【025】 それぞれの前夜
「ふぅ……」
額に滲んだ汗を拭うと、空を仰いで大きく息を吐いた。
何となく落ち着かない気持ちでバットを振り込んでいた。
大会が長丁場(勝ち進んだとして)になることを考えれば、休むことも絶対に必要だと言うことはアタマでは理解していた。
しかし、僕は相変わらず通常の練習からの帰宅後にはランニングと素振りを欠かさなかった……というより止めるわけにはいかない事情があった。
最近、僕は寝不足気味だった。
幼い頃から何かのイベントが近付くと途端に寝付きが悪くなる――完全に父に似たんだと思うが。
だからいま繰り返している自主練習は寝るためのもの。言ってみれば睡眠導入剤みたいなモノだった。
「ふぅ……」
僕はもう一度大きく息を吐くと、地面に置いたペットボトルに手を伸ばした。
そのとき、急に目の前が明るくなった。
家の前の路地にクルマが入ってきた。白いセダン……隣のおじさんだった。
車を降りてきた彼は、僕と目が合うと「毎日頑張ってるね」と笑った。
「明日は試合なんですよ」
僕がそう答えると「そうか、頑張ってな」ともう一度笑った。
隣のおじさんはいい人だった。そして時間に正確な人だった。いつも決まった時間に出掛けて、決まった時間に帰ってくる。
彼が帰ってきたってことは八時半を回ったあたりか――。
〈もうちょい振っとくか……〉
重いマスコットバットを肩に担ぐと素振りを再開した。
胃のあたりがムカムカというか、モヤモヤする……なんでこんなに緊張してるのか自分でも不思議だった。
その緊張を振り払うようにスイングにチカラを込めた。
「ん?」
不意に路地を曲がってくる人影が目に留まった。人影はコチラに手を振っているようにも見える。
僕は薄暗い路地に向かって目を懲らす――。
「え。なんで……?」
人影の正体は麻衣子だった。
「やあ、野球少年。」
麻衣子は僕の動揺を気に留める様子もなく、呑気に手を挙げた。
「なにしてんの……つうか何でココにいんの?」
「ん? え~と、塾の帰り?」
それじゃ質問の答えになってないだろ。
だいたい彼女の塾は藤沢だったハズ。だからウチとは逆の方向だ。
「邪魔しちゃった?」
彼女の視線の先には僕が手にしているマスコットバットがあった。
「明日だもんね、試合。」
「ま、雨が降んなきゃ、だけどな」
僕は敢えてヒトゴトのように呟いた。
試合前の高ぶった気持ちを和らげるためにバットを振りまわしてたなんて……あんまり彼女には言いたくない。
「で、ココにはナニしに?」
話をすげ替えるように僕は彼女を窺った。
すると彼女は小さく首を傾げた。
「明日は見に行けないから……それで何となく?」
彼女は語尾を上げながら、少し困ったような表情でもう一度首を傾げた。
「なんだよ……それ」
思わず笑みがこぼれた。
彼女の仕草にそれまで張りつめていた緊張が解れたというかなんというか……。
「とにかく……頑張ってね。悔いのないように」
彼女は両手でぎゅっと僕の右手を握りしめてきた。
突然のコトで僕の心臓は跳ね上がった。
「あ、ありがとう……」
自然にクチからこぼれ出た。他の言葉は出てこなかった。
麻衣子の登場で僕は練習を終わりにした。
せっかく来たんだからお茶でも飲んでいかれたらいかがですかというと、彼女は「じゃ、遠慮なく」と当然といったふうに応えた。
「ちょっと待ってて」
僕は麻衣子を部屋に通すと、彼女を残して階段を駆け下りた。
しばらくしてマグカップを両手に持って部屋に行くと、麻衣子はさっき部屋に通したときと同じ姿勢で僕が戻ってくるのを待っていた。
「はい。どうぞ――」
僕は左手に持っていたマグカップを麻衣子の目の前に置いた。
「え。杉浦が淹れてくれたの?」
「ああ。今日は姉貴がいねえからトクベツにな」
今日は幸子がいなかった。だから僕が淹れてみた。
「どうよ。美味いべ」
「え~なんで~。美味しいよ?」
麻衣子はそう言って眉を顰めた。
「なんでって……失礼なやっちゃな」
僕は醒めた目で彼女を見下ろしたが、彼女はまったく意に介さないようだった。
「これナニ?」
そう言った麻衣子の視線の先にあったのは青い表紙のノートだった。
ランニングに行く前に開いた後、置きっぱなしにしたままだった。
「……見ても平気?」
「ああ。でも見てもわかんねえだろ」
僕が言ったときにはすでに彼女はページをペラペラとめくっていった。
彼女が興味を持ちそうなモノがそのノートに書かれているとは到底思えないが、ズイブン真剣に見入っている。
「このとおりに練習してるの?」
「まあ……だいたいはな」
「意外とマジメに練習してるんだね?」
麻衣子は僕の顔をシゲシゲと見つめた。
「まあ……悔いは残したくないしな」
「ふ~ん、意外」
麻衣子は『意外』という言葉を繰り返した。
彼女の目には『僕という人間』が一体どんな風に映っているんだろ……たぶん、聞かない方が身のためなんだろうな。
「野球……好きなんだね」
麻衣子は微笑んだ。
「は? ああ、まあ……そうかな?」
野球が好きなのか……あらためて問われると言葉に詰まる。
好きとかいうより生活の一部というか、離れたくても離れられないもの……中毒みたいなものかもしれない。
いまはまだ『野球のない生活』ってものがどんなモノなのか僕には想像ができなかった。
だけど夏が終われば僕の野球もそこで終わりを迎える。
野球部を引退したあとの生活が、もし明桜を辞めたあのころのようなモノなんだとしたら……いまの僕にはちょっと耐えられないかもしれない。
「たくさん勝てるといいよね。」
不意に麻衣子が呟いた。
多分……深い意味なんてなかったんだろうと思う。
「ああ――。たくさん勝てるといいな」
目を伏せたまま、僕は小さく頷いた。
僕の思いはその他愛のない言葉に凝縮されてるような気がした。
***
■ 西の剛腕@大阪
「――OK。ラスト五球な」
キャッチャーの吉村がマウンドに向かって右手を広げた。
「はあ? まだ五十球だぞ?」
マウンドの用田は両手を広げて不満を露わにした。
しかし吉村が「ラスト五球。」と表情を変えずにもう一度言うと渋々ながらそれに従った。用田にはそれ以外の選択肢はなかった。
「……投げ足りねえ。」
マウンドを降りた後も用田は恨めしそうな目を吉村に向けていたが、当の吉村はそんなことには全く気付いていない様子だった。鼻歌を口ずさみながらスパイクについた泥を丁寧に拭っていた。
用田は首を振った。
吉村には何を言っても無駄だったんだ。オレの言うことなんかに耳を貸すわけが――
「休めるウチに休んどけよな」
吉村は磨き込んだスパイクを顔に近づけてそう言った。
「今年は『もう投げたくない』ってくらいに投げさしてやるからよ」
最後は連投も覚悟しとけよな――。
吉村は笑顔だったが、目だけは笑っていなかった。
「オレとお前が手にしていないのは夏だけだからな」
その台詞に用田は小さく頷いた。
一年からバッテリーを組んできた用田と吉村にとって、夏は苦い思い出しかなかった。
府大会、近畿大会、国体、明治神宮大会そしてセンバツ――。
主要な大会で栄冠を手にしてきた彼らがまだなしえていないモノ……それが夏の甲子園での全国制覇だった。
「今年はいままで以上にきついぞ。センバツで勝っちまったからな」
吉村は戯けたように舌を出した。
確かにそのとおりだと思った。センバツで優勝したことで、他校からのマークが例年以上に厳しくなっていることは春の大阪、近畿大会を通して肌で感じていた。
対戦相手は間違いなく研究してくるだろうし、センバツの覇者としてのプレッシャーを感じる場面が訪れないとも限らない……。
そういえば中学時代『常勝』を誇っていた吉村たち。コイツらもプレッシャーを感じてたんだろうか? あの杉浦も重圧に苦しむなんてコトがあったのか……?
「なあ――。」
用田の声に吉村が顔を上げた。「杉浦は出てくると思うか?」
吉村は無表情で用田に目を向けた。
用田も吉村の目を見返す――やがて吉村の目からチカラが抜けていった。
「どうかな。まったく名前を聞かなくなっちまったからな……」
そう言った吉村はドコか淋しげにみえた。
吉村がずっと杉浦のことを気にかけていたことを用田は知っていた。
用田もまた杉浦のことが気になっていた。
三年前、甲子園のマウンドで投げ合うことを約束して別れたライバル・杉浦優。
中学時代に剛腕ともてはやされた用田も、杉浦にだけは一度も勝つことができなかった。
杉浦に勝つことだけを誓って進んだ羽曳野学院。高校でも続くと思っていた杉浦とのライバル関係――。
しかし、いまでは杉浦の名前を聞くことすらなくなった。ドコでなにをしてるのかさえ、用田の耳に届くことはなかった。
「なあ。俺のボールと杉浦のボール……どっちが速いと思う?」
用田が呟いた。
吉村は用田の顔を一瞥すると、薄い笑みを浮かべた。
「おまえ、ホントにしつけえな……どっちだっていいだろ?」
まったくくだらねえ――。
吉村は絞り出すような声で言ったきり黙り込んでしまった。
吉村の答えは用田が予想していたとおりのモノだった。
用田はいままでも何度か同じことを吉村に訊いていた。
もっとも一度としてまともな答えが返ってきたことはない。いつもはぐらかされてしまう――。
用田にとってはソレこそが答えのような気がしていた。
ずっと杉浦の影に怯え、それを振り払うように練習に打ち込んだ、いつか杉浦以上のボールを投げることを目標にして。
しかし用田は気付いていた。
同世代で初めて自分以上のチカラを持つ奴に出会ったときの衝撃……どこか憧れにも似た感情。初めてあったときから投手・杉浦に魅了されていた。それはファンの心理に近いモノがあった。
そして……それを絶対に認めたくない自身のプライドの存在にも。
「まあ、だけどよ――」
吉村はスパイクを掴んで立ち上がった。
「いまのお前より速い球を投げる奴なんて、この世代にはいないよ。おれが保証する」
じゃ、肩冷やすなよ――。
吉村は笑いながらブルペンを出ていった。
「おまえの保証じゃあてになんねえんだよ……ボケ」
用田は独り嘯いた。
しかし自然に頬が弛んでくるのを抑えることができなかった。
■ 東の強打者@東京
「ま、俺が言うのもなんだが……よく着いて来れたな。こんな練習に」
成京学館コーチの三枝が満足そうにアゴをさすった。
ナイター照明が消えた成京学館グラウンド。
一塁ベンチ前には車座になった選手たち。
二年前には岡崎一人だった夜間練習は、いつのまにか部員全員が参加するまでになっていた。
「それも今日で終いだ。もう俺が教えられることはなにもない」
三枝は手にしていたノックバットの先で地面をつついた。
「ウチの輝かしい歴史の中でも『今年のチームは最強』だと胸を張って言える――。てめえのお陰だ」
三枝はノックバットを真っ直ぐ岡崎に向けた。
夏の東東京大会を控え、三枝は確かな手応えを感じていた。
コーチとしても選手としても豊富な経験を持つ三枝だったが、このチームほど練習に真摯に取り組んだチームはないと絶対の自信を持っていた。
それは主将の岡崎のチカラに寄るところが大きかった。
彼は言葉数の多い人間ではなかった。
しかし一年生時からプロが注目するほど実力者でありながら、練習に於いても決して妥協を許さないその姿勢は、漠然とした閉塞感のあったエリート集団を刺激した。彼らの秘めた闘争心に火を点けた。
その歯車が回りだしてからは、三枝の仕事は楽なものだった。
もともと相当な地力を持つ野球エリートたちが、自らの意思で上を目指しはじめた。競うように上へ、更に上へと。
いまでは彼らの練習に歯止めを掛けることが三枝に課せられた最大の仕事だった。
「俺は見に行かないからな」
三枝は岡崎に向かって呟いた。
「予選なんかに興味はない。さきに甲子園に行って、ムコウで待ってるからな……じゃ、解散」
――ありがとうございました!!
「岡崎――。」
三枝が岡崎を呼び止めた。
「杉浦は埋もれちまったようだ。残念だったな」
三枝は敢えてあっさりと言った。
しかし岡崎の目の奥が揺らぐのを感じ取った。
「本当ならこんな大事な時期に言うべきコトではないんだろうが……それも現実だ。受け容れろ」
岡崎は無言だった。
黙ったまま握りしめている拳が三枝の心を締め付けてきた。
三枝自身にもいまの岡崎と同じ様な経験があった。だからこそ岡崎にはソレを乗り越えて欲しいと切に願っていた。
「おれは……」
やがて岡崎が口を開いた。
「おれは杉浦との勝負にだけ拘ってるわけじゃないですから大丈夫です。気にしてません」
三枝は岡崎に目を向けた。
「いまは全国制覇にしか興味はありません。杉浦が何をしていようと、俺には関係ないです」
そう言った岡崎の目にはさっきのような揺らぎは感じなかった。
「そうか。つまんねえコトを言って悪かったな」
三枝はアタマを掻いた。
岡崎は自分が考えてるよりずっと大人だと思った。杉浦に拘ってたのは寧ろ自分だったらしい――。
「三枝さんには本当に感謝しています」
岡崎がアタマを下げた。
「だから絶対に……優勝旗は絶対に持って帰ります」
「……なんだ、突然」
三枝は鼻を鳴らした。
「この場所で三枝主将に優勝旗を授与します。一応これは三年生全員の総意です」
岡崎はそう言うと、口元を弛めた。
深紅の優勝旗――。
それをクチにするのも烏滸がましいと三枝は思っていた。
後輩たちが手にする度、目にはしていたが決して触れることはなかった全国制覇の証。
成京学館野球部の元主将である三枝だったが、三枝が在籍した当時の成京はまだ強豪とはほど遠い存在の一私学にすぎなかった。
甲子園の常連校として名を馳せるようになったのは三枝が卒業したすぐ後、善波たちの代からだった。
成京学館が弱かった時代の残滓のような存在だと自認していた三枝……だからこそ練習には厳しかった。
負けることの悔しさを誰よりも肌で感じてきた自分だからこそ、選手たちに嫌われることも怖れずに厳しい練習を課してきた。
結果、あまりの厳しさに部を去った者もいないわけではなかった。
それでも方針は変えなかった。進んで憎まれ役を買ってでた……それが自分の道だと疑うこともなく――。
「おう。それぐらいはしてもらわんとワリにあわんな」
三枝は当然だと言わんばかりに腕を組んだまま大きく頷いた。
ナイター照明が消えて、誰もいなくなったグラウンドでは三枝がバットを振っていた。
いつも岡崎が使っている長尺のマスコットバットはズシリと重い。
不意に湧き上がってきた感情に流されるまま、三枝はバットを振り続けた。
「あ~あ、おっさんはやだなあ……」
三枝は腰に手を当て、何度も首を傾げた。
年齢とともに涙腺が緩くなったような気配に戸惑いながらバットを強く振り続けた。
***
「あ、ちょうどよかった。電話よ」
麻衣子を送って帰宅すると、受話器を持った幸子が玄関で仁王立ちしていた。
「……誰?」
「藤堂くん」
なんだ、亮か……。
僕は受話器を受け取ると、靴を脱ぎながら受話器を肩に挟んだ。「はい。もしもし――」
『おう、杉浦か?』
耳に飛び込んできた懐かしい声に、僕は受話器を落としそうになった。
「藤堂さんですか?!」
『おう。元気そうだな』
声の主は僕が心底尊敬する先輩だった。
手紙のやり取りは何度かあったが、話をするのはたぶん中学一年のとき以来。
だけどあんまり変わってないみたいで安心した。
「どうしたんですか? 帰ってきてるんですか? いまどこからなんですか?」
僕の矢継ぎ早な質問攻めに、藤堂さんは笑って『黙って俺の話を聞け!』と怒鳴った。本当に久しぶりだったが不思議なくらいに距離感を感じさせない人だった。
『電話代が高えから手短に話すが……そろそろだろ。予選』
「はい。明日が初戦です……一回戦からなんですけど」
『そうかよ! 間に合ってよかった。で、明日は投げんのか?』
「いえ……わかりません」
『そうか。一回戦くらいじゃ、お前の出番はねえよな』
藤堂さんはそう言って笑った。
この夏、僕が投げることはおそらくない。
でもそれを言い出すことはできなかった。
『杉浦が野球を辞めたって聞いたとき寂しかった。でもまた始めたって聞いたとき、ホントに嬉しかったよ』
「あの……藤堂さん、オレ――」
『あ、悪い! また手紙送るわ。とにかく頑張れ! で落ち着いたらこっちに来い! じゃな!』
電話は切れた……一方的に。
藤堂さんは言いたいことだけ言って切ったってカンジで……まったく昔と変わらないようで呆れたような安心したような……ま、アノヒトらしいと言えばらしいのだが。
「メキシコかあ……」
藤堂さんのいるメキシコの野球ってどんなモンなんだろ……全くイメージが湧かないな。
「ん? なんか言った?」
テレビを見ていた幸子が僕の独り言に反応した。
「いや、なんでもない」
僕はスパイクを持って部屋に篭もった。
スパイクのビスを全部抜いて、刃を磨いて……
グローブも、一旦皮ヒモを緩める。
そして、全体にwax擦りこむ。
ゆっくりとじっくりと……明日の活躍を念じながら。
明日、僕らは初戦を迎える。
高校最後の夏は、入学時に僕が夢見ていたモノとは比べるのも悲しいくらいにショボイ状況になってしまったけど間違いなく僕の野球人生の総決算。
絶対に悔いだけは残したくない――。
とは言ってもまあ、初戦は楽勝なんだろうけど。
第三章(終)