【014】 西日の強い午後
僕は相変わらず走り続けていた。
時間帯は朝から夕方に変わったが、バイトのない日は毎日、ある日でも時間の許す限り走り続けた。
ストレッチして、走って、素振りして、そしてシャドーピッチングをして……そんなことをただただ毎日、まるで何かに追い立てられるようにひたすら繰り返していた。
杏子とはあの一件以来、顔を合わせていない。まあ当然だ。
あのとき取って付けたように口に出した「夏」って言葉。
たまに僕は自問してみる。僕にとっての「夏」にいったいどれくらいの意味があるんだろう、と。
行動は制約されるし、遊ぶ時間だって削られる。
大した練習はしていないとは言っても、辛いと思うことはたびたびある。スキ好んでこんなことをしている自分らってジツは「M」なんじゃないかと、別の疑問が湧いてきて少しだけ気が滅入ったりして――。
小さな神社の前の坂を下りきり、橋を渡り、いつものように住宅街の真ん中の公園にたどり着いた。このときになってはじめて、今日は腕時計をしてくるのを忘れていることに気付いた。
普段ならココで折り返すところだったが……空はまだ暗くはないし、僕自身も思ったより余裕がある――。
僕は走り出した、家とは反対の方向に。
住宅街のなだらかな起伏を走り抜けると、まもなくT字路に差しかかった。正面の壁の向こうに見える建物は麻衣子の通う学校の校舎だった。
正面の壁を前に僕は足を止めた。
〈さて――〉
この学校のちょうど反対側に駅がある。
僕のイメージでは、いったん駅まで出て、そこから北へと進み、湘南台駅のロータリーで折り返し……そんなコースを思い描いていた。
駅までは右からも左からも行くことはできるが、距離で考えれば左の方が断然近いはず。しかしその道沿いには湘北女子の正門がある――。
「……。」
僕は帽子を目深に被り直すと、遠回りを選択した。
ランニングを終えて帰ると「母から電話があった」と婆ちゃんに告げられた。
ま、たいした用事じゃねえだろ――。
僕は「わかった」と適当に言葉を返すと、冷蔵庫から取りだしたペットボトルに直接口を付けた。
婆ちゃんはそんな僕に向かって二言三言、コゴトを言うと「いま切ったばかりだから」と急かすように電話を指さした。
仕方なく僕は電話の前に立ち、受話器を持ち上げた。しかし――
「……あれ?」そのままフリーズした
僕は実家の電話番号をいつの間にか完全に忘れてしまっていた。「03」までしか憶えていなかった。
〈そういえば最近電話してなかったからな……〉
アドレス帳をめくりながら、自分自身に言い訳をしていた。
同時に少しだけ申し訳ない気持ちになっていた。もっとも誰に対しての「申し訳ない」なのかはよくわからなかったが。
「あ、もしもし。なんか電話もらったみたいで――」
母からの電話の用件は、実家に届いた「僕宛の郵便物」の件。
いつもは何も言わずにまとめてこっちに送ってくれているのにナニをイマサラ……僕の声が聞きたかっただけならそう言えばいいのに。我が親ながら素直じゃない人だ。
そんな母との会話は相変わらずよそよそしいもので、妙な居心地の悪さを感じる。
「正月には帰ってくるのか」母は言った。
「わからない」僕は答えた。
「風邪をひいたりしてないか」と聞かれ「お陰さまで」とだけ答え、僕は受話器を置いた。
電話を切る間際、母は「記者を名乗るヒトが家に来たから気を付けなさい」と言っていた。
前の学校にいた頃には怪しげなヒトタチがよく来てたみたいだけど、いまごろになって僕のところに来る奴って、相当ヒマを持てあましてるか、よほど使えない人間か……あるいは両方かもな。
*********
「―――フェッグショィッ!!」
近藤の豪快なクシャミがフロアに響き渡った。
「なんだよ。風邪か?」
蒲田はゴルフスイングをする手を止め、口元を手で覆った。
「いや……」
近藤はタバコをくわえたまま首を振った。「きっと昨日行ったクラブの姉ちゃんたちが噂して――」
「俺に近付くなよ」
蒲田は眉間に深い皺を刻んで言った。
「そんな……ヒトを病原菌みたいに――」
「俺に伝染したら左遷すからな。」
蒲田は冷たく言い放った。
週末のゴルフコンペにただならぬ闘志を燃やす上司の蔑むような凍てつく視線――。
「マスク……買ってきますね。念のため……」
近藤は肩をすくめた。
*********
「おう。やっぱ寝てたか」
頭上から聞こえてきた声に、僕は机に伏せたまま右手で返事をした。
顔を見なくても誰だかわかる。酒井の声だった。
「杉浦ってホントにいつでも寝てるよな。ヘンな病気かなんかじゃねえだろうな?」
失礼なコトを宣う酒井に対し、僕は同じように手だけで応えた。
近頃、酒井は昼休みのたびに僕のところにやってくる。
ちょっと前までは涼がそうだっが、この学校の奴らはどうして僕の眠りを妨げようとするんだろ――。
僕は渋々ながら顔を上げた。
「最近、走ってるんだってな」
酒井は僕の肩に手を掛け、ボソボソと呟いた。
「まあな――」
僕はわざとらしく大きくノビをした。
「謹慎中でヒマだからな。だいたい7~8km。あとは気分によって、もうちょっと」
「ほー。」
酒井は感心したように目を細めた。
「まさかお前がそこまで野球に入れ込むなんてなあ。やっぱ、このあいだの――」
「別にそう言うワケじゃねえよ」
僕は言ったが、酒井は僕に目を向けたままニヤリと笑った。
確かに酒井に聞かされた話は、僕にとっても昔を思い出すキッカケの一つになっていたことは否めない。
でも……ただそれだけ。
聞かされる前と後とで僕の中でナニかが変わったってことはゼンゼンない――
「で……杏子ちゃんフッちゃったんだって?」
「――!」
「久美ちゃんに聞いたよ。『野球に負けた』って嘆いてたらしいぞ」
なぜか酒井は嬉しそうだった。
マジかよ……。僕は誰にも相談できずに一人セツナイ気持ちで悩んだりしてたっつうのに。
だいたい「フられた」とかって他人に話したりすんのか? 僕にはまったくわからん……つうか、女は怖えな。
酒井に視線を戻すと、奴はまだなんか言いたそうだった。
「なによ。まだ何かあんのか?」
僕が言うと、酒井は急に周りを気にするように視線を送り、
「坂杉が女にフられたらしいんだよ」と声をひそめて言った。
「ふ~ん。誰に?」
一応訊いた。まあ、別に誰にでもいいのだが。
「さあ……。でも、他に好きな男がいるって言われたらしいぞ」
酒井は笑いを堪えている。
坂杉と女――イメージ的に結びつかない。
硬派というより女っ気がない、周囲に女の気配がまったくしないタイプ……つうかそんなことより坂杉。
僕がちょっと練習を休んだくらいでうるせえことを言いやがるクセに、自分は女に現を抜かし……しかも知らぬ間にあっさり撃沈してたってどういうことなんだ? アイツには僕の心意気を見習って欲しいよな、マジで。
「まあそんなワケだから坂杉には優しくしてやろうぜ」
酒井はそう言いながらも嬉しそうだった。意外と性悪な奴なのかもしれない。
その日の放課後、駅までの道で高橋先輩に会った。
「よ。久しぶり!」
「ども。ご無沙汰です……」
僕はそう言って笑みを浮かべた……が、ちゃんと笑えているのかは自分ではわからない。
高橋先輩は、あの夏の日からまったく変わっていないように見えた。
卒業してしまったわけではないから、学校でも見かけることはたまにある。でも以前とは違い、僕らを結ぶ接点は非常に希薄なものに感じられて、それが僕を彼女から遠ざけさせていた。だから僕らのあいだで何かが変わってしまったのだとしたら、それは間違いなく僕自身の気持ち……いまではそう理解している。
「今日は電車なんだ?」
彼女は珍しそうに言った。
「はあ、謹慎明けなんで……しかも年内は練習も禁止です」
「えぇぇ、なにやっちゃったのよ?」
「バイクです」
「だからヤメときなさいって言ったのに~」
「はあ……すいません。」
西日の強い午後だった。僕は相変わらず彼女の隣……いや、少し後ろを彼女を見守るように歩いていた。
駅までの道でどちらからともなく……いや、主に彼女の言葉に僕が応えるというカンジで止めどなく話を続けた。西日のあまりの眩しさに目を細めながら。
「ねえ――」
高橋先輩は不意に立ち止まった。僕も足を止めた。
「あのときの返事なんだけど――」
西日のせいで彼女の表情はよく判らない。
「返事……スか?」
僕は右手でヒサシを作り、彼女を窺った。
「うん。やっぱりキミとは付き合えない。ゴメンね……」
「は?」ナニを言ってるんだ、コノヒトは……?
僕は軽く咳払いをした。
「え~と、何の話スか?」
「え……キミがアタシに付き合ってください! って言ったことの返事に決まってるでしょ」
彼女は尖った声で応戦してきた。
もっともそんな言い方、僕はしていないハズだが。
「あの……嫌がらせかなんかなんスか?」
「はあ? だからキミがアタシに――」
「いやいやいやいや――。あの……ムリってお伺いしてますよね? あのとき」
「え。言ってないわよ」
「ぇえぇぇぇぇ……。言いましたよぉ……絶対」
僕は食い下がったが、彼女は頑として譲らなかった。「そんなことは言ってない」の一点張りで――。
僕はあのときフられたもんだと思っていた。いや、絶対にフラれている。
瞬殺で葬られた夕暮れ、独り淋しく江ノ電に揺られて帰ったことを僕は昨日のことのように憶えている。
あのときは答えが判りきっていたことだったからショックもなかった。
だけどいまさらダメ押しのように言われるとちょっと……でも、こういう人なんだよな、コノヒトは。
「どうしたの?」彼女は僕の顔を覗き込んできた。
「いや……なんでもないス」
軽いめまいを覚え、僕は俯いてこめかみを指で押さえていた。
それにしても、僕はコノヒトのドコに惹かれたんだろう……本当に謎だ。
もちろん綺麗なヒトだったから、というのは間違いない。ちょっと疲れるけど、一緒にいてまったく飽きないヒトでもあるし。
たまに無茶なコトを言いだすけど、どこか憎めない、とても可愛いひとでもあった。しかも面倒見がいい人でもある。だけど……誰よりも負けず嫌いで、いつでも自分の意見を強引に押し通すし、何かが気に入らないと相手がぐうの音も出なくなるほどに罵倒したりして――。
冷静になってよく考えると僕が好きなタイプではない。寧ろかなり苦手なタイプ――。
「でも……」
こめかみを押さえたまま顔を上げた。
「いまでも先輩のことは好きですよ」
僕は言った。自分でも呆れるほどフツウに。
あれだけ言えなかった言葉が抵抗なく言えたその理由……自分では判るような気がしていた。
「……ったく、どこで覚えてくるの? 生意気ね」
彼女は一瞬驚いたような顔をしたが、ゆっくりと腕を伸ばしそのまま僕の頬に拳を押しつけてきた。
「あ。そういえば……」
高橋先輩は不意に拳を僕の頬から離した。「もう一つ、キミの質問に答えてなかったわ」
そう言って指を立てた。
「……なんスか?」
僕は身構えた。
いつだって質問するのは彼女ばかりで、それに応えるのが僕の役回り。はじめて出会ったときからそう決まってた。だから僕からの質問なんてあるわけが――
「甲子園に行きたいです。」
彼女は真っ直ぐに僕を見据えた。「キミが甲子園で投げるところをこの目で見てみたいです」
僕は彼女の目を見返した。
彼女の表情は決してふざけているとか茶化しているとかいったふうではなかった。だけどソコにはいつものような強引さも感じなくて――。
僕は僅かに首を傾げた。
意味もなく笑った。そしてまた首を傾げた。
動揺を悟られないように視線を遠くに伸ばし……彼女を僕の視界から遠ざけた。
「難しい?」
彼女は僕を覗き込んできた。
「まあ――」
僕は天を仰いだ。「……簡単じゃあないスよね」
当然だった。いまのウチのチーム力では可能性は限りなくゼロに近い。
仮にウチが120%のチカラを発揮できたとしても、奇跡が起こらない限り……いや、奇跡が重なり続けない限りはソコに近付くことすらできないだろう。
「だけど――」
僕は言った。「ムリってことはないですよ、ゼンゼン」
口をついて出たのは僕の考えてたこととは相反する言葉だった。
真顔で言ったら「馬鹿なんじゃないか」と思われそうな気もしたが、脳を過ぎった顔が僕の言葉を後押ししてくれた。
僕の戯言に真顔でつき合ってくれそうな仲間たち――。
そんな奴らが茅ヶ崎湘洋高にいるとは思ってもいなかったが。
「それにおれ、ベスト8とかで満足する男じゃないスから」
よく考えてみれば僕は生粋の負けず嫌いだった。
マウンドに立てば誰にも負けない自信はある。もちろん相手が偉大なOBだったとしても――。
「……OK。よく言った。」
彼女は笑顔だった。
それはいままで僕が見てきた勝ち気な笑顔とはちょっと違う感じで……。
以前の僕なら、彼女が見せるそのちょっとした仕草のひとつひとつに心が揺れ動いていた。だけど、もう僕の心は揺れなかった。
理由はハッキリしていた。
「おれ、先輩と同じ大学行こうかな」
少し胸を張り、空を仰いだ。妙に清々しい気分だった。
「アタシのことバカにしてる? キミとアタシが同じなわけないでしょ?」
「え、わかんないじゃないスか」
「ムリムリ。キミのことはよ~く判ってるから」
高橋先輩は左手を扇ぐように揺らしながら、僕に背中を向けた。
僕は笑っていた。多分、本心から。
それは僕にとってのサスペンデッドゲーム……この長い長い中断が終わりに近付いている、そんな気配を感じていたからなのかもしれない。
***
母から送られてきた、実家に届いていた僕宛の郵便物は三通。
うち二通は通信教育の勧誘だった。こんなもの僕に見せるまでもなく捨ててくれればいいのに。
もう一通は藤堂さんからの手紙だった。
藤堂さんからの近況報告は、相変わらず僕には理解しにくい。
もともとメキシコについて僕は何にも知らない。当然メキシカンリーグについても。
封筒には写真が一枚入っていた。
そこにはユニホーム姿の藤堂さんが写っていたが、説明の類はどこにも書かれていない。
「……でも元気でやってるみたいだな」
写真の表情がそう物語っていた。