【004】 約束
辻堂駅を北へ向かい、国道とトンネルを過ぎた先の新興住宅地。僕の住む祖父母の家はその区画整理地の一角にある。
麻衣子と別れた僕は、いったん球場までバイクを取りに向かった。
球場からウチまでは道が空いていれば十五分くらいでつく距離だったが……今日はずいぶんな長旅になってしまった。
「おかえり」
玄関を開けると同時に聞こえてきた声。
居間から顔を出したのは従姉の幸子だった。
「遅かったじゃない」
彼女はいったが、それには答えず「ただいま」とだけ小さな声でいうと、玄関まで出てきてくれた彼女を残し居間へ向かった。
「どうだったの? 試合は」
ピッタリと僕の後ろについてきた彼女は無邪気な声でいった。
僕は足を止めて振り返ると「負けちゃったよ」と寂しい笑みを浮かべ、わざとらしく肩を落とした。
「そっかー。残念だったわね。次、頑張ればいいんじゃない」
彼女は軽い口調でそういうと僕の肩を軽く叩いた。
そんな見当違いな励ましに首を傾げたくなったが、いつもより少しだけ優しい口調が「彼女なりの気遣い」のように思えて僕は素直に頷いておくことにした。
僕は二年前、母方の実家である森谷家にやって来た。
茅ヶ崎湘洋高校を僕の転校先として選んだ一番の理由は母の強い推薦だった。決して「出来が良い」とはいえない僕を、全く目の届かないところに送り出すことに少なからず抵抗があったのだろう。
幸子の両親は、伯父さんの仕事の関係でスペインにいっている。だからいまは祖父母と幸子、それに僕の四人で暮らしている。
幸子は僕より三つ年上で、横浜市内の大学に通っている。坂杉の尺度によれば、幸子は美人にあたるらしいが、身内である僕から見れば、頭はいいが「ガサツで気の強い女」という印象しかない。
ただ、たまに彼女が淹れてくれるコーヒーは美味い。
ここに来るまで、僕はコーヒーがあまり好きではなかったが、いまでは彼女のコーヒーを密かな楽しみにしている。
「あ。そういえば――」
居間を出て行きかけた幸子が何かを思い出したかのように僕を振り返った。
「さっき佳子叔母さんから電話あったわよ」
やっぱり電話してきたか――。
僕は表情を変えずに「へー」とだけ答えた。
「へーじゃないでしょ。ちゃんと電話しなさいよ」
幸子はそういって電話を指さした。
佳子っていうのは僕の母親だった。
母とはほとんど音信不通の状態だった。この二年のあいだに母の声を聞いたのは数回しかない。そんな母からの電話……考えられる用件はひとつしかない。
高校最後の夏は、僕にとって本当の意味で最後の夏になった。
小学生の頃から続けてきた野球の集大成となるはずだった今大会、応援席に両親の姿はなかった。
もちろん僕自身もソレを望んでいなかった。数年前までの僕の活躍を知る両親にとって、いまの僕の姿は少なからず失望させるコトになるのは考えなくてもわかることだったから、試合のスケジュールを伝えることもしなかった。ただ、幸子を通じて母に伝わるってことは当たり前のように予想していたのだが。
「ま、明日行ってこようと思ってるんだ」
僕はソファに寝そべったままいった。「とりあえず終わったことだし」
「おー、いい心がけね。きっと喜ぶわよ」
彼女は笑顔でそういった。
だけどそれについては素直に頷く気分になれそうもなかった。
そして次の日の朝、いつもより早く目が醒めた。
学校に行く気がない日に限って早起きしてしまうというのはなんだか皮肉な感じがするが、あまりの暑さに寝ていられなかった。
ベッドの上でカラダを起こした僕は、首回りに滲んだ汗を手のひらで拭いながら薄暗い部屋に視線を這わせた。
サウナのように湿気と熱気のこもった部屋。そしてカーテン越しにもわかる強い陽射し。それは僕の中に残った「僅かばかりの気力」まで削いでいくような暑さだった。
僕はカーテンを開け、窓を開け放つと、暑さから逃れるように階段を駆け下りた。
「あら、おはよう」
僕の姿をみとめたばあちゃんは、朝食を食べていた手を止めて立ち上がった。
じいちゃんの姿はなかったが、たぶんメシは食い終えて、いまごろは盆栽でもいじってるのだろう。
「悪いんだけど、幸子起こしてきてくれる?」
ばあちゃんは僕の朝食を用意しながら、面倒なお願いを申しつけてきた。
「え……ばあちゃんが行った方がいいんじゃない?」
「いま、手が離せないのよ」
ばあちゃんは顔を上げることなく、やんわりとそれでいて毅然とした態度でいった。
僕はため息を吐いた。
幸子はハンパじゃなく寝起きが悪い。知らずに起こしに行って蹴りを入れられたこともある。
「ごめん。やっぱムリ――」
「そんなに嫌がることないじゃない」
背後から聞こえた声に思わず口を噤んだ。振り返ると居間の入口に幸子が立っていた。
「あら、いま起こしにいこうと思ってたのに……ねえ」
ばあちゃんが言葉尻を僕に振った。
「さっきからココにいたんですけど」
幸子は横目で僕を睨むと、一直線にキッチンへと向かった。
そして冷蔵庫からオレンジジュースを取りだすと、それをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。
「――ふぅ」
幸子は持っていたタオルで口を拭うと、一つ大きく息を吐いた。
ガサツな女だ……。
僕は思ったがクチにはしなかった。
「で……あんた、南砂には何時ごろ行くの?」
幸子がいった。
南砂というのは僕の実家のある場所だった。
「もうちょっとしたら。はっきりとは決めてねえけど」
だいたい実家には行くと言うことすらまだ伝えていなかった。
「学校は?」
「今日はいいや。明日行くから」
僕は昨日の全校応援を思い浮かべて口許を歪めた。あんな試合の後ではとてもじゃないが行く気がしない。
「あっそ。でもくれぐれもダブんないようにね」
身内として恥ずかしいから――。
幸子はそういうと、僕の頭を掻きむしり、居間を出ていった。
***
「まいったな……」
僕は小さく息を吐いた。
RZのガソリンタンクには燃料がほとんど入ってなかった。とてもじゃないが東京を往復できるほどは残っていない。
本当は昨日のうちに給油するつもりだった。少なくとも家を出た時点ではそう思っていた。
しかし……
負けるはずのない試合に負けて気が動転した。
↓
麻衣子が応援に来てくれたので電車で送っていった。
↓
メシを食いに行こうという話になった。
↓
財布を見たら思っていたよりお金が入っていた。
↓
ちょっと気が大きくなって奢った。
↓
帰りに財布を見たらお金があんまり入ってなかった。
↓
で……現在に至る、というわけだ。
「――あ、そうだ!」
僕はポンと手を打つと、靴を脱ぎ捨てて階段を駆け上った。
お年玉の一部を残しておいたことを思い出した。机の上の写真立ての中に隠しておいた隠し財宝。こういう「いざ」というときのために準備しておいたのだ。
しかし……写真立てのなかには千円札が一枚あるだけだった。たしか五千円だったと記憶していたのだが。
「非常にまずいな……」
靴を履きながら思わず僕は呟いていた。
完全に予定が狂った。取りあえずこの千円があれば「東京を往復」する分には何とかなりそうだった。
しかし明日以降も僕の生活は続いていく。財布に残った「五四〇円」で夏休みを無事クリアできるのだろうか……あ。月曜日の電車賃は計算に入れてなかった。ということは、この千円札を使い切ってしまうと危険だ。つまりは――
「――ねえ、優」
突然の声が、頭の中で展開していた「高度な計算式」を一瞬にして吹き飛ばした。
振り向くと幸子が手招きしていた。意味ありげに微笑した彼女は、たったいま自分が犯した罪に気付いていない様子だった。
「あ? なによ」
僕は思わず声を荒げた。
しかし彼女はまったく意に介する様子もなく、財布からお札を取りだし「はい、これ」といって僕に差しだしてきた。
「え……ナンスか? コレ」
渡されたのは久しぶりに目にする一万円札だった。
「実家に行くんなら、お煎餅持っていってよ。佳子叔母さん、そこのお煎餅好きなのよ」
知ってた――?
彼女は相模線の寒川駅近くのセンベイ屋の名前を教えてくれた。
「というわけで叔母さんによろしく。お釣りはあんたにあげるわ」
では――。
彼女はそういい残すと、立ちつくす僕に軽く敬礼をして出ていった。
家を出た後、幸子にいわれたとおりに寒川に向かった。実家とは反対方向だったが、そういう命令だったから仕方がない。
指定されたせんべい屋のショーケースには何種類かの煎餅があった。
しかし、迷うことなく彼女にいわれたモノを選んで会計を済ますと、お釣りは七千円もあった。僕はちょっとだけナミダが出そうになった。
そんな訳でちょっとだけお金ができたのだが、節約のため高速道路は回避し、国道一号線から第一京浜へと抜けた。
途中、京急の雑色駅のそばから実家に電話を掛けた。
母は久しぶりの僕からの電話に少し驚いた様子だった。
僕は「現在地」とだいたいの「到着時間」を手短に告げ、電話を切った。
この前に会ったのはいつだっけな――。
永代通りを左に折れ、見慣れた運送会社の看板が見えてきたところで、僕はふとそんなことを思い浮かべた。
二年前に転校して以来、自分から実家に連絡を入れた記憶はほとんどない。母と会うのも本当に久しぶり。
そう思うと少し緊張して、背中にヘンな汗がしみ出してきた。
しばらくして中学のときの同級生の家が見えてきた。その角を曲がれば実家だった。
僕は道路の端にRZをを寄せるとフルフェイスを脱ぎ、代わり映えのしない実家の白い壁を見上げた。
「おっ、マサルちゃん?」
声は隣の家のベランダから聞こえてきた。
僕は恐る恐る目をやった。
「やっぱりマサルちゃんだ。スグに判ったよ!」
声の主は隣の家の親父だった。
無類の野球好きで酒好きなおっさん。僕が中学のときにはウチの両親と一緒に練習を見にきたこともあった。
悪い人ではないのだが、捕まると話が長くて面倒なことになる。僕は小さく頭を下げると足早に家に入った。
「ただいま――」
玄関のドアノブを引き、家の中を覗き込んだ。
奥の方から母の声が聞こえるが、僕の来訪には気づいていないみたいだ。
僕は舌打ちすると、靴を脱ぎ捨てて声のする方へ向かった。
「――あ、帰ってきた」
母は電話中だった。
「代わる……? あっそう……? ははは、じゃあまたね」
上機嫌で話し終えると、両手で静かに受話器を置いた。
「おかえりなさい」
「はい、ただいま」
お互いに軽く会釈をした。
何かぎこちない気もするが、以前まではどうだったのか記憶は曖昧だった。
思えば僕が前の学校を辞めたとき、母は珍しく取り乱していた。父が静かに頷いただけだったのとは対照的だった。
全寮制の学校だったから退寮して一時的に帰宅したのだが、そのときもほとんど話はしていない。唯一交わした会話といえば、「放浪の旅に出る」といった僕に対して「頼むから高校くらいは出て」と恫喝にも似た懇願をしてきたことくらい。以来、母とはまともに話をしていない。
そんなことを考えながら立ちつくしていると、じっと僕の顔に向けられていた母の視線が僕の左手に動いた。
「あ……ああ、コレ?」
僕は左手に持っていた紙袋を思いだし「幸子姉ちゃんから」といって母に差し出した。
母はソレを受け取ると中を覗き込んだ。
「あ! 浜揚煎餅じゃない!」
なんだ。意外といい反応だ。
「あの子は相変わらず気が利くわねえ。誰かとは大違いだわ」
誰かとはおまえのことだ、と母の目が雄弁に語っている。
「気が利かない息子で申し訳ないね」
僕はため息混じりにいった。
「ほう。自覚はあったんだ? だったら直せばいいのに」
「……」
我が母親ながらまったく口の減らないババアだ。
しかし煎餅一つでツンドラのように冷え切った状態だった親子の関係が俄に温まっていくような気がした。
姉ちゃん、Good Job! だ。
「で、何しに来たの?」
母は無慈悲な声でいった。
その態度はいちいちカチンとくるモノがあったが、わざわざココまで来て喧嘩をするのも大人げない。
僕は寛大な心で母に向き合うと、夏の大会が終わったことを粛々と報告した。しかし――
「――ああ、負けたんだってね」
母は僕が話し終える前にいった。
「……ナンで知ってんだよ」
「麻柚ちゃんが教えてくれた」
「は……なんで?」
何で麻柚が知ってるんだ?
「昨日会わなかったの? 麻柚ちゃん、応援にいったろ?」
「いや、会ってないって」
会うもなにも麻柚とは高校に入ってから一度も……あ!
「なに?」
「いや、べつに」
麻柚だったのか、昨日来ていたのは。
峰岸麻柚。中学のときの同級生で、当時所属していた野球チームの監督の娘。
彼女と最後に会ったのは中学三年の卒業式。
そういえば最後に会ったとき彼女はいっていた。絶対、応援にいくからね、と――。
「――じゃ、そろそろ帰るわ」
僕はヘルメットを手に立ち上がった。
母との会話が弾んだわけではないが、いつの間にか窓の外は夕暮れのいろに変わっていた。
「ご飯くらい食べていけばいいのに」
母は座ったまま、僕を見上げた。
「いろいろと忙しいからよ。また落ち着いたら来るよ」
僕は目を合わさずに呟くと、そのまま玄関へとむかった。
「気をつけて帰りなさいよ。あとお爺ちゃんお婆ちゃんと幸子にもよろしくね」
「おう」
僕はバイクに跨り、強めにキックペダルを踏んだ。
「じゃ、父さんにもよろしく」
そう母に告げ、実家をあとにした。
「まったく。律儀なやっちゃな……」
そんな約束、こっちはとっくの昔に忘れてたっていうのに――。
都内の道路は混雑がはじまっていた。
渋滞の間をすり抜けながら、僕は複雑な思いを抱いていた。