたから――。
「僕も中学時代はちょっと有名だったんですよ、地元の千葉では知らない奴がいないくらいに。結構期待もされてきました。だけどココでは違ったんです。みんなの視線を杉浦が持って行っちゃうんです。期待も羨望も、それから妬みも。僕なんかここじゃ空気以下の存在でしかない」
森本は自嘲気味に呟いた。
「でもね……気付いちゃったんです。実は僕自身が杉浦に期待してるってことに。自分にじゃなくてアイツにですよ」
それはさすがにマズイですよね――。
そういって大きく息を吐いた。
「でも、だからって……それに謹慎が明ければ……」
「ええ。杉浦が戻ってきたら勝てないのはわかっていました。だから手を打っておいたんです。椎名をちょっと脅かして……簡単でしたよ、気の小さい奴でしたから」
森本は口元を歪めた。
「でも藤堂まで辞めてしまったのは誤算でした。アイツには残っていて欲しかったんですけどね」
藤堂は杉浦が寮を出た夜、監督と寮長を殴って寮を飛び出したらしい。
すぐに連れ戻されたが無期停学処分となり、その後自ら学校を去ったのだという。
「しかし……杉浦には罪はなかっただろう? 悪いとは思わなかったのか?」
「僕はただエースになりたかった。だから悪いとは思いません。方法はともかくとして僕は杉浦を蹴落とすことができた。それが競争社会だと思ってますから」
森本はよどみなく言った。
ガキのクセに何が競争社会だ――。
近藤は口にしそうになった言葉を呑み込んだ。
「俺は……間違ってると思うがな」
近藤は吐き捨てるように言った。
しかし森本には近藤の言葉など届いていないように見えた。
「――二年の秋、僕はエースナンバーを手に入れました。憧れだった『1』の背番号をもらったんです」
あのときは本当に嬉しかったな――。
森本は懐かしそうに笑った。
「だけど僕は本当の意味でエースになれなかった。明桜の奴らはいつまで経っても杉浦の話ばっかりなんです。杉浦はいなくなりましたが、アイツが僕らのなかに植え付けていった記憶はなかなか消えてくれませんでした。ピンチになると感じるんです。チームメイトの視線、杉浦と僕を比べる周りの奴らの昏い眼……結局、最後まで杉浦の代役から抜け出すことが……」
森本は何かを言いかけて口を噤み、そして小さく首を振った。
「だからアイツがいなくなってからの方が僕にとってはきつかったですよ。見えない相手と闘うっていうのはちょっと……もう限界でしたね」
そう言って声もなく笑った。
森本はそれっきり黙り込んだ。
じっと何かに耐えるように俯いていた……時折口元を小さく歪めながら。
近藤には理解ができなかった。
森本は好投手だった。それは疑いようがない事実だった。
確かに完璧な状態の杉浦と比べれば、チカラは落ちるのだろう。しかしタイプの違うこの二人がいれば、全国の頂点に立つことも夢ではなかったハズだ。
それを捨ててまでエースの座に固執した彼の心中……それがどうしても理解できなかった。
「本当は……誰にも話すつもりはなかったんですよ」
森本は帽子を目深に被り直すと、口元を歪めた。
「でも僕はドラフトで指名されました。プロに行きます。これでようやく杉浦の影と決別できると思ったんです。清算してもいいころだろうと思ったんです」
近藤は森本の顔を窺った。
目の前の男は端正な顔立ちの中にまだ幼さを残している。近藤からすればどうみても子供だった。そんな森本の悪意のないその表情……近藤は苛立ちと戦慄が混じったような感覚に囚われていた。
「ずいぶんと身勝手な話だな」
近藤は感情を抑えて呟いた。自分が大事にしてきた何かが踏みにじられたような気がして強い憤りが湧くのを感じていた。
森本はそんな近藤を見据えると肩をすくめ、小さく笑った。
「ええ。でも僕は頑張りますよ、杉浦の分まで。そう約束しましたし」
奴もそれを願ってるでしょうから――。
「じゃ、そろそろ着替えないといけないんで……失礼します」
森本は屈託のない笑みを浮かべたまま深く頭を下げると、近藤に背を向け駆けだしていった。
独り取り残された近藤はやりきれない思いでいた。
杉浦の辿ってきた三年間、報われない三年ものあいだ、彼が何を目指してやってきたのだろうと考えるとやるせない気持ちになる。
しかし数年ぶりに見た杉浦のピッチング――。
近藤がいつか感じた粗削りな才能はまだ腐ってはいなかった。寧ろ殻に閉じ込められたまま、静かに熟成されているようにさえ思えた。ただ本人にその殻を突き破る意思が感じられなかったのが気がかりだったが――。
近藤は駐車場に引き返した、自然に走りだしていた。
OB会に出席する気などとうに失せていた。いま冴島と顔を合わせることが躊躇われたということもあるが、ソレより優先順位の高い仕事が見つかったというだけのことだった。
クルマに乗り込んだ近藤は忙しなくエンジンを掛けた。そしてアクセルを踏み込むのと同時に千葉までの最短ルートを頭の中で検索し始めた。