【004】 挑戦状と招待状
走り込み中心だった僕の練習メニューは、シャドーと投げ込みを中心としたメニューにシフトしていた。
ブルペンでは指先の感覚を取り戻すことに重点を置いた。そのために投球数も飛躍的に増えていた。
以前まで常に頭の片隅にこびり付いていた肩の痛みに対する漠然とした不安はもうない。
肩を休めていたこの三年間という時間は、僕から肩の痛みを丸ごと取り除いてくれた代わりに、チームメイトに対する罪悪感という厄介なモノを残していった。
僕はソレを振り払うように、いままで以上に練習に真剣に取り組んでいた。
「シートの準備、できました。お願いします!」
僕を呼ぶ柴田の声に手を挙げて応えた。
ブルペンに佐々木を残し、キャッチャーの渡辺を連れてグラウンドへ向かう。
納村はバックネット裏でいつものように腕を組んで立っていた。
シートバッティングでの登板は、いまの僕にとっては最も重要な練習と言っても良かった。唯一といえる実践的なこの投球機会は、ブルペンでの投げ込みより何倍も意味があるように思っていた。
「おれの方はOKです」
投球練習を終えて納村に合図をした。
納村が設定したシチュエーションは、一死一塁、ワンストライクツーボール。
打席には吉田が入った。
中学からの硬式経験者である彼は、去年からのレギュラーの一人でもあった。新チームでは中軸を担う『やってもらわなきゃ困る』選手の一人だった。
内野は完全に併殺を前提にした守備を敷いている。
キャッチャーのミットはインコースに固定されている……僕は周りに悟られないよう、小さく首を傾げた。
ゆっくりとセットに入った僕は、一塁ランナーを肩越しに牽制しながら一球目を投じた。
――コキッ
バッターの窮屈なスイングから放たれた打球は、鈍い音を残して僕の目の前に転がってきた。
僕は素早くマウンドを降りるとボールを掴み、反転して二塁へ送る――。
結果は最悪のダブルプレー。
吉田は一塁を駆け抜けたところでヘルメットを脱ぎ、天を仰いだ。
「ちょっと、タイム。」
僕はベンチに戻る吉田を呼び止めた。
「ナニがしたいんだよ、おまえ」
僕は立ちつくす吉田を問いつめた。
「あ、はい。え~……エンドランだったので一、二塁間を狙ってたんですけど……」
吉田は消え入りそうな、自信なさそうな、とにかく弱々しい声で囁いた。
「バカじゃねえのか……」
僕は空を仰いだ。
「おまえよお、つうかおまえだけじゃねえんだけどよ――」
僕は鼻で笑った。「もうちょっと考えてプレーしたらどうよ」
吉田はキョトンとしている。他の奴らも同じ様な反応をしている。
「だいたい『狙ってた』って……狙って打てる技術があんのかよ、オマエらに」
僕は強い口調で言った。
吉田に対してというより、ココにいる全員に対して。
しかし僕の問いに答える者は誰一人としていなかった。
全員がその場に立ちつくし、誰かが応えるのを身を潜めて待っている――。
「てめえらなんか喋れよ! あるのかって訊いてんだよ!!」
僕は声を荒げた。
いい子過ぎる後輩たちになぜか苛立っていた。酒井や坂杉、もしくは俊夫のように批判の矢面に好んで立つバカがいないことが言いようもなくさびしかった。
「すみません……」
吉田は泣き出しそうな顔をしていた。他の奴らは俯いている……グラウンド全体が重い空気に包まれてしまった。
「――ったく。しっかりとスイングしろよ。打球の方向なんて『それから』のハナシだ」
百年早え――。
心の中で呟きながら、あらためて思い知った。
このチームに必要なのは逆境にもめげない折れない心、図々しいくらいのタフさを持った強いリーダーなんだと。
そしてもうひとつ……
僕という人間は、一度怒りを口にしてしまうと歯止めが利かなくなる……というか、堰を切ったように怒りが止めどなく湧き上がってきてしまう非常に厄介なタイプなんだということに。
「杉浦、ちょっといいか?」
練習後、僕は納村に呼び止められた。
だいたいの用件はわかっていた。今日のことに関しては僕としても少し言い過ぎたかなとは思っていたし……説教だな。
納村の後について部室に入ると、ソコで待っていた柴田が僕に向かってアタマを下げた。
「早速だが、シートバッティングのことなんだが――」
「あ……すいませんでした。また余計なコト言っちゃいました」
僕は深くアタマを下げた。
最近の僕は「小言が始まる前に謝る」というコトを憶えつつあった。
「いや、そうじゃなくて――」
一瞬、言葉を呑み込んだ納村だったが、柴田と顔を見合わすと訥々と話を切り出してきた――。
「――つまり、吉田は指示通り一二塁間を狙った。なにが悪いんだ?」
納村は真剣な表情だった。
「いや……あの場面で右方向っていうのはアリだとは思いますよ……」
僕は言葉を濁した。
しかし納村と柴田は僕の次の言葉を待っているようすだった。僕は仕方なく口を開いた。
「今日の練習、いえ以前からそうだったのかもしれないですけど……なんか違和感があったんですよね」
「違和感……?」
「ええ。なんか練習のための練習っていうか……あの場面なんて全部がミエミエだったし。バッターが右方向狙ってるのも、バッテリーが併殺狙いでインコースを突いてくるのも。内野もボールが来る方向をハジメから決めつけちゃってるような……試合じゃ絶対に通用しない感覚なんだろうなとか思っちゃいまして――」
納村が手帳に走らせていたペンを止め、大きく息を吐いた。
「具体的にはどうしたらいいと思う?」
「そうスね……本気でやったらいいんじゃないですかね。ピッチャーもバッターもランナーも守備の奴らもみんな本気でアタマを使って……ダマシ合いでいいと思うんスけどね」
納村の眉間に刻まれた皺がさらに深くなったような気がした。しかし、それに構わず言葉を続けた。
「それにどうせ『右に打つ技術』なんてないんだから、思いっきり打ったらいいんじゃないスかね。強い打球ならハジくこともあるんだろうし……。ファーストやらせてもらって思ったんですけど、左バッターが思いっきり引っ張ってきた打球って思ってたより怖いスよね。正面の打球なんて前に落とせばヨユウみたいに言われますけど、イレギュラーして○ン○ンに当たったらどうしようとか一瞬よぎりますよ、ホントに」
僕は話しながら自然と股を閉じた。
納村と柴田も一様に同じ反応をした。彼らも『経験済み』らしい。
「今年のチームは、技術的にはまあまあ高い選手が多いと思うんスよね。でもみんな技術に走りすぎてるというか、器用な選手になろうとし過ぎてると思うんです。まあ、それについては僕らの代も同じだったと思いますが。だから県大会までは安定して出れるけど、そこから先には進めないんじゃないスかね。まあ、上に行けば行くほどゴマカシの技術は通用しなくなりますから」
納村は腕を組み、大きく息を吐いた。
その表情は相変わらず何を考えてるのか読みにくかった。
「それにみんな大人しすぎます。まじめな奴が多いのはいいんですけど、もっとバカになって盛り上がる奴がいてもいいんじゃないかと。柴田と佐々木と吉田は、もっとチームを引っ張る意識を持ったらいいじゃないかと。まあ、スタンドプレーに走らない程度に、なんですけど――」
僕の言葉に、納村と柴田が顔を見合わせた。
「もっと泥臭い野球……僕としてはその方がウチにはあってると思います。きれいな野球は似合わないんじゃないかと」
弱小チームの粘りや精神力がときとして強者に大きなプレッシャーを与えることもあるということを、僕は中学時代に身をもって経験していた。そしてそれは初めて試合を見たときの『茅ヶ崎湘洋高校の野球』に通じるモノがあった。
「練習から意識を変える必要がある……そういうことか?」
納村は言った。
「はい。……あと、紅白戦なんかもどんどんやったらいいんじゃないスかね」
「紅白戦か……」
納村はペンの尻で手帳を叩きながら、息を吐きだした。
「試合慣れしてないヤツも多いですからね……ココには」
納村もその一人……僕は思ったが、口にするのは自重した。
「なるほど。他の部との兼ね合いがあるから簡単にはいかないが……」
紅白戦か――。
納村は何度も反芻するように繰り返した。
他の部との兼ね合いってのは、専用グラウンドを持たない公立高校の悩みだったが、そこは顧問に頑張ってもらうしかない。
「とにかく他の部にも当たってみよう。まずはそれからだな」
じゃ、お疲れ――。
納村は膝をポンと叩き、立ち上がった。
「そういえば、杉浦――」
部室から足を踏み出した納村が、コチラを振り返った。
「はい?」
「明日からブルペンは使用禁止だ」
「え。」
僕は絶句した。納村が喋れっていうから意見を言っただけなのに――
「工事に入るんだよ」
「は?」工事って……なんの?
「お前が言ったんだろ。マウンドが低いって」
予算がないから大変だったんだぞ――。
そう言った納村は今までに見せたことがないような笑みを浮かべていた……。
どういうことなんだ……?
僕はこの人のことがマスマスよくわからなくなってきた。
***
練習が終わって帰宅したとき、僕はハラが減りすぎて貧血のような状態だった。
帰り際に納村に捕まり、思いのほか長話に付き合わされたせいだ。
「ただいま――。」
玄関を開けると、幸子が居間から顔を出した。
「あ~あ、ちょうどいま電話を切ったところなのに」
あ~あって……知らんがな、そんなの。
僕は無言のまま靴を脱ぎ、彼女の前を素通りした。
「誰からか聞かないの?」
「麻衣子だろ」
「違うわよ。岡崎くんってコ」
「え。岡崎……?」
「ホントにいま切ったばっかりだから」
幸子はいまを強調するように言ったが、僕にとってのいまはメシのこと以外考えられない。本当は先に風呂に入りたかったが、いまはとにかくメシだった。
風呂から出てくると、幸子はまだ居間でテレビを見ていた。
僕は冷蔵庫からポカリの缶を取りだすと、缶を振りながら「電話番号って聞いてる?」と声を掛けた。
幸子は「ソコにメモしてある」とテレビを見たまま、電話の方を指さした。
メモ帳に残された電話番号……それには見憶えがあった。
〈……実家だな、これ〉
僕は受話器を上げると、懐かしさに口元を弛めながら番号をプッシュした。
『――はい』
出た。
ワンコールで出たこの声は間違いなく岡崎だった。
「コホッ。え~コチラ、週刊――」
『杉浦だろ』
岡崎は冷たく言い放った。
「……ナンでわかった」
『こんなくだらないコトすんのは、お前しかいない』
岡崎は相変わらずだった。
冗談の通じないというかなんというか……それはそれで懐かしいカンジがした。
「電話もらったろ?」
『おう、手紙読んだからよ。相変わらず自信過剰っつうかなんつうか……』
岡崎が苦笑いしてるようすが受話機ごしにも伝わってきたが、僕に言わせれば「オマエにだけは言われたくない」ってカンジだ。
岡崎と話をしたのは高校に入ってから初めてだった。べつに避けていたわけではなかったが、僕から連絡を入れることはいままでなかった。当然、岡崎からくることもなかったのだが。
「ま、そういうことだから覚悟しとけや」
僕は穏やかに挑発した。
『ふん。返り討ちにしてやんからよ。オマエこそ覚悟しとけよ』
「まったく……言うことだけは立派だからな。用田から三振しやがったクセに……テレビで何回も見ちまったぞ」
『うるせー、オマエだろ。チェンジアップなんか教えやがって……』
すぐムキになるところも昔と変わらない。
「ま、後輩たちの前でハジかかしちゃうけど……ま、勘弁しろよ」
『バカヤロウ。てめえこそちゃんと投げられるんだろうな。しょっぱいボールだったらぶっ飛ばすからな』
「はいはい、三振した後の言い訳、ちゃんと考えとけよな――」
岡崎とのやり取りは心地よかった。
僕と岡崎の間にある空白の時間なんてなにも問題にならなかった。僕らは無防備に言葉をぶつけ合った。
僕と岡崎と亮の三人は、中学の三年間はほとんど毎日顔を合わせていたし、お互い言いたいことを言い合う仲だった。いま思えばほとんど兄弟のような関係だったんだなと思う。
同じチームで同じ目標に向かって、そして同じ夢を見て……だけど高校に進んでからの僕らは、まるっきり正反対の道を辿ってきた。
岡崎は三年間で甲子園に五回出場し、準優勝一回にベスト4が一回。そして今年のドラフトの超目玉と言われる存在になっていた。
それに引き替え僕は無名の公立校の控え選手で、結局夏の舞台に立つことがないまま引退、亮に関しては野球そのものを辞めてしまった。
だけどそんな僕に対してもアイツは変わってなかった。昔のままの岡崎準基だった。
『そういや、甲子園で阪本と今井にあったよ――』
岡崎が呟いた。
阪本は山梨の学校に行ったハズだった。今井は……青森だったかな。
中学の仲間たちはそれぞれバラバラの学校に進んでいたが、僕らの同期で一度も甲子園の土を踏めなかったのは、僕と亮そして控え投手兼内野手だった桑原の三人だけだったということを、このとき初めて知った。
その後、僕らは大雑把な近況報告をした後、どちらからともなく電話を切った。
僕は先週、中学時代の仲間全員に手紙を送った。
同期の仲間、十三人全員に「潮見のグラウンドに集まってくれ」とお願いした。
今度こそ本当に野球を辞めることを決意した僕だったが、最後にどうしてもやっておかなければならないことがあることに気付いた。
それはあの頃に交わした約束のひとつ……岡崎準基と真剣勝負する、ということだった。
そして僕にはどうしてもその場に立ち会って欲しい人たちがいた。
それは昔の僕を知る仲間たちと峰岸さん、そして……いまの僕を知る麻衣子――。
いまの僕しか知らない彼女に僕のラストピッチを見せたかった。
最後のマウンドを彼女に見守っていて欲しい――。
僕はそう思っているのだが、実はまだ麻衣子にはそれを伝えることができないでいた。
タイミングを逃して完全に言いそびれたって感じだが……さすがにそろそろ言わないとマズイよな。マジで。