【010】 勝負の後味
歩み寄ってきた亮がグラブで僕の尻をポンと叩いた。
ベンチからは後輩たちの歓声が聞こえる。
僕は笑っていた。無意識のうちに笑みがこぼれていた。打球の行方を追うことなく僕は静かにマウンドを降りた。
岡崎は悠然とダイヤモンドを回っている。
試合じゃないんだから、わざわざベースを回る必要なんかないのに……まったくイヤミな奴だ。
「……打たれちゃったね」
ベンチに戻ると、麻衣子が微妙な笑顔で僕を迎えてくれた。
僕は無言のまま顔を顰めて舌を出すと、ベンチに腰を下ろしアタマからタオルをすっぽりと被った。
うまく言葉が出てこなかった。しかし不思議と悔しさはそれほどなかった。まあ、つまりは潮時だったってことなのかもしれない。
最後のボール……僕が投じた最後のボールは、僕の野球人生で最高のボールだったと思う。
でも岡崎はソレを難なく打ち返した。逆風をついてレフトのフェンスの向こうまで。
岡崎の成長具合は僕の想像を遙かに超えていた。
「ナンだよ、投げられんじゃん」。
僕はタオルをズラし、声の主を窺った。
「心配して損したよ」
安藤は僕を見下ろしたまま笑うと、少し伸びた前髪を気にしながら僕の隣に腰を下ろした。
守備に就いていた奴らも、続々ベンチに引き揚げてきた。
「なにやってんだよ」「コースが甘ーわ」「どー考えてももう一球ハズすべきだろが」
奴らは口々に好き勝手な言葉を並べ立てたが、傷心の元エースにはもう少し優しい言葉を掛けるべきだろ、マジで。
「イエーイ! 俺の勝ちぃ!!」
ベンチに戻ってきた岡崎は嬉しそうに叫んだ。
指でVサインを作ってはしゃぐその顔にはさっきとは別人ナンじゃないかと思うほどの満面の笑みが浮かんでいた。
「ま、おれの負けだわ」
僕はすっきりした気持ちだった。あそこまで完璧に飛ばされた記憶はいままでにない。
「正直キタイしてなかったんだけど、いいボールがきてたぞ」
「あっそ」
打たれた相手に言われてもあんまり嬉しくないし。
「空振りした球なんか久々にゾクゾクしたよ。でもよ――」
岡崎は僅かに視線を落とした。
「真っ直ぐだけって……オレのことナメてんのか! オラ!」
岡崎は笑いながらヘッドロックを仕掛けてきた。
「だー、うるせえ! 時間がなくて真っ直ぐだけで精一杯だったんだよ!」
「……何だよ時間て?」
奴はヘッドロックを解いた。
「おまえ、おれと勝負したいから成京にいったんだろ? プロに行っちまった後じゃ、もう勝負する機会がねえから――」
「なに言ってんの?」
「いや、だからせめてドラフト前にと――」
「おれ、まだプロには行かねえぞ」
「はあ?」
なんつった……いま?
「おれは大学に行くんだ」
――ええぇえぇぇええぇぇぇぇぇ~!
岡崎の口から出た意外な言葉に、僕以外の奴らも反応した。
「おれは東都で『神宮の星』を目指すんだ」
岡崎は目を輝かせていた。
本気で言ってるらしいが……うそだろ?
「おまえ、ホントに進学なの?」
峰岸さんも驚いた顔で訊いた。
「はい。国体が終わったら会見をするらしいですけど」
岡崎はあくまで他人事のように言った。
「ま、つまりそういうことだからよ――」
岡崎は僕に向かって笑みを浮かべた。
「べつにプロに入ってからだっていいんだよ。同じチームじゃなきゃよ」
そう言って笑った岡崎がどことなく無邪気に見えた。
もちろん岡崎は本気でそう思ってるのだろう。
だけど現実はそれほど甘いモンじゃない。高校で何の実績も残せなかったいまの僕に「野球を続ける」という選択肢はないと言ってもよかった。
「まあ、そのことなんだけどよ……」
僕は周りの奴らを見渡し呟いた。「おれ、野球辞めることにしたんだ」。
周りの奴らは呆気にとられていた。
用田なんかはだらしなく口を開けちゃってる。
今日集まってもらったのはもともと報告のつもりだった。
「ま、硬式は……ってことだけどな」
僕は付け足すように言った。そのうち草野球でもやろうかなと漠然と考えてはいたが。
「おまえ、なに言ってんの」
岡崎は不思議そうな顔で僕を見返してきた。
「あんだよ、聞いてなかったのか。だからおれの硬式野球は今日でおしまい――」
「おまえふざけてんのか――。」
岡崎はイキナリ僕の胸ぐらを掴んできた。
「なに勝手なこと言ってんだよ!」
勝手もナニも……僕の身の振り方を僕自身が決めてナニが悪いんだ。
「もう決めたことだからほっとけよ」
「勝手に決めんな! おまえに勝ち逃げされたおれはどうなる?! どんな気持ちでいたのかわかって言ってんのかよ?!」
岡崎は僕の鼻先に顔を近づけて怒鳴りつけてきた。
「おまえの気持ちなんて知るか。だいたいおれがいつ勝ち逃げしたっつーんだよ」
僕は岡崎の手を振りほどこうとしたが、ユニホームに食い込んだ指は簡単には僕を解放してくれそうになかった。
「もうとっくに諦めてたんだよ。それをいまごろノコノコ現れて、あの程度の球で『勝負だ』とか言いやがって……何様のつもりなんだよ?」
まったく。コイツはなにをアツくなってるんだか――。
僕はゆっくりと立ち上がった。
「せっかく打たしてやったっつうのに……てめえは、ありがとうくれえ言えねえのかよ――」
岡崎の胸ぐらを掴んで絞り上げた。
「はいはい、そこまで~」
峰岸さんが僕らの間に入り、吉村が岡崎を亮が僕を羽交い締めにして引き離した。
「まったく……。お前らはすぐにコレだ」
峰岸さんは僕らに呆れたような目を向けてため息を吐くと、麻衣子を振り返った。
「昔、俺が苦労したのもわかるでしょ?」同意を求めるように笑った。
彼女は引きつった顔をしていた。
岡崎はずっと僕を睨んでいた。
その視線を受け止め、僕も睨み返した。
睨みあうウチ、岡崎の目が微かに動いたような気がしたが、それに何の意味が含まれているのかは僕にはわからなかった。
「なんでなんだよ……」
後ろにいた用田が呟いた。
「投げられるようになったんだろ? それで十分じゃねえか……」
「多分わからねえよ。甲子園に出れたオマエらには」
一度切れてしまった僕の気持ち、夏の大会の舞台にも立てなかった僕の気持ち……そんなもの、コイツに話しても理解できるはずもない。
「だけど……高校野球がすべてじゃねえだろ? 通過点だろ?」
用田の台詞に僕は笑ってしまった。コイツは何もわかっていない。
「おれにとっては通過点なんかじゃなかったよ」
僕は自嘲気味に言った。
その先に道が残されてるのは一部の恵まれた奴らだけ……当然、僕の前には何も残されてはいない。
「おまえに、一度も試合に出ないまま終わったおれの気持ちがわかるか?」
僕は用田に強い視線をを送った。
「いや、だからって――」
用田が口を挟もうとしたが、それを遮り言葉を続けた。
「おまえらが優勝目指して上を見てるころ、負けた後の気持ちの落としどころを探してたおれの気持ちがわかるか? 勝つ為だけに練習してんじゃねえ。負けを受け入れる為に練習してんだよ。そんな惨めな気持ちがおまえにわかるか? わかるとか言ったらぶっ飛ばすからな」
僕は吐き捨てるように言った。
用田はそれ以上なにも言葉を返してはこなかった。ただ小さく首を横に振っていた。
考えてみれば皮肉な話だ。
あくまで通過点として見ていたコイツらと、目標としてきた僕。
僕は跳ね返され、コイツらは文字通り通過した。つまりそれは「僕の方が志が低かった」ってことなのかもしれないけど。
「そんなこと知るかよ……」
岡崎が絞り出すような声で呟いた。
奴は蔑むような、それでいて縋るような目を僕に向けていた。
「だとしても……それでもおれはおまえの球を打つためにやってきたんだよ」。
僕は何も応えなかった。
何も応えずにそっと背中を向けた。これ以上話すことなんか何もない。
絶対ヤメさせねえからな――。
岡崎が言った。
別れ際に吐いた奴の言葉にも振り返ることはしなかった。だけどその声はいつまでも耳の奥で響き続けていた。
***
そんなわけで僕と岡崎の『対決』は、後味の悪いモノになってしまった。
アイツが僕に対してどう思おうと何を期待しようと勝手だけど、僕の将来については口出しして欲しくない。昨日今日で決めたことではないんだし。
「まあ岡崎の気持ちも察してやれよ、な?」
峰岸さんはステアリングを握ったまま、僕に微笑みかけてきた。
僕と麻衣子は峰岸さんのクルマで駅に向かっていた。他の奴らはまだグラウンドに残っていたが、僕はあまりの居心地の悪さに逃げるようにグラウンドを後にした。ホントは奴らと話したいこともたくさんあったんだけど……それもアイツのせいで台無しだ。やっぱり岡崎が全部悪い。
そんな考え事をしてる間に、クルマは木場駅に到着していた。
「ありがとうございました。あと……すいませんでした」
僕がアタマを下げると、峰岸さんは「気にするな」と笑った。
「ま、いろいろ考えてるんだとは思うが……落ち着いたら練習を見に来てやってくれ」
僕は顔を上げた。峰岸さんは社交辞令で言ってる感じではなかった。
「今日のおまえのピッチングをみて、感化された奴が間違いなくいるから。来年のウチのエースなんだけどな――」
峰岸さんは楽しそうに言った。だけどその優しい表情もいまの僕には素直に受け取れそうもなかった。
「ま、おまえって奴は影響力が強すぎるからな。おまえにその自覚はないみたいだが……」
「そんないいモンじゃないスよ……いまは」
僕は言ったが、峰岸さんは「ま、人生は長い。いろいろ悩め」と他人事のように言って笑った。
木場駅で峰岸さん別れた僕と麻衣子。
電車は間もなく大手町駅に着くが、麻衣子はまったく口を開いてくれない。
嫌なモノを見せてしまった。それだけは間違いなかった。それもこれも岡崎が悪い。空気を読まないアイツが全部悪い。
ホントなら今ごろは、仲間と後輩たちの練習に参加して爽やかな汗を流し……なんて考えてたんだが、実際の展開はまったく違うものになってしまった。
まあそれはともかくとして、いまは麻衣子に機嫌を直してもらわないと息が詰まりそうだ。取りあえずなんか話を……気の利いた話題はなかったっけ――。
「――にゃあ、麻衣子」
……噛んだ。
「ん?」
麻衣子は顔を上げた。「いま、ニャーって……」
「言ってない。」
考え事しながら喋ったから噛んじまっただけ。
「嘘。言ったよ」
麻衣子は口の端に笑みを浮かべた。
僕は「にゃあなんて言ってない」と言い張った。そして取りあえず「メシでも食おう」と言った。
しかし麻衣子は「まだ早いんじゃない」と言った。確かにまだ三時前。僕も腹が減ってる訳ではなかった。
しつこいようだが本来であればまだ練習をしているハズで、この電車に乗る頃にはメシをドコで食おうかとかいう話で盛り上がるつもりでいた。ここでも僕の予定は大きく狂ってしまっていた。
「じゃ――。取りあえず、横浜でも行くべか」
***
電車が横浜スタジアムの横を通り過ぎた。間もなく石川町に到着する。
僕は立ち上がり網棚に無造作に放り投げていたバッグに手を伸ばした。
石川町駅を出た僕らは、元町の石畳を通り抜けバンドホテルの手前を右に折れ、フランス山に入った。そして細い階段をひたすら登っていくとやがて広場に出た。
「なんだ。なんにもないんだな」
期待して損した。
「でも景色はいいじゃない」
高台に開けた公園は確かに景色は良かった。でもそれ以外には何にもない。それでも日曜日の公園にはたくさんの人が来ていた。
「あっち行ってみよ」
麻衣子は僕のシャツの裾を摘み、柵のある方へと歩き出した。
「ほら、船がたくさん」
麻衣子はそう言って下を指さした。
また船かよ……。
そう思いながらも柵に近づき、そこで少し足が竦んだ。
眼下に広がる港……確かに素晴らしい景色なんだとは思う。だけど僕は高いところが苦手だったんだ。
「あれなにかな?」
麻衣子が指を差した。
「さあ。ここからじゃわかんねえな」
彼女の指さす方に目を向けることなく僕は呟いた。
僕は柵に肘を乗せたまま水平線を眺めていた。いま足元に目をやるのは危険だった……気を失ってしまうかもしれない。
「でも……初めて見た」
不意に麻衣子が呟いた。
「……なにがよ?」
「いろいろと。あんな顔することもあるんだなあって」
彼女は僕の顔をまじまじと見た。
「どんな顔よ」
「マジメな顔」
「はあ? おれはいつだって――」
「明るい顔」
「……なんなの。おれは明るい方だべよ」
「そうでもないよ」
彼女は首を横に振り、僕の言葉を全否定した。
「杉浦は笑ってても笑ってないし」
今度はふて腐れたように視線を落とした。「初めて会ったときからずっとそう」
「……なんじゃそれ」
意味がわからないといった顔をした僕に、彼女は思いっきり舌を出した。
「……。」
ますますワケがわからない……。なんか気に障ることしたか?
「意地っ張り。」
麻衣子は言った。
「……なんなんだよ、さっきから」
「好きなんでしょ?」
「え。」
「野球。」
「え。ああ……まあ、な」
適当な相槌を打った。
いまの僕には何の言葉も浮かばなかった。
「だったら続ければいいじゃん」
なんなんだ、さっきから……なにが言いたいんだ?
「みんな杉浦と野球やりたいみたいだったし」
麻衣子は僕を見上げてそう言った。
僕には彼女の真意がわからなかった。野球に興味のない彼女が、なぜそんなことを言い出すのか理解ができなかった。
「……そんなことねえよ」
僕は彼女から目を逸らした。
「でも、みんなそう言って――」
「あれは雰囲気で言っただけ。おれがいてもいなくて関係ねえよ」
代わりなんていくらでもいるんだから――。
僕は笑った。
「そんなことない――」
彼女は語気を強めた。
「代わりが利かないコトだってあるのよ!」
僕は驚いていた。彼女らしくないとも思った。だけど……なぜだか笑みがこぼれた。可笑しいことなんてナニもないのに頬が弛むのを抑えることができなかった。
「……ないよ」
頬を弛めたまま呟いた。「代わりが利かないモノなんてドコにもないよ。」
僕はソレを知っていた。痛いほどよく知っていた。
麻衣子はしばらく僕を見ていた。上目遣いの瞳はナニかを言いたそうな感じだったが、いまの僕に何を言っても無駄と思ったのかどうかは知らないが、根負けしたように口を閉ざしたまま俯いた。
「ま……もう決めたことだからさ」
しばらくそっとしといてよ――。
僕は努めて明るく、そして静か言った。
「それよりノド渇いた。なんか飲まねえ?」
僕は遠くに見える自動販売機を指さした。
それにしても今日はいい天気だった。
時計を見るともうすぐ四時になるところだったが陽射しはまだ暖かい。時折吹く風だけが僅かにいまの季節を思い出させてくれる。
不意に隣を歩く麻衣子が僕に身を寄せてきた。風を避けるように、僕の左腕を抱え込むように……そして足を止めた。正確に言うと僕の歩みにブレーキをかけた。
「ねえ。」
麻衣子は僕を上目遣いに見た。
「……話ってなに?」
「は?」
「話したいことがあるって言ってたじゃない」
彼女は笑みを浮かべたまま僕を窺っている。
話したいことがある――。
確かに言った。二、三日まえに僕は確かに麻衣子にそう伝えた。
僕は胸に期するモノがあって今日の岡崎との勝負に臨んでいた。周りに誰もいなかったら勝っても負けても泣いていたかもしれないくらいに。
そしてその気持ちが盛り上がった勢いで麻衣子に僕が思っていることを伝えようと決めていた。しかし……
いまの僕は醒めていた。びっくりするくらいにサメザメだった。
雰囲気を大事にする僕としてはコレは誤算だった。今日一番の誤算だと言ってもいい。それもこれも岡崎が悪い。あの野郎はホントにゆるせねえ……。
「ねえ」
麻衣子は言葉を催促するように僕を一瞥すると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうだな……二十四日ってなんか用ある?」取りあえずクリスマスまで延期にすんべ。
「二十四って……今度の土曜だっけ?」
麻衣子は首を傾げた。
「ちげーよ、十二月の二十四に決まってんべよ」
なにボケてんだよ――。
僕は呆れたように言った。
「だって……まだ十月――」
彼女は言いかけて口ごもった。
そして僕の顔色を窺うように「まだ予定はないけど……」と訝しげに言った。
「じゃあ、空けといて」
それだけを言うと僕は再び歩き出そうと……しかし彼女は立ち止まったままだった。
「ん? どうした」
麻衣子を窺った。
彼女は僕を見つめたまま口を閉ざしている。
「行くべよ」
僕はもう一度自動販売機を指さした、今度は爽やかな笑みを伴って――。
「え。ちょっと待って」
麻衣子は驚いたように目を見開いた。「話って……それだけなの?!」
僕は黙って頷いた。
ホントは違うはずだったけど、いまはそうなっちゃったんだから仕方がない。
麻衣子はそんな僕の顔を覗き込むように見ていた。
しかしそれ以上の言葉が出てこないと悟ったのか、やがて静かに視線をハズし、ため息を吐いた。
「ほんと、もったいぶっちゃってさ……」
麻衣子は口元に笑みを浮かべて呟いた。
決してもったいぶってるわけではない――。
そう反論したかったが、僕は敢えて口を閉ざした。顔を背け、聞こえないふりを押し通した……岡崎への呪詛を心の中で唱えながら。