【011】 それぞれの道
岡崎とはあれから連絡を取っていない。
まあ、あんなことがあったからってのもあるが、ムコウは国体やなんかで忙しそうだったし……用もないのに電話するのも迷惑だろうと。
ただ、このあいだテレビに映る岡崎を見た。
事実上のプロ入り拒否会見――。
随分偉くなったモンだと感心する。
テーブルに並んだ無数のマイクを前に「大学進学」を表明する岡崎……見慣れない制服を着込んだ岡崎を、僕は不思議な気持ちで眺めていた。そして岡崎とはもう二度と会うこともないんだろうな、ということをこのとき初めて思った。
僕はといえばあの日を境に野球部の練習には出ていない。もう続ける理由がなくなってしまった。
学校にもあんまり行く気がない。取りあえず辞めるつもりは今のところないけど……まあようするに何をするにも気力が湧かないって感じ。
今日も学校には行ってない。朝から亮の家に来ていた。
「亮ぁ。ハラ減った」
僕はヤンマガをめくりながら呟いた。
すると机に向かっていた亮は億劫そうに立ち上がり、黙って部屋を出て行った。しばらくして戻ってきた亮は「コレしかねえわ」と僕の足元にコンビニのビニール袋を放り投げた。
拾い上げて袋を覗くと、中には板チョコが三枚入っていた。
「なんだよ……しょっぱいモンはねえの」
「ねえよ」
亮は無表情のまま呟くと再び机に向かった。
「ねえじゃなくてよ……」僕は独り言を呟いた。
「あ~うるせ。ちょっと黙ってろよ」
おれは忙しいんだよ――。
亮は机に視線を落としたまま、ボールペンを持った右手でアタマを掻きむしった。
僕はため息を吐いた。
亮はさっきから机に広げた履歴書と睨めっこしている。そんなに悩むほど書くことなんかないだろ。
明日、亮は新しいバイトの面接を受けるらしい。なんでもいままでのバイト先をクビになったとか……気が短いからな、コイツは。
僕は仕方なくヤンマガを開いた。しかし……じつはとっくに読み終わっていて、いまは二巡目に突入していた。もう読み残したトコロなんてドコにもない――。
「なあ。ラーメンでも食いに行こうぜ」僕はヤンマガを閉じて立ち上がった。
「あ~うっせえな! おまえはナニしに来たんだよ!」
亮はヒステリーを起こしたように机を両手で叩いたが、そのままの勢いで立ち上がり、抽斗から取りだした財布をジーンズの尻ポケットに収めた……行く気満々じゃん。
エレベーターで一階に下り、ガランとしたエントランスホールを抜け、駐輪場に停まっている僕のRZと亮のGPZを横目に見ながら通りに出た。
亮の住むマンションは錦糸町と亀戸の中間あたりにあった。
中学のころは、亮の家は葛西橋通りに近いボロアパートにあったハズなのだが、僕らが高校一年のとき……厳密に言えば明桜学園を辞めさせられるのと前後して、現在のマンションに移り住んだらしい。だから藤堂さんはいまの実家がドコにあるのか知らないんだそうだ。
僕らは歩いて明治通りに出た。亀戸駅に向かう途中を左に入り、少し行った先にその店はあった。まだあったと言う方が正しいのかもしれない。
このラーメン屋には中学のころにも来たことがあった。峰岸さんに連れられ、チームのみんなと何度か食べに来たことがあった。
当時は「なぜ練習場所からも遠いこの場所にわざわざ来るのか」と不思議に思ったこともあったが、最近になってその理由がわかったような気がする。
この店は安い。そのワリに量が多い。ただそれだけ――。
「そういえば、このあいだも来てなかったな?」
僕はラーメンを啜りながら言った。
「まあな」
向かいに座った亮は気のない返事をした。
彼は餃子用の小皿にラー油を垂らすことに集中しているようで、他のことには気が回らないみたいだった。
このあいだの僕の引退試合に麻柚は姿を見せなかった。
どこにでも顔を出したがる彼女にしては珍しいことだった。てっきり亮と一緒に仲睦まじく来るのかと思いきや――。
「そういや、なんで斎藤さんと一緒に来たのよ?」
僕は餃子に伸ばしかけた箸を止め、亮の顔を窺った。
亮は一瞬、僕の方に向けた視線をすぐにラーメンに戻し「ソコで偶然会った」とミエミエの嘘を吐いた。
「おめえはなんですぐにそういうツマンネー嘘を吐くの?」
僕は餃子を箸で摘むとそのまま亮のラーメンどんぶりに軟着陸させた。
「げ! おめえ、なにすんのよ~。おれがそう言うの嫌いなの知ってるだろ?!」
亮はふて腐れたように言ったが、僕の左手にラー油の瓶が握られていることに気付くと、観念したようにため息を吐き、テーブルに箸を置いて僕に向き直った。
「京葉工科大の練習に参加してる」
亮は俯き加減だった。
「ほー。なんで……?」
「え? ヒマだから……」
僕は軽く頷いてからラー油の瓶を高く掲げた。
「ウソウソウソ――。冗談だから落ち着け、取りあえずそれはココに置いて――」
亮は僕の左手を指さした。
「まあ、なんつーか……高校でやり残した感が強くてよ……なんかあきらめきれないっていうか」
亮は恥ずかしそうに言った。
「なんだよ。そんなことべつにおれに隠すことねえじゃん。もともとおまえまでおれに付き合ってやめることはなかったんだから」
逆にカンジわりーぞ、それ。
僕が言うと、亮は拗ねたように下唇を突き出した。
亮の気持ちは僕にも理解できるし、べつに恥ずかしがるコトでもない。隠してたことだってゼンゼン構わないが、そのことで僕に気を遣うようなコトだけは勘弁して欲しかった。
僕はコイツの才能をたぶん誰よりも高く評価していた。その才能が僕のせいで人知れず埋もれていってしまうことが残念でならなかったし、亮に対する申し訳ないという気持ちが心の何処かでずっと燻り続けているくらいだったし。
「でもまあ、いいんじゃねえか」
気が済むまで頑張れや――。
そういいながらもドコかほっとする気持ちが湧き上がっていた。
ラーメン屋を出た僕らは、さっき来た道を引き返していた。
道路の脇には工事現場がやたらと目に付く。往きに気付かなかったのは、たぶんハラが減りすぎて視界が狭くなっていたせい――。
「ココってナニがあったんだっけ?」
僕はフェンスに囲まれた工事現場を指さした。
亮は「わからん」と、たいして考える様子もなく首を傾げた。そして「ココらへんは工事現場だらけだぞ」と無感動に呟いた。亮の話では中学時代の同級生の家のあたりも取り壊されてナニカが建つらしいとのコトだった。そのナニかについては亮も知らないらしいのだが。
「ま、世の中変わっていってるっつうことだね。おれとおまえ以外は」
亮はそう言って笑ったが、僕にはいまひとつ同意できなかった。
「あ。そういや、椎名に会ったぞ」
僕はふと思い出した。
「はあ? どこでよ」
亮は目を細めた。
「いや、会ったっつうか、見かけた。町田で」
去年の年末だけどな――。
言いながら、言わなきゃよかったと思った。
「なにやってた?」
「え。歩いてた……すぐに見失ったけどな」
「今度見かけたらすぐに教えろよ。ぶっ殺してやる」
亮は物騒なことを口走った。
やっぱりいうべきではなかった……少しだけ後悔した。
部屋に戻ると、亮は再び机に向かい、僕は途中のコンビニで買ってきた野球雑誌を眺めはじめた。
亮はアタマを掻きながら背中を丸め、一心不乱に履歴書にナニかを書いている……。
〈せっかく来てやったのに……コイツにはオモテナシの心がないんだろうか?〉
僕はときどきその背中を眺めながら首を傾げ、雑誌と一緒に買ってきたポテトチップスに手を伸ばし続けた。
「できた――。」
やがて亮がノビをするように両手を突き上げた。
僕は立ち上がり、亮の肩越しから机の上の履歴書に手を伸ばした。
「ば、やめろよ! 汚ねえ手で触るな!」
亮がはねのけた僕の手……指先は確かにポテトチップスのアブラでギトギトだった。僕は仕方なく手を引っ込め、肩越しに履歴書を眺めた。
「……。たったコレだけのことを書くのに何時間かかってんの?」
僕は鼻で笑った。
それまで採点を待つ子供のように大人しくしていた亮の顔が微かに曇った。
「ま、一生懸命書いたってのは伝わるんじゃねえか。なんとなくだけど」
なんとんなくだが、きっと伝わるような気がした。
「あ。そんなことより、もうやってんだろ……ドラフト」
僕はそう言ってテレビに目をやった。ドラフト会議の中継が始まってるたハズだった。
亮は僕の指先に視線を向けてから、仕方がないというふうに立ち上がりテレビの主電源を入れた。
リモコンでチャンネルを合わせると、画面にはガッチガチに緊張した顔の用田と半分眠ったようにも見える目を伏せた吉村の姿があった。
「ナニコイツら。指名される気まんまんなんじゃねえの」
僕はテレビを指さし茶化すように言ったが、亮は「されるだろ」と何の捻りもない言葉を返してきた。つまらん男だ。
テレビでは『ドラフト候補』たちの華麗なプレーが映しだされていた。コレだけを見るとプロでも即通用するんじゃないかと勘違いしそうになるが、実際にはそんなはずはない。上手い編集をするもんだなと感心する。
僕は斜に構えながら、しかし食い入るようにテレビに映し出される選手たちの姿を目で追っていた。
ドラフトでは僕の知ってる奴らが何人か指名されていた。
用田は五球団が競合した結果、関西の球団が交渉権を獲得した。
吉村は在京の球団が一位で、安藤も在京の別の球団が二位で指名し、交渉権を獲得していた。
岡崎については大学進学を表明していたものの、用田を指名したところとは別の関西の球団が二位で強行指名をしていた。
そしてもう一人――。
明桜学園の今年のエースだった森本徹也。
彼は在京の球団が三位で指名し交渉権を獲得していた……が中継は途中で終わってしまった。
「……というわけでおれとおまえは指名されませんでした、と」
亮はそう言ってテレビを消した。
「え。でもまだ三位までしかやってねえじゃん」
「はあ? あ、おまえもしかして……指名されるとか本気で思ってた?」
亮は嬉しそうに言った。
「そんなわけねえだろ」
僕としても指名されるとはさすがに思ってなかった。そこまでバカではない。ただ、もしかしたらという気持ちがまったくなかったというわけでもない。つまり……少しだけ期待していた。
ま、いずれにしてもコレで僕の野球は終わりを告げた。野球を続ける道は事実上消滅した。
「それにしても森本がプロなんて……びっくりだな」
亮の言葉に、僕も頷いた。
「アイツ、すげえ練習してたもんな。典型的な努力型。おれらとは正反対だったもんな」
亮はそう言いながら笑った。
元チームメイトでもある森本。僕にとってはかつてのルームメイトでもあった。
用田、岡崎、吉村、安藤……亮もそうだったが、コイツらは初めて会ったときから既に怪物だった。
しかし森本は違った。華奢な男で、第一印象は「三年間もつのか?」というカンジだった。
そんな男がドラフトで指名されるまでになった。なんか自分のことのように嬉しかった。
「よし。決めた」
亮は急に立ち上がると、拳を握りしめた。
「おれ、メキシコに行くことにする」
「はあ?」
なにを言い出すのかと思えば……つうかホントにそんなこと考えてたんだ。
「二月になったら兄ちゃんのトコロに行ってくんわ。迷うのは合格してからにする」
「ほー。前向きだな」
「ああ。森本に負けてらんねえからな」
「麻柚はどうすんの?」
「待っててもらう。で、三年後に迎えに来る」
「……。」
言ってて恥ずかしくないんだろうか。聞いてる僕は恥ずかしい。
「ま……場合によってはすぐに帰ってくるけど」
「なんだよ。急にトーンダウンしちまったな」
「まあな。そんなに甘くないってのは知ってるつもりだし……とにかく現実を見てくるよ。自分が凡人だって納得させるには三年くらいかかるかな、と思ってよ」
そうすればあきらめもつくさ――。
亮は夢を語っているとは思えないほど醒めた口調だった。
夢から醒めるために、より深く夢を見に行く……そんなカンジなんだろうか? 僕にはあまり理解できないが。
そもそも僕は夢を見てるのか、見終わったのか、それとも夢の入口に立っているのか……それさえよくわかっていないし。
「行こうぜ、一緒に」
亮は言った。連れションに誘うかのようにあまりにも軽い調子で。
「おまえにも届いてるだろ。兄ちゃんから」
確かに手紙は受け取っていた。
藤堂さんからの手紙にはメキシコでの入団テストに参加しろというようなことが書いてあった。
「おれは……外国に行く気はないな。英語喋れねえし」
「心配すんな。おれも喋れねえ」
亮はそう言って親指を立てた。
亮って奴はお気楽な人間なんだと思う。ちょっと僕にはマネできないくらいに。
そして行動力もある。それも僕にはマネできないくらいに。
メキシコに行くと言った亮。だけど僕はまだ、自分のすすむべき方向も定まっていない。完全に道を見失ってしまった。どちらにも足を踏み出せずただ途方に暮れている……。
だから後先考えない亮を見てると、僕だけが取り残されたような感覚になって少し焦る。亮みたいなバカにはなりたくない……だけど羨ましくもある。
ま、それはともかくとして……きっと麻柚は怒り狂うんだろうな。
メキシコの話が出てからずっとイライラしてるらしいし。もうちょっとよく話をしたらいいと思うんだが、ケンカの原因がまさしくソレだから話もできないのかもしれないけど……ま、破局は決定的だな。
「ま、ムリにとは言わねえけど……いつか一緒にやろうぜ、同じユニフォーム着てよ」
亮はそう言って笑った。
でもその笑顔は僕の知ってる亮のモノではないように思えた。