【013】 苦味
謹慎明けの朝はあいにくの曇り空だった。
バスと電車を乗り継ぎ、いつも倍以上の時間をかけて登校した四日ぶりの学校。
僕が教室に登場するとクラスの奴らは好奇な目を僕に向けてきた。
しかしそれは本当に一瞬だけのことで、次の瞬間には彼らの視界に僕は存在していないみたいだった。
ただコイツ一人を除いては――。
「オツトメご苦労様です」
半笑いの俊夫がそう言ったのを手で払い、僕は机に伏せた。
「よぉ、あれからどうした? 綾南の――」
「あーうるせ。何にもねえ。まったく何にもねえ」僕は顔を上げ、俊夫の言葉を遮った。
「あれは酒井が言ってるだけだ。おれと杏子は――」
「キョウコ……? イヤに親しげだな?」
今度は俊夫が僕の言葉を遮った。
俊夫は意味ありげな笑みを湛えたまま頷き「もうナニも言うな」とばかりに僕の肩を叩いた。
放課後、帰る間際になって原がやってきた。
原は「誰にやってもらった」と僕を問いつめた。さっき提出した宿題のことだった。
「自分でやりました――。」
僕はヒトコトそう言った。
しかし原はまるで信用していないといった表情で「本当のことを言え」と。
三分の一程度しかできなかった涼に対し、完璧に仕上げて提出した僕……それが彼には信じられなかったらしい。
だけど僕は謹慎期間中の苦労話を浪花節のように語って聞かせた。すると――
「疑って悪かったな」原は言った。
「いえ。わかってくれればいいです」僕は答えた。
しかし、これでもし本当に「涼が留年する」なんてことがあったら……僕は麻衣子に一生アタマが上がらないのかもしれないな。
「なによ、今日も帰んの?!」
授業が終わり帰ろうとした僕を俊夫が呼び止めた。
僕は「年内は練習に出ることを禁止された」ということを淡々と伝えた。すると俊夫は「いいなあ」言って遠くに視線を伸ばした。
きっとコイツの本音だったんだろうと思う。
野球は好きだが、いつでも練習をサボる口実をさがして……やっぱりコイツはサラブレッドなんかじゃない、駄馬だな、きっと。
「ん? ナンか言ったか」
俊夫が僕の顔を窺った。
「いや、なんでもねえ」
妙にカンだけはいいやつ……ソレがいつか何かの役にたてばいいのだが。
「ま、とりあえず、榊と堀田には話してあるから。筋トレは続けてくれや」
佐々木と柴田にもよろしく――。
僕は俊夫に背を向けると軽く手を振った。
部活がないと学校が終わるのは早いカンジがする。
かわりにバイトをいつもより多めに入れられるから悪いことばかりでもない。
学校を出て、いつものように神社へ向かう……でも途中で気が付いた「今日は電車で来たんだ」と。
どうも僕は惰性で生きているらしい。新しいモノへの順応がなかなかできないみたいだ。
茅ヶ崎から乗った電車には空席が目立った。
僕はドアの横の手すりに寄りかかり、窓の外を見ていた。
〈……今日こそは、連絡とらないとマジイよな〉
電車に揺られながら僕は目を閉じた。
杏子とはあれから連絡を取っていない。もっとも向こうから連絡が来てるワケじゃないし、放っておいてもいいのかもしれない。
〈でも……さすがにそう言うわけにはいかねえべな――〉
僕は考えた挙げ句、綾南まで行ってみることにした。
謹慎を食らったばっかりだから大っぴらにバイクに乗るのは多少気が引けたが、私服に着替えてフルフェイスのメットを被ってれば誰も僕だとは気付かないハズ……もっとも、杏子も気付かないようだったら意味がないんだけど。
***
〈あれ? キーがない……〉
いつもの所定の位置にRZのキーが置いてなかった。
僕はココ以外にキーを置くことはまずないし、そもそも謹慎になって以来バイクには乗っていない。
考えられるとすれば、バイクに挿しっぱなし……ま、僕に限ってそんな馬鹿なことがあるわけがないが。
そう思いながらもガレージを覗く。
ソコには磨き込まれたトレノが艶やかな輝きを放っていたが、RZの姿はなかった。
僕は血の気が引いた。
まさか、盗まれちまったのか……?!
「ねえ、婆ちゃん! オレのバイク知らねえ?!」
僕は玄関に駆け込み、叫んだ。
「幸子が乗っていったよ」
婆ちゃんのノンビリとした声だけが居間から聞こえてきた。
「え。そうなんスか……」
なんだよ、ビックリさせやがって。
もうバイクには乗らないって言ってやがったクセに……でも幸子のバイクだし文句は言えない。
彼女とのチカラ関係を鑑みた僕は、自分を納得させるように何度も頷いた。
結局少し考えた末、僕は埃だらけのJOGをガレージの奥から引っ張り出した。
肌寒い曇り空の下、JOGは藤沢町田線をヒタスラ北上する。
桜ヶ丘のあたりで右に折れ、しばらく進むと綾南高校が見えてくるハズ……だったのだが、なかなか目的地は見えてこない。
いままで気にしたことはなかったが、原チャリでは非常に長い道のりだった。
チャンバーが奏でる高音のメロディは軽快で心地よかったが、さっきから音ばっかりで全然進んでないような気が……帰りの道のりのコトを考えるとちょっと気持ちが萎える。
やがて小高い丘の上に綾南の校舎が現れた。
僕は正門を見渡せる位置に原チャリを停め、エンジンを切った。
外周道路では野球部員が走っているのが見える。
正門の前に杏子がいるのを見つけた。他のマネージャーたちも一緒だ。
僕はそっと手を挙げてみた。
しかし彼女はなかなかコチラに気付いてくれなかった。
しかたなく大きく手を振ってみたり、派手な動きを取り入れるウチ、マネージャーの一人が僕の存在に気付いてくれた。
彼女たちは顔を見合わせるようにしてナニかを相談している様子だったが、やがて一人がコチラに向かって小走りでやってきた。彼女は僕が誰であるか気付いている様子だった。
「……やあ」
僕はフルフェイスのスモークシールドを少しだけ上げると、遠慮気味に言った。
やってきたのは杏子だった。
彼女の肩越し、視線の先には久美ちゃんがいるのが見えたが、おそらく僕だとは気付いてないだろう。
「ずっと待ってたのに」
杏子に視線を戻すと、彼女は僕を睨んでいた。
「え。手紙……ポストに入れといたんスけど」
「さあ……読んでない」
彼女はまるでヒトゴトのように言った。
手紙自体を目にしてないのか、中身を読んでくれていないのか、よくわからない言い方でもあった。
「まあ、ちょっとイロイロあって……あれから連絡、できなかったからさ。一応……きてみました」
僕は言葉を選びながら、笑顔を作った。
「ふ~ん。」
杏子は腕を組んだまま僕を見つめた。「まあ、会いに来てくれたからゆるしてあげてもいいかな」
ゆるすって……べつに僕が赦してもらわなきゃいけないことではないんじゃないかとも思ったが、ソレを口にするのはヤメた。
「じゃ……まあ取りあえずそういうことで……」
僕は彼女に向かって手刀を切ると、JOGのセルを回した。
「ちょっと待ってよ。帰るの?!」
杏子は僕の腕に手をかけ、びっくりしたように言った。
僕が頷くと「ナニ言ってるのよ。せっかく来たのに――」と尖った声を出した。
そして、以前に酒井たちと行った「ファミレス」で待つように命令された。
「私もすぐに行くから――」
彼女は念を押すようにそう言うと、校舎に向かって走り出した。
***
ファミレスはガラガラだった。
こんなんでやっていけるのかと心配になるくらいに。
席に着き、オーダーを入れると、窓の外に目をやった。
ガラスの向こうに広がる景色。駅へと続く道――。
ソコには傘を差すほどではなさそうだったが小雨がぱらつきはじめていた。
〈また雨か……〉
脳裏を過ぎったのは、彼女のマンションを訪れた日の光景だった。
僕は晴れ男だと自分では思っている。人生の節目節目では晴天に恵まれるタイプだ。でも……。
きっと、杏子は雨女なんだろうな。
窓の外に目を向けながら、僕はそんな勝手なことを考えていた。
「へー。杉浦くんって、そういうモノも食べるんだ?」
杏子がやって来たのはそれからまもなく。僕がチョコバナナサンデーを頬張っているときだった。
彼女は僕を見つけると目を丸くしてそう言った。
「食べますけど……ヘンですか?」
べつに驚かれるようなコトではないと思うが。
「ヘンてことはないけど……男の人だといるじゃない。『甘いモノは――』みたいなヒト」
彼女は同意を求めるように言ったが僕の周りにはいない。消化できるモノなら何でも食う奴ばかりだ。
「おれ、基本的に好き嫌いないスから――」
僕がマジメにそう言うと、彼女は目を逸らして吹き出した。なんでなんだ……?
「そういえば……停学、だったんだよね?」
不意に杏子が呟いた。
「ああ。バイクが見つかっちゃって……三日ほど」
僕が指を三本立てて言うと、杏子は口元に手を当てて笑った。
やっぱり手紙を見てるんじゃねえか――。
しかし敢えてソレには触れずにチョコバナナサンデーに視線を戻した。
「――私と付き合ってよ。」
スプーンを動かしていた手を止め、僕は顔を上げた。
ナンの前触れもなくそう言った彼女は、微笑を浮かべたまま、真っ直ぐに僕を見ていた。
「……なんスか、イキナリ……」
僕は横目で周囲を窺った。
湧き上がったのは驚きよりも、寧ろ警戒心だった。
「結構あうんじゃないかと思うんだ。私たち――」
杏子は僕の問いには答えず、正面から僕の目を見据えたまま言った。そして「年上が嫌いってワケじゃないよね?」と意味ありげに微笑んだ。
〈なんなんだ、いったい……〉
周囲にはアヤシイ奴らは確認できなかった。こんなガラガラの店内じゃ隠れるところもないだろうし。
と言うことは――
僕はいまの状況を正確に把握しようとアタマをフル回転させた。
しかし、いくら考えても彼女の台詞に別の意味が含まれているようには思えないが……。
つまりそれはそのままの意味で理解してしまっていいものなのかどうかということさえもいまの僕には判断しかねるモノでありよってここでなにをどう応えたらよいものか返答にも迷うところでありマサにチャンスにみえてジツはピンチであるようなそんなフクザツなジョウキョウにおかれているのがゲンザイのボクでありツマリソレハソノママノイミデ――
「――ご注文はおきまりですか?」
店員が足音もなくやってきた。
注文を尋ねる彼女の呑気な声が、僕を一気に現実へと引き戻してくれた。
杏子は店員を一瞥すると、メニューを一度も見ることなく「ホットコーヒー。」と醒めた声で言った。
メニューを下げて立ち去る店員の後ろ姿を見送ると、僕らは示し合わせたワケじゃないのにお互い顔を見合わせた。
「もう一回、言ったほうがいい……?」
彼女は微笑んだ。
その態度は少し余裕があるようにも見えたが――。
「――すいません。」
僕はアタマを下げた。
杏子は無表情だった。ただ僕を見つめたまま僅かに首を傾けている。
僕はその視線を避け、テーブルのグラスに目を落とし……その刹那、杏子の瞳が揺らいだような気がした。
沈黙が辺りを包んでいる。
僕の周りだけ気温が5℃ぐらい下がったかのように背筋がひんやりとしている。
同時に喉の渇きを覚え、グラスに手を伸ばす――。
気が付くとグラスに触れた指先が微かに震えていた。
「……ダブりの大女だから?」
彼女は小さく首を傾げた。
「いえ、そういうんじゃないスよ……」
僕は首を振った。
「じゃ、どうしてダメなの」
杏子は拗ねたような表情で窓の外に視線を伸ばした。
「いや、だめなワケじゃないスよ。ただ――」
「ただ……ナニ?」
彼女は僕を見返してきた。その瞳には僕に対するあきらかな不満のいろが見え隠れしていた。
杏子を受け容れられない理由――。
正直言って僕にもよく判らなかった。
年上だからとか、ダブってるからとかいうのは一切気にならないし、それに坂杉が「九十六点」を付けたくらいに可愛い娘で……考えれば考えるほど断る理由は見当たらない。
だけど僕は答えに迷ってはいなかった。
「いまは……野球に専念したいと思ってます……」
嘘っぽいけど、強ち嘘ではなかった。
本気だと声を大にして言えるほどの強い意志を持ち合わせているワケではなかったが、それでもいまの僕の偽らざる気持ちだった。
「せめて夏が終わるまでは……ですけど」
「――好きな人でもいるの?」
彼女はまるで信用していないというふうに僕の瞳を覗き込んできた。
「いえ。そんなんじゃないス――」
アタマに思い浮かんだ顔を急いでかき消し、そう答えた。
彼女は口を閉ざした。
また沈黙が訪れていた。
たださっきまでと違うのは、僕はこの沈黙にいつまでも耐えられそうな予感があったことだった。
「じゃあ……フラれたってわけじゃないのかな?」
俯き加減のまま、杏子が口を開いた。
僕は曖昧に首を傾げた。
「じゃ……夏が終わったら……?」
杏子は言ったが、僕は同じように首を傾げた。
彼女はしばらくのあいだ僕を見据えていたが、やがてナニかに納得したように何度も頷いた。
「いいわ……何かしっくりこないけど。夏が終わるまで待ってるから。でもそのときにはちゃんと……答えを聞かせてよね」
彼女はにっこりと微笑んだ。
僕には彼女が本心から笑っているように見えた。
「でも……杉浦くんって優しそうな人だなって思ってたけど――」
彼女は僕を上目遣いに見た。「そうでもないよね。寧ろ冷たいヒトかも」
「え。なんで――」
「さあ。それは自分で考えて」
彼女はそれだけ言うと席を立った。そして鞄を大事そうに両手で抱え込んだ。
「え? あの――」
「コーヒーは杉浦くんにあげるわ。それから……ここの支払いもお願いね」
杏子は僕に話す間も与えずそう言うと、笑顔で手を振り……そのまま一度も振り返ることなく店を出て行った。僕は独り取り残されてしまった。
僕はイスに深く身を沈め、大きく息を吐いた。
〈なにやってんだろ……おれ……〉
彼女に言われた言葉の意味。そして別れ際の笑顔――。
僕の中途半端な言葉と、曖昧な態度が却って彼女を傷つけてしまったのかもしれない。
だけど他にどう伝えたらよかったのか、どうやったら上手く伝えられたのか……こうしてあらためて考えてみてもよくわからない。
だから、もしもいつか同じ場面に遭遇することがあったとしたら……僕はきっと、また同じコトを繰り返すのだろう。そのたびに軽い後悔の念に嘖まされながら――。
程なくしてさっきの店員がコーヒーをテーブルに運んできた。
彼女は僕のツレがいなくなっていることなどまるで気付いていないかのようで、僕の前にコーヒーを置くと「ご注文の品は以上で――」と無機質な声で言った。
独りになったテーブルで、杏子が注文していったコーヒーを口にした。
瞬間的に口内に広がるその酸味と苦みは、いつもよりさらに強く感じられて……
僕もまた傷ついているように思えて、何故だか少し笑った。