第四章 【001】 再始動
甲子園出場という目標を失った僕。
神奈川県予選の初戦敗退から一ヶ月が過ぎ、僕はあらたな目標を見据えて動き出していた。
「好きにしろ――。」
納村は何の感情も窺えない表情で一言だけ呟いた。
「勝手を言ってすいません」
僕は深く頭を下げた。
敢えなく初戦で敗退した神奈川県大会、甲子園を目指した短い夏が終わってからヒトツキのちょっと。
二学期が始まった日、僕は職員室の納村のもとを訪ね「ブルペンを借りたい」とお願いした。
「あれ? 先輩、どうしたんですか?」
部室に顔を出すと、新チームの主将になった柴田が立ち上がってそう言った。
「オレも練習に交ぜてもらおうと思ってよ」
毎日っつうわけにはいかないけどな――。
僕はバッグを下ろすと、真っ白な練習着を引っ張り出した。
久しぶりに足を踏み入れた部室は、一瞬顔を顰めたくなるような独特の臭いで僕を迎えてくれた。
何気なく見渡した壁には、坂杉が書いた『打倒!! 東峰!!』の文字が躍っている。
そんなに昔のことではないのにとても懐かしい感じがするのは、多分あの試合を境に僕らの置かれた状況が劇的に変わってしまったからなんだろう。夢から醒めてしまったという現実をあらためて突きつけられ、居たたまれない気持ちになるが……まあ、それは通過儀礼のようなもんだろな。
半月前の引退試合で三年ぶりにマウンドに登った。
投げられる状態にあるということは自分でもわかっていた。
試合後に涙が止まらなかったのも、ようやく自分にとっての夏が終わったから、一区切りがついたからだと解釈していた。
しかし……ヒマだった夏休みの間に気が付いたことがあった。
あの日泣けなかったのは自分の気持ちに嘘を吐いていたから。そしてあの日泣いたのは嘘を吐いていた自分に気が付いてしまったからだってことに。
「よお。キャッチボールすんべ」
アップを済ませた僕は、二年生の渡辺をつかまえてキャッチボールを始めた。
一球一球丁寧に、少しずつ距離を延ばして――。
「じゃ、そろそろ」
ブルペンを指さした。
ココのブルペンにはマウンドが二つしかない。その一つでは佐々木が投げ込みを始めていた。
僕が近付くと、佐々木は投球を止め、直立したままコチラに向き直った。
「隣、いいか?」
「はい! もちろんス」
佐々木の返事はいつも気持ちがいい。コイツが嫌な顔をするところは見たことがなかった。
ココのブルペンのマウンドは傾斜が緩い。なぜこんなに低いのかと不思議なくらいに。
いままでは使うこともなかったから敢えて気にしないようにしていたが……実際にマウンドに立ってみるとやっぱり気になる。
ま、とりあえずは我慢するしかないけど。
「――2、3、4、5、――」
プレートからステップの位置を測り、スパイクで土を掻いた。
それからプレートの上で二回、強く屈伸をした。
「立ったままでいいよ」
腰を落としていた渡辺を立たせ、ゆっくりと振りかぶった。
――バシィィッ
ミットに収まったボールは、ブルペンに低い音を響かせた。
〈まあ……悪くはないな〉
指先の感触を確かめるように二十球ほど投げたところで渡辺を座らせた。
「あのぅ、後ろから見させてもらってもいいですか?」
隣で投げていた佐々木が投球を止め、キャッチャーの方を指さした。
「は? まあ、別にかまわねえけど」
僕は首を傾げたが、佐々木は走ってキャッチャーの真後ろに張ったネットの裏に陣取った。
〈……ちょっとセンパイらしいとこ、見せてやんべか〉
僕はボールをグラブに叩きつけると、キャッチャーのミットを見据え、ゆっくりと振りかぶった。
「先輩、スゴイっすね?! 引退試合のときも速いなあって思ってましたけど、やっぱり速いですよ!」
「そうでもねえだろ」
僕は興奮気味の佐々木に対し、敢えて冷めた口調で応えた。
「先輩が投げるところ、見てみたかったです。だって伊東なんかより全然速いじゃないすか」
佐々木は東峰のエースを呼び捨てにして引き合いに出した。
「肩、やっちゃってたからな。あと一ヶ月でも早く治ってりゃ間にあってたんだろうけど」
「え、でも――」
「あ~あ、もうちょいだったのになあ。いやあ、残念残念――」
僕は佐々木の言葉を遮り、戯けて笑った。
べつに僕を投げさせなかった納村を庇うつもりなんて全くないし、僕を使わずに負けたアイツがどう思われようと知ったハナシではない。
だけど――
夏に投げなかったのは僕自身の意志でもあったんじゃないかといまでは思っている。
もちろん自信がなかったワケじゃない。
でも全力を尽くして負けて傷つくより、安っぽいプライドを守る為に不戦敗を選んだような。
結局、いまの仲間を信頼していなかったのかもしれない。
自分一人で野球をやってるつもりだったような……いまさら気付いても遅いし、虚しい。そしてみんなに対して申し訳ない気持ちで心がいっぱいになる。
「先輩――。」
「ん?」
「僕のピッチングコーチをお願いできませんか?」
「は? 別に教えるコトなんてねえだろ?」
まあ、ないことはないが、人に教えるのはナニカと荷が重い。
「毎日じゃなくてもいいんです。ブルペンとかで気が付いたこととか、何かアドバイスしてほしいんです」
佐々木は大真面目な表情だった。
僕としてもブルペンを借りちゃってる手前、むげに断るのもナンカ悪い気がする。それにそんなに高度なモノを要求しているわけではなさそうだし……
「まあ、それくらいならいいけどよ……あんまり期待すんなよ。オレ、人に教えたことなんかねえから」
こうして僕は練習場所の提供を受ける代わりに、コーチのマネゴトも引き受けることになった。
***
「なんで?」
麻衣子は腑に落ちない、と言った表情でストローをくわえた。
「まあ、なんつうか……説明しにくいな」
「何よ、それ?」
彼女は醒めた目で僕の顔を窺った。
野球部の練習に参加することを決めたとき、真っ先に麻衣子に報告した。まあ、たまたま電話をもらったから伝えただけなんだが。
彼女はソレについて否定的な意見も肯定的な意見も言うことはなかったが、ただ声のトーンからは歓迎しているワケじゃないってことだけはわかった。
いま僕がしてること、これからしようとしてることは彼女にはおそらく理解できないモノなんだろうと思う。
だいたい僕自身が説明できない気持ちなんだから。本人がよくわかってないものを他の誰かが理解できるはずもない。
「そうやっていつまでも遊んでるけどさ……進路とかって決まってるの? 進学は……しないよね?」
麻衣子は言った。
どうせできないだろと言わんばかりの失礼な物言いだが、反論する材料はなにも持ち合わせていない。
「まあ、大学には行かねえけど。麻衣子は大学?」
「うん。推薦でね」
「へえ」自慢なのか、それは?
「就職するの?」
「いや、まだ決まってないよ。ホントに」
実際のところ僕の進路については何にも決まっていない。
進学も一時期考えていたが、いつか高橋先輩が言ってたように僕にはムリだったらしい。だいたい卒業だってギリギリなんだから……。
「大丈夫なの?」
彼女の言葉に僕は答えに詰まった。大丈夫なわけない……それくらいは自覚している。
それでも僕は無関心を装った。
「まあよ、ナンカ決まったら報告するわ」
「決まる前に相談してくれてもいいからね」
「なんで?」
「別にぃ……」
麻衣子はストローを静かに回した。
乳白色のグラスの中で氷がカラカラと軽い音を立てた。
「話は変わるけど……夢とかってあるの? 将来の」
麻衣子はさして興味のある風でもなく、呟いた。
「あるよ」
彼女は顔を上げた。僕の答えが意外なモノだったようだ。
「なに? 教えて?」
「やだよ。言っちゃうと叶わなくなるんだぞ」
「え、そうなの?……聞いたことない」
そりゃ聞いたことがあるわけがない。僕がいま思いついたばかりのデマカセなんだから。
でも……口にしない夢の方が叶うことが多いとは思う。
夢がある――。
そう言ってはみたものの、それが夢と言っていいモノなのか、僕にはよくわからなかった。
あまりにも漠然としたものだったし、いま僕が立っているこの場所では絶対に掴むことができないモノだということもわかってるつもりだったし。
だけど彼女は僕の夢に興味を持った様子だった。
なんとか訊きだそうと思ってるみたいで変化球を織り交ぜながら攻め立ててきたが、どうやってもクチを割りそうもない僕の態度にやがて諦め、唇を尖らせた。
麻衣子は不思議な娘だった。
冷静に考えてみれば僕とはまるで接点がないし、こうして会ってること自体もなぜ会ってるのか理由がよくわからない。
ただ一緒にいてまったく疲れないということは確かだったが。
「ねえ。今度の日曜は?」
「……日曜?」
聞き直して考えるまでもなく、なんの予定も入っていない。
「なんで?」
「ちょっと行ってみたいところがあるんだけど」
「……ドコ?」
僕は警戒しながら訊いた。
彼女はそんな僕を見ながら悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「言っちゃうと叶わなくなっちゃうんだゾ。」
「……」なんなの。喧嘩売ってんのか?
僕は彼女のことが好きだった。
でもそれがどういう意味合いでの「好き」なのかが自分でもうまく考えがまとまっていなかった。
そして――。
彼女はだんだん「僕が好きだった人」に似てきたような気がする。
でもそのことが逆に僕のちっぽけな誠実さを刺激して、彼女と向き合うことを躊躇わせているのかもしれない……僕はそう思っていた。
「最近、またバイクで行ってるんでしょ?」
麻衣子は僕を上目遣いに見た。
彼女の言うとおり、僕はバイク通学を再開していた。
「悪いか?」
「べつに。ただ、懲りないヒトだな……と思って」
彼女は呆れたように呟いた。
バイクの免許を取りたいとかバイクの後ろに乗せろとか言うワリに、彼女は僕のバイク通学には難色を示していた。
だからといってその考えを僕に押しつけるようなことはなかったのだが。
「なんでそうまでして乗ってるの?」
謹慎になったりしてるのに――。
彼女は理解ができないといったふうに首を傾げた。
「そうだな――」
僕は顎に手をやり、窓の外に視線を伸ばす。
「バイクに乗ってるときだけは現実から逃れられるっていうか……そんな感じかな」
ちょっとスカしてみた。
半分冗談……でも半分は本音。ナニから逃げてるのかはまだよくわかってないけど。
「いいですねえ。現実から逃げ回れるヒトは……」
麻衣子の目はその言葉とは裏腹に蔑む様子でもなく、だからといって羨む様子でもなかった。
彼女に言われるまでもなく自分でも理解している……逃げ回っていられるのはいまのウチだけ、と。
「いいだろ。どうせ、今だけなんだしさ……」僕は呟いていた。
麻衣子は何も応えなかった。
でも僕の視界の隅に映った彼女は静かに頷いていたようだった。