【016】 禊
「――行ってきます」
午前七時。
すでに早朝とは言えない時間だったが、朝の空気は間違いなく冷たかった。
いつもと同じ一日の始まり。1/365の朝。
しかし、きょう一月四日は待ちわびていた練習解禁の日。そして甲子園を目指す僕らにとってはラストイヤーの始まりの日でもあった。
バス停でバスを待つあいだも僕はソワソワしていた。
意味もなくアキレス腱を伸ばしたり、肩のストレッチをしてみたり……なんとなく落ち着かない。
たかが練習でこんなにワクワクするのは高校に入ってからはじめてのことだった。
一番乗りだと思っていた部室には、既に涼が到着していた。
制服姿のままの涼は、僕を見るなり「待ちくたびれたぞ」と大きくノビをして言った。
僕らはユニホームに着替える前に職員室に向かった。練習解禁を迎え、納村と武田に挨拶をするために。
「もう面倒はかけるなよ――」
納村は無表情なまま言った。
ヤツはまだナニか言い足りなそうな雰囲気ではあったが、武田の方をチラチラと見ながらそれ以上はナニも言わなかった。
無論僕としても「面倒な問題にしたのはいったい誰なんだ!」というクレームがあるにはあったが、今日のところは口を噤み、心に留めておくことにした。
とにかくコレで禊ぎが済んだ。
ココからは本腰を入れて練習に取り組まなきゃならない……最後の夏に悔いを残さない為に――。
部室に戻ると、もうほとんどの奴らが着替え終わっていた。
「お、謹慎コンビじゃん。今日から復帰か?」
俊夫がニヤニヤしながら僕らに歩み寄ってきた。
「オマエら……今日も単車じゃねえべな?」
「そんなわけねえべ。俺らはお前と違って学習する男なんだよ。なあ?」
鼻で笑って涼を窺うと、奴は曖昧に首を動かした。コイツは学習しないタイプのようだな。
「先輩、今日から復帰なんですね」
僕に気付いた柴田と佐々木が駆け寄ってきて言った。
「おう。悪かったな。俊夫はマジメにやってたか?」
僕は俊夫の肩に肘をかけた。
「はい。ルールは守ってくれてました」
柴田は背筋を伸ばしたまま言った。
「今日、江ノ島なんですよね?」
佐々木が不安そうに呟いた。
「おう。そっか、おまえらは初めてなんだな」
新年恒例・江ノ島往復マラソン。
茅ヶ崎湘洋高野球部の一年はココから始まる。
茅ヶ崎湘洋高から江ノ島までは距離的にはたいしたことはないが、島の反対側にある階段が結構キツイ。
去年はソレを知らずに前半から飛ばし……結果、帰りの弁天橋以降はバテて完全に足が止まってしまった。考えてみれば、僕は長い距離を走るのはニガテだった。
「酒井にはついていくなよ。アイツと走るとペースが乱されるからな」
去年の一位は酒井だった。
僕は情けないことにアイツと張り合い、そのペースについて行けずに終盤失速した。
しかし今年の僕はちょっと違う。
なにしろこの一年間で走り込んだ量はハンパではない。いままで生きてきて、こんなに走ったことは記憶にない。
それに何と言っても今年は秘策がある――。
「なに、ニヤニヤしてんだよ」
気持ちわりいな――。
俊夫が怪訝そうに僕を覗き込んできたが、僕は湧き上がる笑いを堪えることができなかった。
しかし……僕の秘策は不発に終わった。
前半は酒井の背後にピタリと付け、スリップストリームで体力を温存して、残り二キロでスパート――。
事前に描いていた作戦はスタート直後から狂いが生じた。
去年とは違う前半のあまりのスローペースに僕は焦れて飛び出してしまった。
結局、最後は酒井に二百メートルくらい離されての二位。
シミュレーション上では完璧だったのに……。
「杉浦、結構速かったじゃんよ」
首にタオルを掛けた酒井が僕に歩み寄ってきた。
「そういや、毎日走ってるとか言ってたもんな」
奴はそう言って笑ったが、イヤミで言ってるようではなかった。
「そんなことより、早く行くべえよ」
坂杉は足を踏みならして「ハラがへった」と僕らを急かした。
新年最初の練習日、今日はこのあと「決起集会」を行うことになっていた。会場は近くのラーメン屋だ。
「――だろ? あそこの階段は狭いからよ、追い越しのポイントは――」
先頭を歩いていた酒井が急に足を止めた。
僕らの視線の先、校門のところにはガラの悪そうな巨大な男が立っていた。まるで僕らを待ちかまえるように。
「……誰かの知り合いか?」
酒井が振り返り小声で言ったが、全員が間髪入れずに首を横に振った。
僕は男の様子を窺った。
着崩したスーツに、だらりとした濃いグレーの長いコート。NHKの集金の人が持ってるようなカバンを肩からぶら下げている。
髪の毛は短めだったが、全体的に清潔感とはほど遠いように見える。
落ちくぼんだ目の奥にある鈍い光――それがタダモノではない雰囲気を醸し出していて……ドラマの見過ぎか?
どっちにしても僕にはまったく関係のない人物だと言うことは確かだった。
「誰も知らねえんだったら関係ねえじゃん。行くべよ」
僕は先頭に立って男の横をやや早足で通り抜けた。
僕らが向かったのは、辻堂駅に割と近いラーメン屋だった。
店が汚いのと、ばばあが煩いのが難点ではあったが、それを差し引いても、値段のワリにメシの量が多いってのが魅力的だった。
「じゃ、取りあえず――。」
テーブルを囲んだ僕らは水の入ったグラスを掲げた。
「一応、新チーム結成以来の勝敗は公式戦とあわせて、十六試合で十二勝四敗……ケッコウいい方だべ?」
坂杉は満足げに言った。
去年のチームと比べて勝率は高かった。
しかし更に上を狙っていく以上、取りこぼした四敗について、深く検証していく必要があるだろう。
「今年はよ……マジで狙ってくべよ」
酒井が静かに口を開いた。
奴はこのあいだ僕に話してくれた「夏に盛り上がるための具体策」をみんなに披露しはじめた。
このあいだ聞いた話より『さらに大胆な目標』を掲げていた酒井だったが、それを笑うヤツはココにはいなかった。ナンの実績もない僕らだったが『可能性』を信じてしまうニュースを耳にしていた。
それは秋の大会で僕らが勝った湘南学館藤沢が、去年の暮れの練習試合で秋の関東大会出場の桜陰に5-1、秋の静岡大会優勝の静南大一高に2-0でそれぞれ勝ったというハナシ。
全国レベルの強豪が打ちあぐんだ湘南学館藤沢の投手陣。
マグレだとはいえ、僕らはその湘南学館藤沢から12点をあげている。
つながったときの打線の破壊力は私学にも十分対抗できる可能性がある。しかしまあ、導火線が長すぎて試合終了までに爆発しないこともあるってのが問題だったが。
「とにかくよ、まずはなんとしても春はベスト16以上で夏のシードを確保したい。だから県大会では、早い段階で私立の強えトコとは当たりたくねえ……まあ運次第だけどな」
酒井の言う『強えトコ』……秋の県大会優勝の東峰学園、準優勝の桜陰あたりか。湘南学館藤沢あたりも含むのだとしたら、神奈川はケッコウ『強えトコ』だらけなのかもしれない。
「つまり……酒井の話からいけば、すべては坂杉のクジ運にかかっているわけだな」
「まあ確かに……そういうことになるべな」
僕の言葉に酒井が頷いた。
決してクジ運がいいとは言えない坂杉はあからさまにイヤそうな顔をした。
「そういや、さっきの人、なんだべな?」
俊夫が眉を顰めて言った。
「誰かを捜してるみたいだったよな?」
さっきの人……校門の前に立っていた大男のことだ。
確かに僕らの顔をじっと睨みつけてきてはいたが……。
「俺が思うに――」
涼が腕を組んで唸った。「あれはスカウトだな……間違いなく」
「スカウトォ?!」
僕らは一斉に声を上げた。
確かにそう言われれば、そう見えなくもない。
あのカバンのなかにもスピードガンとかが収まってたのかもしれない。
「ちょっと待て。スカウトって誰を見に来てるんだよ!」
坂杉が上擦った声をだしたが、心配しなくてもキミじゃない。
このメンツのなかで『スカウトが見に来る価値がある奴』なんてどう考えても……いや、ホントに自薦で申し訳ないが、僕以外には考えられ――
「オマエらナンか勘違いしてない?」
涼が片方の眉をつり上げていった。
「誰が野球のスカウトだって言ったんだよ。あれはプロレスのスカウトに決まってんべ」
涼は妙に自信満々で言った。
「あ! 堀田か? 堀田だべ、絶対、堀田だろ?!」
今度は酒井が上擦った声を出した。すると涼は静かに頷いた。
僕は堀田のずんぐりとした体型と、イカツイ坊主頭を思い浮かべたが……あんなバカをスカウトする奴なんかいないだろ。
「そうかあ、俺らの中からもついに有名人がでるかもしんねえんだな」
酒井はしみじみと呟いた。
他の奴らも同意したように何度も頷いている。僕は違うんじゃないかと思うが……。
「絶対、サイン貰っとくべきだな」
俊夫がマジメな顔で呟いた。まったくコイツらって……まあ、どうでもいいか。
奴らはその後もスカウトの話で盛り上がっていた。奴らの中では堀田は既にプロレスラーとしてデビューをさせられていて――。
それにしても酒井がプロレスファンだというのは意外だった。
そういえば僕にとっての有名人の知り合いって――。
岡崎とか用田とか……他にも何人かいたけど、ココで名前を出す気にはならなかった。
まあ、この場の雰囲気を壊しちゃまずいしね……。
***
二月に近付いた頃、センバツの出場校が発表された。
ソコには、八季連続甲子園出場という羽曳野学院や、四季連続の成京学館、それ以外にも僕にとって馴染みのある高校が多数選ばれていた。
今年の春は、甲子園で『僕のいない同窓会』があったり……そんなわけないか。
みんな遊びに行くワケじゃないだろうしな。