【007】 野球日和
日曜日の辻堂駅は人も疎らだった。
最寄りの駅でありながら、最近ではあまり利用することもないこの場所まで、僕はバスに乗ってやってきた。
もちろんバスに乗ったのも久しぶり。もっぱらバイクで移動することの多い僕にとって、バス特有のゆっくりとした移動手段はそもそも性に合わなかったし。
今日は朝からよく晴れていた。
絶好の野球日和……僕の野球人生を締めくくるには最高の天気だ。
左手に持ったバッグには、いつもと同じユニホーム一式とグラブとスパイクが入っているだけ。
なのにいつもより重く感じられるのはおそらく気のせい……きっとそうに違いない。
改札をくぐり、やがてやってきた電車に乗り込むと、一番先頭の車両に移動した。
先頭の車両には乗客が三人しかいなかった。僕は真ん中あたりの席に座ると、足の間にバッグを置いた。
電車に揺られながら窓の外を眺める。
さっきからアタマの中を駆けめぐる複雑な思い。
それは重荷から解放されるという安堵と一抹の寂しさ――。
小学生のとき、父に連れられて野球を見に行った。すべてはそこから始まった。
カクテル光線に照らされたグラウンドがただ眩しくて、そこで躍動する選手たちに憧れをの気持ちを抱いた。
プロ野球選手になりたいと思った。いつかそのマウンドに立つことを純粋に夢見た。
藤堂さんと出会い『江東球友クラブ』で硬式野球に巡り会った。
そこで勝つ喜びを知り、同時に勝ち続けることの重圧と負けることの痛みを知った。
仲間ができた。ライバルができた。
そして……たくさんの人とたくさんの約束をしてきた。守れない約束を幾つも幾つも重ねてきた。
夢にのめり込みすぎた僕は、夢から醒めても現実を受け容れられないままに彷徨い……期待を裏切り、約束を破るそのたびに決して消えない大きな傷を胸に残した。
……とまあイロイロあったが、それもいい思い出だよな、いまとなっては。
電車が藤沢駅に到着したとき、麻衣子はホームの先頭の方にポツンと立っていた。
彼女は僕の姿を認めると柔らかい笑みを浮かべ、僕はそれに応えるように軽く手を挙げた。
ドアが開き乗り込んできた彼女は、いつもと同じように視線をやや落としたまま歩み寄ってくると、僕の隣に腰を下ろし「おはよう」と言った。
オハヨウ――。
僕もいつも通りにそう応える。
「ふ~ん」
麻衣子は座席にもたれ、目だけを僕に向けた。
「今日は……気合い入れてきたんだ?」
「は? ドコがよ。べつにいつもと同じだろ」
僕は鼻で笑い、麻衣子の頭越しに窓の外へ目をやった。
ぼやけた視界に映る彼女はナニか言いたげに見えたが、口を開くことなくただ微笑を浮かべていた。
木場駅に着いたのは十一時を少し回ったトコロだった。
予定よりも随分早い時間だ。
「ここからちょっと歩くけど、いいべ?」
麻衣子は頷いた。
ココから潮見のグラウンドまではちょっと距離がある。
フツウはバスを使うトコロなんだろうけど……なんとなく歩いてみたかった。中学生のころの僕が通い詰めた懐かしい道を麻衣子と二人で歩いてみたかった。なんて思ってたんだけど……。
「なあ。ナニ持ってきたの? それ」
僕は麻衣子が肩から掛けたバッグを顎で指した。
さっきから横を歩く彼女のバッグが僕にぶつかって非常に邪魔だった。
なぜ女はこうも意味のない大荷物を持ちたがるのか……その辺が僕にはどうも理解ができない。だいたい今日なんか、麻衣子の場合は手ぶらで来たってなんの問題もないはずなのに――
「サンドイッチ……」彼女は呟いた。
「は?」
「サンドイッチ、好きだったよね? だから作ってみた」
彼女はにっこりと頷いたが……そういうことは先にいうべきだろ、どう考えても。
「あ。おれが持ってくよ」
重かったべ――。
僕は平気だという彼女から無理矢理バッグを取り上げた。
木場駅から歩くこと三十分。
潮見のグラウンドでは、後輩たちが練習をする声が響いていた。活気に満ち溢れたその声は、僕の時間を中学生だったあのころに戻してくれたみたいだった。
峰岸さんは内野ノックをしていた。
彼は僕の姿をみとめると、手にしていたノックバットをコーチらしき人に渡し、真っ直ぐにコチラに向かって歩いてきた。
「おはようございます!」
僕は直立し、アタマを下げた。
「おう。晴れてよかったな」
峰岸さんはあのころと同じ穏やかな笑顔だった。
「まだ誰も来てないぞ?」
「はい、ちょっと早めに来ました。練習も見てみたかったですし」
僕はグラウンドへ視線を向けた。
「まあ、コイツらも『成京の岡崎が来る』って言ったら喜んじゃってよ、大騒ぎよ」
「でしょうね」
僕には他に言葉が見つからなかった。
「取りあえず、しばらくベンチで座ってろよ。そっちのお嬢さんも一緒に」
峰岸さんはそう言って両目を瞑ると、小走りにグラウンドに戻っていった。
「あの人が麻柚さんのお父さん?」
隣に座った麻衣子が峰岸さんの姿を目で追いながらそう言った。
「ああ。すっげえいい人だよ。ウインクができないけど」
「はは、なにそれ」
彼女は笑ったが、峰岸さんはウインクができない。そして……あんなにいい人はいない。少なくとも僕にとってはいい印象しかない。
「じゃあ、あの人が前に言ってたコーチの人?」
そういった彼女の視線のさきにはノックバットを持った若いコーチがいた。だけど僕の知らない顔だった。
「コーチって……山路さんのこと?」
「うん」
彼女は笑みを浮かべたまま、元気に頷いた。
「山路さんはいないよ。随分前に死んじゃったんだ」
なるべく重くならないように言った。
僕にとっては、山路さんもいい印象しかない人だった。結局、彼と交わした約束を僕は守れなかったけど。
「杉浦あ――!」
峰岸さんが僕を呼んでいた。
僕は麻衣子をベンチに残し、グラウンドに飛び出した。
後輩たちに簡単に紹介され、僕も簡単な挨拶をした。
彼らは『杉浦優』という名前を知っていた。
一応、江東球友クラブが全国制覇をした当時のエースと言うことで知っていてくれてるらしい。
それはそれで嬉しい気持ちもあったのだが、この後登場するであろう岡崎、吉村といった甲子園組の前座のような気がしてなんとなく複雑でもあった。
「あいさつなんかさせられちまったよ」
ベンチに戻った僕は、照れ隠しに顔を顰めた。
僕がベンチに腰を下ろすと、麻衣子は「さっきはヘンなこと聞いちゃってゴメンね」と呟いた。
麻衣子はさっきのことを気にしているようだった。僕としてはそうならないように軽く応えたつもりだったんだが……。
「何年も前のハナシだよ。それより……食っていい?」
そういって遠慮気味に麻衣子のバッグを指さした。
「どれがいい?」
彼女は包みを広げると、何種類かのサンドイッチがあることに気付いた。
「え、なんだっていいよ、どれでも同じだべよ――」
僕は無関心をよそおって言った。なんとなく後輩たちの視線が気になって妙な意識が働いていた。
しかし彼女はまったく不満そうな素振りは見せず、「じゃ――」と言って一つをつまみ上げると、僕に差しだしてきた。
僕は麻衣子から手渡されたタマゴサンドを黙って頬張った。
「お……美味いじゃん」
「そーかな……?」
麻衣子は少し照れたような笑みを浮かべた。
サンドウィッチは美味しかった。
まあ、パンに何か挟んで切ってあるだけだから誰でも作れるとは思うけど。ただ彼女が僕のために作ってきてくれたということが嬉しかった。早起き(?)して用意してくれてるところを想像するだけで、僕のテンションはメーターを振り切りそうな勢いで上昇していった。だからといってそれを顔に出すような愚は犯さないが。
グラウンドを駆け回る後輩たちを眺めながらサンドイッチを頬張った。
いまナニかを口にするとワケのわからないことを口走ってしまいそうで……僕は黙々と顎を動かした。意味もなく眉間に皺を寄せたりしながら。
「――ごちそうさまでした」
サンドイッチをすっかり平らげた僕は、麻衣子に向かって恭しくアタマを下げた。
「さて……と、そろそろ着替えちまうべかな」
僕はバッグの中からユニホームを引っ張り出した。
午前中の練習が終わったグラウンドには後輩たちの姿はなかった。彼らはベンチの脇で弁当を広げているが……もしかして僕らがベンチを占拠しちゃってるからか?
僕の着替えが終わった頃、グラウンドに顔を出したのは安藤だった。
一塁側ベンチの後方から姿を現した安藤は、三塁ベンチにいる僕を覗き込むように見ていた。
僕は軽く手を挙げた。
奴はそれを待っていたかのようにコチラに向かって走り出してきた。
「おお~、ホンモノだ。なにやってたんだよ、おまえ~」
安藤は僕の隣に飛び込んでくるように腰掛けると、僕の耳を引っ張ったりし始めた。コイツも相変わらずで安心した。
「そんなことよりおまえ、さきに挨拶してこいよ」
僕は峰岸さんを親指で差した。
安藤は舌を出すと、バッグをベンチに残したまま峰岸さんのもとに駆けだした。
安藤と会ったのは高校一年の春以来だった。確か明桜のグラウンドで行われた練習試合で顔を合わせたきりだ。
「わりいわりい――」
ベンチに戻ってきた安藤は徐にバッグからユニホームを取り出し、着替え始めた。
安藤のユニホームには見覚えがあった。そういえばコイツも甲子園組だったんだ。
「お前ってプロに行くの?」
僕はなんとなく聞いてみた。
すると安藤は言葉の意味を探るような目を僕に向けてくると、頬を弛めて「行くよ」と言った。
「ま、指名されれば、だけどな」
そう言って笑ったが、それは間違いなく『そういう話』が来ているという余裕にも感じられた。
安藤は甲子園に三回出場していた。もっとも全部初戦敗退だったが。
ジッサイあのショボイ投手陣でよく甲子園に出れたモンだと感心した。
しかし安藤はその三試合で強烈な輝きを放っていた。
甲子園通算三試合で計14打数13安打5盗塁。とんでもない男に育ったモンだ。
「で……どなた?」
安藤は僕に向かって小声で言った。しかしその視線は麻衣子を捉えていた。
「ああ。まあオレの保護者みたいなもんだよ……な?」
麻衣子にそういうと、彼女は曖昧に首を傾げた。
安藤は不思議そうな目で僕と彼女を見比べていたが、やがて続々集まってきた昔の仲間を見つけるとそっちに興味が移ったようで、さっき僕にしたのと同じように駆け寄って耳を引っ張ったりしていた……ナニがしたいのかまったくわからない。
しばらくして駐車場に黒塗りの1boxが入ってくるのが見えた。
ガラスも真っ黒で中の様子は窺えないが、どことなく危なげな雰囲気を醸し出している……近寄りたくないな、絶対。
しかしスライドドアが開き、姿を見せたのは意外な顔だった。
「おお、待った?」
既にユニホーム姿の亮は、僕に向かって手を挙げ、麻衣子に向かってアタマを下げた。そして――
「え。斎藤さん……?」
亮に続いてクルマを降りてきた人に見覚えがあった。というより忘れるハズもない。
ビヤ樽のような腹を揺らして降りてきたスーツ姿のおじさん……京葉工科大学野球部総監督の斎藤さんだった。中学時代の僕に練習場所を提供してくれた人でもある。
「――元気そうだな。」
斎藤さんは大きなハラを揺らしてそういったが、僕は言葉が出てこなかった。
突然現れた懐かしすぎる顔に僕のアタマは混乱していた。封印してきた思い出が一気に溢れだして、心拍数が一気に上昇していた。