【006】 延長戦
現国の補習を受けていた用田が寮に戻ってきたのは午後七時を回った頃だった。
食堂に直行して晩飯を済ませた用田が部屋に戻ると、そこには同部屋の吉村が部屋の中央で胡座をかき、なにか手紙のようなモノを開いていた。
「なに読んでんだ?」
用田が問いかけると、吉村は手にしていた手紙を封筒ごと用田に向かって突き出した。
それを受け取ると、用田は封筒に書かれた差出人を見て「あ。」と言った。
そこには音信不通だったライバルの名前があった。
「十月十八日正午、潮見に集合。岡崎と決着をつける。遠いところ悪いけどヨロシク。……て、なんだこりゃ?」
用田は声を出して手紙を読み上げると、怪訝そうに片眉を上げた。
吉村も不思議そうに首を傾げた。
「――なるほど。吉村についてはわかったが……用田は関係ないだろ?」
名嘉村が一瞥すると、用田は肩を落とし、隣にいる吉村に縋るような視線を向けた。
吉村から名嘉村に提出された『一時帰宅願い』。
そこには一通の手紙が添えられていた。
差出人は、江東球友クラブの元エース・杉浦優。
中学三年間で二度の全国制覇を果たした早熟の天才投手。しかし高校入学直後、中央球界から完全に姿を消してしまった幻の剛腕。
その杉浦から吉村に届いた招待状――。
「おれも行きたいです……」
用田は消え入りそうな声で言った。
「だからよぉ。オマエはムリなんだよ……」
名嘉村が言うと、用田は項垂れてこれ見よがしに大きくため息を吐いた。
〈おいおい……ため息を吐きたいのはオレの方だぞ〉
名嘉村は小さく息を吐いた。
用田の気持ちはわからないでもない。しかしいま、二人を揃って東京に行かせるのは危険だった。
ドラフトを控えたこの時期にお忍びで上京――。
勝手な憶測を呼ぶのは目に見えている。かといって大っぴらに行かせるのはもっと問題があったが……。
〈杉浦か。まったく面倒な男だな……〉
名嘉村は手紙を眺めたまま顎をなでると、もう一度小さく息を吐いた。
***
岡崎準基が寮に戻ったのは午後九時すぎだった。
「あれ。戻ってたんだ」
寮の入口にある自販機の前で岡崎は声を掛けられた。
振り返るとそこに立っていたのはジャージ姿の弟だった。
「なんだ。誠二かよ」
飲むか――?
岡崎が自販機を指さすと、誠二は嬉しそうに頷いた。
「毎日大変だね。太田さんの話って長いじゃん」
誠二がそう言って苦笑いを浮かべると、岡崎も無言で笑みを浮かべた。
監督の善波、部長の太田とのミーティングは今月だけで三度目だった。
しばしば深夜に及ぶことのある岡崎の進路指導を兼ねたミーティングだったが、太田がいなかった今日は思いのほか早く解放されることとなった。
「お前は素振りか?」
岡崎は弟が手にしたバットを一瞥すると、鼻で笑った。
「おれが見てやろうか?」
「いえ、結構であります。前主将と自分はスタイルが違いますから――。」
誠二が戯けて敬礼をすると、岡崎は破顔して誠二の坊主頭を掻きむしった。
成京学館では岡崎の弟・誠二をキャプテンとした新チームが既に始動していた。
エース・辻倉智哉、一年生左腕の露木裕之という左右の二枚看板と鉄壁の守備を誇る新チームは、秋の都大会でここまで無失策で無失点。
強打を売りにした前チームから、守りのチームへと様変わりしていた。
「なんでもいいが頼むぜ。三枝さんを喜ばしてやってくれや」
岡崎は穏やかな表情で誠二の肩を叩いた。
「ま、兄貴たちがやり残したことは、俺たちが引き受けたからさ――」
誠二は手にしていたバットを持ち直すと、グリップを兄に向けた。
「その前に国体だけは獲ろうよ。絶対にさ」。
秋の国体――。
甲子園で準優勝した成京学館の現三年生は、国体への出場権を獲得していた。
本来であれば引退しているはずの岡崎たち三年生だったが、最後の大会に備え、新チームに混じり練習に参加していた。
甲子園ベスト8以上のチームに与えられるご褒美。延長戦のような大会。しかしそれは、いまの岡崎にとってどうしても獲りたいタイトルでもあった。
「たぶんさ……」
誠二が口を開いた。
「それが俺たちが同じユニホームを着る最後の大会――」
「やかましい。」
岡崎は言葉を遮ると、誠二の額を軽く叩いた。
野球を始めて以来、常に陽の当たる道を歩んできた兄と、その背中を追ってきた一歳違いの弟・誠二。
小中学生時には揃って全国の頂点に立っていた彼ら兄弟だったが、高校ではその栄冠を手にすることは叶わなかった。
ご褒美のような最後の大会。それは兄弟にとって高校で頂点に立つ最後のチャンス、そして二人が同じユニホームを着て三遊間を守る最後の機会でもあった。
「――勝って終わろうな。」
岡崎は呟いた。誠二はその言葉に小さく、しかし力強く頷いた。
「ま……とりあえずその話は置いといてよ――」
岡崎は目を細めた。「おまえんとこにも来てるか? 杉浦から」
「は?」
誠二は一瞬警戒するような素振りを見せたが、やがてナニかを思い出したかのように、声を上げて笑い出した。
「そういや来てた。オマエの兄貴を血祭りにあげてやる!……たしかそう書いてあった」
誠二は杉浦の声を真似た。
「ったく、あのバカ……ふざけんなよ、なにが血祭りだ!」
絶対、初球で仕留めてやる――。
顔を真っ赤にして憤る兄を見て、誠二はまた笑った。
兄が杉浦との対決をずっと望んでいたことを誠二は知っていた。
杉浦のストレートを打つためにキツイ練習に取り組んでいたことも、杉浦との対戦が叶わないことを悟り、風呂場で涙に暮れていたことも――。
「まったく、あのバカはホントに身の程知らずだよな。いまさらオレと勝負しようなんてよ――」
岡崎は喋り続けていた。
いつもは寡黙な兄のあまりの饒舌ぶりに、誠二は思わず頬を弛めた。
「でも、久しぶりに見たかったなあ、杉浦くんのストレート――」
誠二は残念そうに呟いた。
成京学館は都大会を勝ち進んでいる真っ最中だった。さすがに主将の誠二が抜ける訳にはいかなかった。
「ま、心配すんな。ちゃんと打って――」
「誰が兄貴を応援してるって言ったんだよ?」
誠二が言うと、岡崎は拗ねたように顔を顰めた。
「でも……なんでいまなんだろ?」
誠二は不思議そうに呟いた。
「ん?」
「いや、なんでこんなに慌ただしい時期を選んだんだろうと思ってさ」
確かに誠二の言うとおりだったが――
「さあな。」
岡崎にも見当がつかなかった。
しかし彼にとってはどうでもいいことでもあった。
***
「ラスト五球――。」
僕がマウンド上で掌を翳すように広げると、キャッチャーの渡辺は右の拳でミットを叩き、アウトコースの低めに構えた。
白いプレートにかかった黒土を右のスパイクで軽く払う。
そしてミットを見据え、そこに強く意識を集中させ、ゆっくりとモーションに入った。
ビシィッ!!
ミットに収まったストレートは一ヶ月前とはまるで違うボールに思える。
体重のノリがいいのは、新しく整備されたマウンドのお陰かもしれない。でも、僕自身も本来の投球フォームを思い出しつつあるような気がしていた。
高校球界屈指のスラッガー・岡崎準基。
いまの僕のボールが奴に通用するのか、正直言ってまったく見当がつかない。
それでも僕はストレートを投げ込むだけ。僕にできることはキャッチャーのミットに集中して思い切って腕を振るだけだ。
引退したはずの僕が迎えた延長戦……それも明日で終わる。
決着の瞬間――。それは確実に近付いていた。