【015】 繊細な大器
国会議事堂前駅から乗ったタクシーが一つ目の交差点を左に曲がった。
後部座席の秋山は、窓を流れる景色を眺めながら懐かしい顔を思い浮かべていた。
一昨日の夜にかかってきた一本の電話。
受話器から聞こえてきたのは懐かしい友人の声だった。
「できれば会いたいんだが、明日。」
彼は言った。できればというワリに有無を言わせない口調が相変わらずで――。
まったく。アイツらしい……
秋山は思わず口元を綻ばせた。
タクシーは六本木通りを西へ進んでいた。
いつの間にか首都高速道路が高架している。目的地はもうそろそろ……そう思う間もなく左手に「ねじれた針金のような」オブジェが見えてきた。
「――あ。ココでいいです。停めてください」
タクシーは六本木通り沿いのビルの前で止まった。
ビルは数ヶ月前にオープンしたばかりの複合施設だった。
友人が待ち合わせ場所に指定したのはココに隣接したのホテルのカフェ。
もちろん秋山がココを訪れるのは初めてのことだった。
「いらっしゃいませ。」
アトリウムに面したカフェに足を踏み入れると、入口に立っていた店員が微笑みかけてきた。秋山も笑みを返し、彼女の視線をかいくぐるようにして店内を覗き込む――。
奥の方で一人の男が手を挙げているのが見えた。
「さすが敏腕スカウト。時間に正確だな」
中央のテーブル席に座った男は、左手に嵌めた時計をつつきながら秋山を見上げた。
「それはどうも。大スターにお褒めいただき光栄ですよ」
秋山はコートを脱ぎながら息を吐くと、男の向かいに腰を下ろした。
「記者会見は見させてもらったよ、荒井選手。」
男とは目を合わせず、秋山は言った。
「そうか……相変わらずテレビ映りはよかっただろ?」
荒井はアゴに手をやると妙なポーズを取った。
「いや。相変わらずスーツの似合わない男だなと思ったよ。あんな色ネクタイ、いったいドコに行ったら買えるんだ?」
「うるせえな。あれは俺のラッキーカラーで――」
「やっと引退してコッチにくる気になったのかと楽しみに待ってたんだが……ま、一日でも長く現役でいてくれよ。同期の星くん」
秋山は荒井の言葉を最後まで聞かず、すました声で言った。
「ところで、話って?」
「おお、その前に……コーヒーでいいよな?」
荒井は秋山に確認すると、ウェイターを呼びコーヒーを二つオーダーした。
ウェイターが立ち去ると、荒井は単刀直入に一人の高校生の名前を出した。
高校生の名前は杉浦優。
荒井は杉浦と知り合った経緯を秋山に話し、その類い希な才能を絶賛した。
そして「一度見てほしい」と言った。
「素材のよさなら俺が保証するよ」
荒井は拳を強く握りしめた。
秋山は驚いていた。
自分以外にいまの彼に興味を持つ男がいる。
しかもそれが同期のなかでも、秋山がその才能を認めたただひとりのライバル・荒井英至――。
「なるほど……素材ね」
秋山は驚きを悟られないよう注意を払い、静かに微笑んだ。
「だが数字に表れないモノってのはなかなか評価が難しくてね。実績っていう根拠がないときには更に難しい」
秋山は敢えて否定的な立場を取った。
天才打者といわれた男の目に「その才能」がどう映っているのか強い興味があった。
「――お待たせしました」
ウェイターがテーブルにコーヒーを運んできた。
彼が流れるような仕草でカップを並べるあいだ、荒井と秋山は無言でその所作の一部始終を眺めていた。
やがてウェイターは慇懃に頭を下げると、絨毯の上を滑るように立ち去った。
「むかし……とは言ってもそんなに昔の話じゃないが――」
秋山が独り言のように呟いた。
「十年に一人の逸材とか騒がれた投手がいてね。国内の十二球団に加えてメジャーのスカウトも争奪戦に参加するくらいに注目されていた。ドラフトでは三球団が競合したんだが、引き当てたのはかねてから彼が入団を熱望していた球団だった。つまり、それなりに運も持ち合わせてたってわけだ」
秋山はそう言ってポケットから煙草を取りだした。
「しかし速球派と言われながら、当時の彼のストレートはMAXでも145km/hを少し超える程度……正直それほど騒がれる理由がわからなかった。 しかしスカウトたちは彼を『原石』だと絶賛した。確かにそれまでロクな指導を受けていなかったから、フォーム的には粗削りな印象はあったのかもしれないが」
秋山は不意に何かを思い出したように、一瞬だけ静かに微笑んだ。
「そんな鳴り物入りで入団した彼の一年目の春季キャンプ。キャンプ地は大変な騒ぎだった。彼を一目見ようと大挙して押し寄せてくるマスコミ、ファン……そして臨時コーチを買って出るOBたち――」
荒井は黙って耳を傾けていた。
「結局いろいろあって彼はたった三年で野手に転向し……その五年後に引退した。プロの水に馴染めなかったんだろうな……きっと」
煙草に火をつけると、秋山は目を瞑ったまま大きく煙を吐きだした。
「その引退した元ピッチャーなんだが――」
黙って聞いていた荒井が口を開いた。
「そいつが仮に俺の知ってるピッチャーだとすれば……杉浦の素質は間違いなくそれ以上だ」
荒井の視線は秋山を真っ直ぐに捉えていた。どこか挑発するようないろを含んで。
「なるほど。しかし素質さえあればソク通用するほど甘い世界ではないはずだと思うが。」
秋山は突き放すように言った。それは自らに向けての言葉にも思えた。
「確かに……素質だけでは食っていけないよな」
荒井はコーヒーカップに視線を落としたまま静かに微笑んだ。
「だがこの世界で生き残っていくには絶対に必要な要素でもある。それに――」
「それに?」
「ソレがなければ絶対に見れない景色もある」
荒井はそう言って秋山の顔を窺った。
しかし秋山はソレをかわすように視線を逸らし、ごまかすようにコーヒーカップに顔を近づけた。
『荒井に見えていて、俺には見えなかったもの――』
秋山は不意に頭を過ぎった言葉を呑み込んだ。
自分と彼を隔てた僅かな差……僅かではあったはずだが決して埋められない天賦の差。
いまさらそれを確認したところで意味のないことだというのはわかっていた。
「あ、そうだ」
不意に荒井はカードのようなモノをポケットから取りだし、ソレを秋山に前に置いた。
「なんだ?」
カードに見えたモノは名刺だった。
名刺の名前に秋山は見覚えがあった。その人物とは二度ほど会ったこともある。
「杉浦についてはこの人に聞くのが一番早い。おそらく……いや。まあ、いいや。」
荒井は何かを言いかけたが言葉を濁し、コーヒーカップに口を付けた。
「取りあえず断言できることは、杉浦はヒトの言うことなんかマズ聞かない。だからコーチやくだらないOBにいじくり回されて壊されるなんて心配は無用だ」
どっかの誰かさんみたいに繊細なタイプじゃないのさ――。
荒井はそう言うと、もう一度カップに口を付けた。
「なるほど――。」
秋山は頬を弛めた。
「参考にさせてもらうよ」名刺を胸のポケットにおさめた。
「さて。そろそろ行くよ」
秋山は灰皿に煙草を押しつけると、立ち上がって伝票を摘み上げた。
「今日は奢るよ。同期の元ライバルの復帰祝いだ」
「――なあ、秋山。」
荒井が無表情で秋山を見上げた。
「その志半ばで引退した元ピッチャーとやらなんだが……引退後の生き方には満足してるのか?」
「――大きなお世話だ。」
秋山は低い声で静かに呟いた。
そして微笑を浮かべ「多分……そう思ってるんじゃないか」と呟くと、荒井に背を向け、小さく手を振った。
***
医師はさっきからレントゲン写真とカルテを見比べ、小刻みに何度も頷いている。
彼はその写真を指さしながら何かの説明をしてくれたが、正直言って僕には何を言ってるのかまったくわからなかった。
「そうだな――」
一頻り話し終えた医師は眼鏡を外して僕に向き直ると、柔らかい眼差しで言った。
「しばらく、様子をみてみよう」。
会計を済ませ病院を出ると、それまでひと言も喋らなかった麻衣子が「次はいつ?」と当たり前のように尋ねてきた。
「次はなし。今日で終わりだってさ」
僕はアクビをかみ殺して呟いた。
「ええ~。……アタシを連れてきたくないから嘘ついてるでしょ?」
「ホントだって。お陰サマで完治だってさ」
いままでお付き合いありがとうございました――。
僕は麻衣子に向かって深々と頭を下げた。
僕がこの川崎のクリニックに通い始めてから二年とちょっと。
思えばずいぶん長い通院生活だった。
今日の検査でも問題は見当たらなかった。肩の可動範囲もほぼ正常といえる状態にまで戻ってきているらしい。
取りあえず次は四月ごろ。
そこでもう一度検査を受けて問題なければ僕の通院生活は完全に終わることになる。
「ねえ。ナニか食べて帰ろうよ」
不意に麻衣子が呟いた。
彼女からメシの話題を出してくるのはめずらしいことだった。
「べつにいいけど、ナニ食うの?」
「なんでもいいよ。カレー以外なら」
彼女はサラッと僕の選択肢を六分の一ぐらいにまで絞った。
「そう言われてもな……ホントに知ってる店ってないんだけど」
「町田は?」
「は……なんで?」
町田……あまり気が進まない。
「杉浦の前の学校って町田にあったんでしょ?」
「はあ。まあそうスけど……藤沢あたりでも良くない?」
「町田がいい」
麻衣子は僕の言葉を完全に無視した。
「でもさ、遠いべ?」
僕は言った。
今度は完全に否定的なニュアンスを込めて。
「ゼンゼン平気。歩いていくわけじゃないから」
じゃ、町田に決まりね――。
麻衣子はそう言ってポンと手を打った。
一瞬、彼女の姿がべつの人物と重なって見えたが……僕は気付かないふりをした。
川崎から町田までは以前通っていたので問題ない。迷うこともないハズだ。
前の学校から通っていたときは、いつも落ち着かない気持ちでこの電車に乗っていたから眠ってしまうなんてことは考えられなかった。
しかし……いまはこの電車の揺れが心地いい。
車内は暖かいし本当に寝てしまいそう……でもいまは寝るわけにはいかない。
さっきソノコトで東海道線で麻衣子に怒られたばかり。いま寝たら「学習能力がない」とまたバカにされるに決まってる。
「ん?」
ふと向かいの網棚に置かれたモノが目に留まった。
それは誰かが残していったスポーツ新聞だった。
僕は立ち上がり、網棚に手を伸ばした。
広げた新聞の一面には大きな顔写真が載っていた。
昨日のスポーツニュースでもさんざん取り上げられていたトップニュース。
写真の晴れやかな笑顔を目にしたとき、僕は嬉しいような、懐かしいような、少し切ないような……そしてドコか落ち着かないような妙な感情に囚われていた。
それに……この人は僕との約束を憶えてるんだろうか?
いまとなっては甚だ疑問だ。一度は視界に捉えていた後ろ姿もいまでは完全に霞んじゃってる感じだし。
「その人、有名な選手なの?」
隣から覗き込んできた麻衣子が呟いた。
「……多分な」
僕は彼女の視線をかわすと、新聞を折りたたみ網棚へと戻した。
やがて電車が武蔵小杉に停まった。
ここに来るのは『夏』以来だ。
甲子園に行きたい――。
不意に高橋先輩の声が脳裏をかすめた。
肩を痛め、治療が長引くにつれて徐々に僕から離れていった人たち、そして僕の夢。
そのたびに心のなかで呪文のように繰り返した「肩さえ治れば」と言う逃げの台詞。
しかしその言い訳はもう通用しない……というより必要がなくなった。
僕が甲子園を目指す上での障害は一つ、また一つと解消されつつあった。
ただ最後に残った障害……コレが一番簡単なようで、実は一番厄介なシロモノであることを僕ははっきりと自覚していた。
***
町田駅に降り立ったとき、駅に群がる人込みを目の前にして何故か背筋が強ばった。
考えてみればココに来ることを僕はずっと避けていた。
「じゃ、こっちね」
僕は麻衣子の腕を掴むと、人込みに飛び込んだ。
小田急の駅から横浜線の駅に向かうヒトタチの流れを泳ぐように横切る。
駅前の百貨店へ入り、エスカレーターで一階へ。その方が寒くないし近道でもある。
「おお――」
百貨店に足を踏み入れると麻衣子が声を上げた。
店内はクリスマスの装飾で溢れていた。
「そういえば、そんな季節だよね?」
彼女は微笑んだ。
腕を掴んだ時には不満そうな顔を見せていたが、そんなことは忘れてしまったかのようだ。
しかし僕はそんなものには全く興味がない。
「そうだな。」
ひと言応えると、真っ直ぐにエスカレーターに向かい一階に下りた。
駅前の細い路地を抜けるとその店はまだその場所にあった。
ここまでくる途中で「もうやってなかったりして……」と危惧していたのだが、ちゃんと営業しているようで安心した。
店内に足を踏み入れ、席に着くのとほぼ同時に、麻衣子は大きく息を吐いた。
「キレイなものをゆっくりと眺める――。そういう心のユトリはないの?」
彼女は責めるというより、哀れむような目で僕に訴えかけた。
「そんなことよりよ。ここのハンバーグステーキ美味いんだぞ」
僕はメニューをトントンと指で叩いた。
彼女はメニューに視線を落とすと「じゃそれでいい」となんの感情も窺えない声で呟いた。
「まったく。ココって決めると周りが一切見えなくなるよね……イノシシみたい」
麻衣子はため息を混じりに言った。
「ぷ。何だよ、イノシシって」
彼女の例えに僕は吹き出した。
「ちょっと、笑いゴトじゃないんだけど。さっきも人込みではぐれないようにっていうのは判るけど、こんなトコ掴む? フツウ」
彼女は二の腕を押さえた。
「え、なんで? イケなかったか?」
「今度同じコトしたら怒るからね」
麻衣子は僕の問いには応えず、その話題を避けた。
僕がこの店に来るのは二度目だった。
まえに来たのは中学三年のとき、明桜学園のセレクションにカタチだけの参加をした帰りだった。
あのときは肩を痛めたばかりの頃でまだ先が見えていなかった。いまは肩のキズも癒え……だけど先が見えない状況に関してはあまり変わっていないかもしれない。
なにかが違っているとしたら、あのときは亮と一緒で、いまは目の前にいるのが麻衣子で……つうか、その麻衣子さんはさっきから一切クチをきいてくれないんですけど。
むくれたまま無言でハンバーグをつつく彼女を見てるとなんだか妙に可笑しくなった。同時に湧き上がる僅かな反省の気持ち……。
「じゃあさ。メシ食ったら、さっきんトコ寄ってくべか?」
僕は口元を弛めて言った。
すると麻衣子は手を止め、無表情のまま僕を見返してきた。
「……。何か企んでるよね。絶対」
なぜそんなに疑り深いのか僕には理解ができない。
しかし僕の一言で彼女の怒りは鎮火に向かったということは間違いないようだった。
「ごちそうさま。ちゃんと知ってるじゃない、美味しい店」
店を出ると麻衣子は言った。
「……まあな」
僕は寂しくなった財布をポケットにしまい、小さく笑った。
そして約束通り『さっきのトコ』に向かったのだが――
「さっき見たほどのインパクトはないね」
彼女がぽつりと言った台詞が全てだった。
考えてみれば、ただの店頭の飾り。わざわざこんなモノを見に来る人なんて……たぶん、僕ら以外にはいないんじゃないか。
午後七時を回り、店内を行き交う人はさっきよりも確実に増えていた。
ごった返す店内を早足で通り抜ける人たち……よくぶつかったりしないもんだと感心する。
混沌としているようで、ジツはこれはこれで秩序が保たれてるのかもしれないと思ったり――
「……!」
一瞬、人込みのなかに見覚えのある顔を見つけたような気がした。
僕は急いで目で追ったが、見覚えのある顔は人込みに紛れてもう姿を捉えることができなかった。でも間違いない、アイツは――
「……ちゃんとしたのが見たい」
「え。」
僕は声に振り返った。
「こういうのじゃなくて、もっと……ちゃんとしたのが見たい」
「でも……しょうがないじゃん?」
僕はなるべく刺激をしないよう言葉を選んだ。
こういうときの麻衣子はとても危険だということを僕は学習していた。
「……こうよ」
「は?」
「いまから見に行こうよ。ちゃんとしたの」
やっぱりヘンなスイッチが入っちまったらしい。
「……やだ」面倒くさいし、寒い。
「えーいいじゃん、行こうよ。杉浦は見たくないの?」
だから僕は見たくないって何度も言ってるのに……まったく困った人だ。
「でもよ……いまメシ食っちゃったからカネ持ってねーしさ」
ほらね――。
僕はカラッポの札入れを恥ずかしげもなくご開帳した。
「そんなことなら気にしなくていいよ。アタシ持ってるから」
彼女は明るく言ったが、もちろんそう言う問題ではない。
「いや、それは悪いし……」
なおも抵抗を続ける僕だったが……。
「安心して。これは貸しに加えておくから」
彼女はそう言うと僕の腕をがっしりとホールドした。
家とは反対方向の電車に揺られながら、僕は大きくため息を吐いた。
そしてひとつだけ確信していたことがあった。
それは間違いなく麻衣子は誰かに似つつある……という事実だった。
***
――はあぁぁぁぁぁ……
僕は軽くなった財布を眺めて深い溜息を吐いていた。もっともどんなに溜息を吐いても財布の重みが増すってことはないんだけど。
ココであらためて昨日の出来事を思い返してみる。
昨日、僕は病院に行った。
いつものように麻衣子がついてきた。
帰りにメシを食って帰ろうと麻衣子が提案した。
町田に行ってメシを食った。
僕は彼女に借りがあったので晩飯を奢った……この時点で手持ちのカネはほとんどなくなった。
クリスマスのイルミネーションが見たいと麻衣子が言い出した。
僕はイヤだと言ったのに表参道まで連れて行かれた。
電車賃諸々は貸しだと言われた。
結局、借りだけが増えた。
悪徳金融屋にカモられたような気分だ。
そもそもやっぱり町田に行くべきではなかった。考えてみれば、最初っから気乗りがしなかった。
だいたい川崎から町田じゃ遠回りだし、メシを食うなら藤沢でも良かったのに……あ。
そういえば昨日、人込みのなかに見つけた横顔……僕にとって忘れたくても忘れられない顔。
あれって絶対――
――優、電話~。麻衣子ちゃんから!
能天気な幸子の大声が、朧気に浮かびあがったイヤな記憶を吹き飛ばした。
僕は階段を一段飛ばしで駆け下りると、
「そんなにでけえ声で言わなくたって聞こえるんですけど。」と受話器を受け取りながら幸子を睨んだ。
麻衣子からの電話はいつもと同じように特にこれといった用件があるわけではなかった。
『そういえば、二十四日ってなにしてる……やっぱり素振り?』
麻衣子は言いながら吹き出した。
最近の彼女は素振りというフレーズに敏感に反応する。
ナニもないところで黙々とバットを振る姿が、野球に興味のない彼女には滑稽に映るらしい……。
「バイト。まあ当然素振りもするけどな」
僕は素振りを強調した。
『ふ~ん。で、バイトって何時まで?』
「朝まで目一杯」
僕はカレンダーを見ながら言った。
『ふ~ん。勤労少年だね』
麻衣子は感心した様子で呟いた。
彼女からお褒めの言葉をいただくまでもなく、今月の僕はジツによく働いている。
坂杉の紹介ではじめた精米会社のバイトももう一年になる。
ただ米を運ぶだけの単純労働で、はじめた頃は結構きつかった。いまは慣れたもんで、日によっては物足りないと思うことすらある。
練習を謹慎になってヒマなぶん、今月はいつもの月よりシフトが多め……給料は期待できそうだ。
『そんなにバイトばっかりして、欲しいモノでもあるの?』
「べつにないよ」
実際にトクベツ欲しいモノってのも思い浮かばなかった。
『いや。なにかあるんでしょ』
彼女は言ったが、本当にない。
だけど彼女はしつこく食い下がってきた。
「そうだな……強いて言えばDucatiが欲しいな。ま、絶対にムリだけど」
僕はそう言って笑った。
『プレゼントしてあげようか?』
彼女は言った。突き抜けるような明るい声で。
「……いえ。お気持ちだけで結構ですよ、ホントに。」
僕は丁重にお断りしたが、麻衣子は「遠慮しなくていいよ!」と朗らかに言った。
ただ、彼女が『Ducati』がなんであるかをご存知ないってことは疑いようがなかった。