【009】 真剣勝負
ワインドアップからの初球。
吉村のミットを目がけて投げ込んだ渾身のストレート――。
カキィッ!!!
「え゛。」
僕は弾かれたように振り返ると、打球の行方を目で追った。
初球をフルスイングした岡崎の打球、快音を残してレフトに上がった大飛球はポール際で大きく左に切れていった。
〈危ね……〉
僕は胸を撫で下ろし――
ちっ。
「はあ?」
舌打ちが聞こえて振り返ると、岡崎が無表情で打球の行方を見つめていた。
僕は耳を疑った。
〈……ちょっと待て。チじゃねえだろ、チじゃ?!〉
この場面で舌打ちしたいのは間違いなく僕のハズだ。
せっかくこの日のために周到な準備を重ねてきたというのにたった一球で終わっちまうトコロだったじゃねえか――
「OK。ナイスボールだ」
吉村がボールを投げてよこした。マスク越しにも苦笑いしているのが窺える。
僕はボールを引ったくるようにして受け取ると、グラブをハズし、岡崎に背を向けたまま両手でボールを捏ねた。
〈まったくふざけやがって。コレだから空気の読めない男は……〉
苛立ちを鎮めるように頬を膨らませて細く息を吐きだすと、腰を屈めて指先でロージンを優しく撫でた。
いきなりの初球攻撃にむかついたが、考えてみればこれは真剣勝負。甘いボールがあれば狙っていくのは当然……とは言っても僕に対してのリスペクトみたいなものがあってもいいんじゃないかとも思うが。
キャッチャーに視線を戻すと、二球目も吉村の要求はインコースの低めだった。
平静を取り戻した僕は、一球目と同じくゆっくりと投球モーションに入った。
――バシィッ!!
「ボール!」
「は? ストライク、すよね? いまの」
「ボール。」
峰岸さんは僕の抗議をはねのけた。
渾身のチカラを込めたストレートは初球とほぼ同じコースを掠めたハズだが、岡崎のバットは微動だにしなかった。
僕は横目で岡崎の様子を窺った。
いまひとつナニを狙ってるのか読めない。もっともナニも考えていないという可能性も否定できないが。
三球目。
吉村のミットはアウトコースの高目にあった。
ここまでの配球はブルペンでの打ち合わせ通りだった。
岡崎というバッターは低目に強い。
アウトコースの低めは意外なほど器用に合わせてくる。
岡崎のようなスラッガーと対峙すると、ピッチャー心理として変化球を外に落として、というような安直な考えをしがちだが、それで痛打を浴びたピッチャーを甲子園では何人も見た気がする……当然テレビで、だが。
逆に高目のボールには意外な脆さを見せることを僕と吉村は知っていた。
事情があって変化球という選択肢を持ち合わせていない今日の僕。
そんな僕に、岡崎を討ちとるボールがあるとすればインハイ。外を意識させておいてのインハイのストレート以外には思いつかなかった。
そういうわけで今の二球は外に意識を向けさせるための布石でもあった。
プレートの土をスパイクで払い、大きく息を吐く。
マウンドからバッターを見下ろす――。
岡崎は相変わらず無表情で静かな視線を僕にぶつけてくる。闘争心すら感じないその眼に見つめられるウチ、ふと窮屈な感覚に見舞われ、目を逸らした。
急にストライクゾーンが狭くなったような気がして戸惑いを覚えた。
僕はいったんプレートをハズした。
岡崎から目を逸らし小さく息を吐いた。岡崎に気圧されている自分に気付き、少し笑った。
〈やっぱそれくらいじゃないと……三年も待ったんだから〉
僕は一度天を仰いでから、吉村に視線を戻した。
そういえば山路さんに言われたことがあったっけ。『ストライクゾーンが広いか狭いかなんて全然関係ない。おまえの仕事はミットを目がけて投げるだけ……ましてやバッターボックスにいるのが誰であるとか、そんなことは一切関係ないんだ』と。
しかし……いまは大いに関係あるよな。だいたい僕はコイツと勝負するためだけにココに立ってるワケだし、しかもコイツにだけは絶対打たれたくないし――。
僕は気を取り直し、もう一度吉村のミットに意識を集中させた。
そして岡崎を静かに見据えた。
「……打たれるわけがない」
小さな声で自らに言い聞かせると、ゆっくりと振りかぶった。ワインドアップから思い切り腕を振りきった。
――バシィィィ!!
岡崎のバットは空を切った。
僕の投じた渾身のストレートが吉村のミットに収まった瞬間、また岡崎の舌打ちが聞こえたような気がした。
「OKOK!」
吉村は座ったままボールを放ってきた。
取りあえずこれで追い込んだ。カウントはツーストライクワンボール。
ベンチがざわめいている。
逆に僕は、自分でも不思議なくらいに落ち着いていた。
岡崎の表情にも変化は見られない。不気味なくらいに穏やかな表情……扱いにくい男になったということだけは間違いないらしい。
吉村はアウトコース低目にミットを構えた。
ボールになっても問題ない。寧ろストライクである必要はない。
バッターボックスの岡崎は、相変わらずバットをゆったりと揺らしている。
僕は腰をかがめ、ロージンを指先で摘み上げてから地面に落とす。
そしてキャッチャーに向き直ると、意識して背筋を逸らしバッターを見下ろす。
岡崎は静かな眼差しで僕を見ている。
僕はその目を強く睨み返した。今度は目を逸らさなかった。
すると岡崎は僅かに頬を弛め、タイムを取り、打席をハズした。そして絞るようにしてバットのグリップを握り直すと、打席に戻った。
再びバットを構えた岡崎は高く掲げたバットをゆったりと揺らした。
僕は焦らすように間合いをはかり、ゆっくりと振りかぶった。
そして吉村のミットだけを見据えて思い切り腕を振り下ろした。
――キン!
やや振り遅れた岡崎のバットを掠めたボールは、吉村のミットからこぼれホームベースの上に転がった。
ファール――。
「悪い! 捕れたよな、いまの」
ボールを返してきた吉村がマウンドに歩み寄ってきた。
僕はソレを右手で制すると「OK、OK。予定通り」と言って小さく笑った。
岡崎の様子を横目で窺う。
ファールチップの瞬間、僅かに動揺のいろを見せたが、それも一瞬だけでいまでは何事もなかったようにバットのグリップを静かに見つめている。
カウントはツーストライクワンボールのままで、次が五球目。
〈さあ、どうすんべえか?〉
僕はセンター方向を振り返った。
風は逆風。でもこのグラウンドにしては弱い風だ。
「さっさと終わりにしちまえよ」
サードに入っている亮がグラブを腰に当てたまま言った。
僕は右手を軽く挙げてそれに応える。
各ポジションに散らばった懐かしい顔。
中学三年時の全国大会優勝からもう三年。それぞれ別々の道に進んだけど、こうやって声を掛けたら集まってくれるなんて……結構いい奴らだ。
しかしライトを守っている奴……その顔にだけは見覚えがなかった。誰だっけ、おまえ?
まあそれはともかく……ここから始まった僕の硬式野球。
それを最後も同じこの場所で、当時の仲間に見守られながら終わりにできるなんて、結構しあわせなことかもしれない。
僕は大きく息を吐き、キャッチャーに向き直った。
吉村の要求したコースは内角の高目。勝負球として考えていたインハイを要求してきた。
カウント的にはまだ遊ぶのもアリだったがそれは僕らしくない。追い込んだら即勝負……いつだってそれでやってきた。
僕は小さく頷いた。
そして一度足元に視線を落とすと、ゆっくりと振りかぶった。
ラストボール。
僕の想いが詰まった最後の投球。
振り上げた両腕のあいだから見える景色を目に焼き付けるように見開くと、渾身のチカラで腕を振り抜いた――。