【012】 血統と万馬券
その日の朝、僕はいつものように教室で机の上に伏せていた。
お前って、いっつも寝てるよな――。
不意に酒井に呆れたように言われた言葉を思い出したが、それでも眠いモノは眠い。これは仕方のないことだ。
決して寝不足なわけでもないし、さっきまでは眠くもなかった。
それでもこの席に着いたとたん、なぜか瞼が重くなる。
いつでも強烈な睡魔が間断なく僕に襲いかかってきて……この席はお祓いが必要なのかもしれないな。
「杉浦いるかあ!」
声に顔を上げると、焦点の合わない視線の先にいたのは担任の原だった。
教室の入口で手招きしている原は、僕と目が合うと更に激しく手を動かした。
〈なんだよ。面倒臭えな〉
僕は立ち上がると、大袈裟な仕草で肩のコリをほぐしながら彼に近づいた。
「なんスか?」
軽い調子で僕は言ったが、原はソレを無視するように「いいからこい」と呟き、前を歩き出した。
連れて行かれた先は校長室だった。
原がドアを開けると、ソコには涼が立っていた。
そして向かい合うようにして立つ三人の教師……。一人は納村だった。
〈なるほど……〉
僕は独りで納得していた。そんな僕を涼が申し訳なさそうな眼で見ている。
「何で呼ばれたか判るな?」
声を発したのは現国の山田だ。
山田は涼のクラスの担任だった。
「はい。これッスよね?」
僕がバイクのスロットルを回す仕草をすると山田は表情を崩した。
「バイク通学は禁止、というのは知ってるな?」
そう言ったのは学年主任の大石だった。
大石は僕と涼に交互に目を向けると「バイクが如何に危険な乗り物であるか」ということを語り始めた。
僕らは立ったままソレを神妙な態度で聞いてはいたが、内容はほとんど耳には入っていなかった。少なくとも僕は他のことに気が散っていた。
大石の髪の分け目がいつもと違うことに気付いてしまった。
ソレがズラのように見えて……大石がマジメな顔で喋れば喋るほど、僕は俯き、掌に爪が食い込むほど強く握りしめ、こみ上げる笑いを震えながら堪えていた。
「取りあえず今日のところは帰れ」
さんざん話し尽くした大石が億劫そうに腰を上げた。そして「正式な処分は明日決まる」と言った。
「え……処分、ですか?」
僕らは声を揃えた。
「明日、教頭の判断を仰ぐことになるが……おそらく三日間の自宅謹慎になるだろう」
大石はそう言って部屋を出て行った。
「お前ら……」
納村が苦々しく僕らを見据えた。
「年内は練習に出てくるな。当然その間は部室への立ち入りも禁止だ」
そう言い残すと原とともに大石の後を追うように出ていった。
残された僕らは、顔を見合わせて肩をすくめた。
***
「何よ。帰んの?」
俊夫が驚いたような声を上げた。
「ああ。なんか謹慎らしいぞ」
僕はヒトゴトのように呟いた。
「マジで? 何やっちゃったのよ?」
俊夫は興味津々と言ったカンジだ。
まあコイツにとってはまさしくヒトゴトなんだろうし。
「さあ。よくわかんねえけど、単車で納村のクルマをぶち抜いちゃったらしいわ」
そんな憶えはなかったが、さっきそう聞かされた。
「ついてね~。けど、お前らしいな」
俊夫はそう言って笑ったが、それのドコが僕らしいのか、僕にはまったくわからない。
神社に行くと、涼のFZRは既になかった。
〈なんだよ。アイツもう帰っちまったのかよ〉
意外と冷たいヤツなんだな――そんなことを考えながら、僕はRZにキーを挿し、エンジンをかけた。
時計を見ると十時十五分。
当然ながら家に帰るには不自然な時間だ。
とは言っても謹慎になっちゃえば婆ちゃんにも知れてしまうし、どう考えても隠しようがない。
ハラを決めるしかない。
それはそうと……明日は杏子と会う約束してたんだっけ。正確には約束をさせられたのだが。
しかしさすがに謹慎中に彼女と会うのは気が咎める。もちろん理由はそれだけではないが。
まあ、この時間じゃ家にいることはないだろうけど、取りあえず電話だけは入れておこう。
家にいないようだったら……その時は手紙でも書いてポストに入れときゃいいよな。
心配性の婆ちゃんの反応を気にしていたのだが、意外とあっさりしたモノだった。
寧ろバイクに乗ってるくらいで謹慎になるということの方が意外だったようだ。
まあ考えてみれば、幸子もフツウに乗ってたわけだし。
でも、これで安心して謹慎に突入することができそうだ。
僕は居間のソファーに寝ころび、テーブルにあった煎餅の袋を開けた。
そして煎餅をくわえたままテレビのリモコンに手を伸ばしたものの、この時間では見たい番組もない。
僕はしばらくチャンネルを変えたりしていたが、やがてテレビを消し、目を閉じてみた。
〈三日もどうやって過ごすんだ? 暇すぎるだろ?〉
そんなことを考えるうち、いつの間にかそのまま眠ってしまった。
ふと妙な圧迫感に目を開けると、幸子が僕を見下ろしていた。
「な、何……?」
「やっと起きたか、居候。 夜、寝られなくなるわよ」
彼女は鼻で笑った。
子供じゃあるいしそんなわけねえだろと思いながらも時計を見る。
どうやら五時間くらい寝てたみたいで……もはや昼寝とは言えないレベルだな。
「ところで、アンタ謹慎なんだってね。いつまで?」
「明日から三日間くらいっていってたな」
「ほう。じゃあしばらくは電車で行くのね?」
「まあな。これから寒くなるしちょうどいいかもな」
そうは言ったものの、バイクで行けないのは時間的にもきつい……遅刻常習者の僕にとっては死活問題でもあった。
翌日、涼とともに再び校長室に呼び出され、予定通り「三日間の自宅謹慎」を言い渡された。
「お前ら、休み中にコレ、やっておけよ」
帰りがけに原が僕と涼に紙袋を突き出してきた。
「何スか……コレ?」
僕は受け取り、中を覗いた。
「コレはオレの優しさだ。」
原は薄い胸を張ってそう言ったが、どう見ても嫌がらせとしか思えない量の宿題だった。
「生活態度の悪いオマエらは、本来なら今回の謹慎で留年が確定してしまうところだが、コレを提出すれば特別に出席扱いとしてやってもいいと――」
原は得意げに喋り続けた。
確かにテストで考えられない点数をとった数学を筆頭に、各教科ともにギリギリのラインであろうということは重々承知していた。涼もきっと似たようなものだろう。しかし――
「コレ……ちゃんと三日でできるように考えてあるんスよね、俺らでも」
ここは重要なポイントだ。
「当然だ。寝ないでやれば一日で終わる、オマエらのアタマでもな」
簡単だろ? 原は勝ち誇ったような顔をしている。
「ちゃんと提出するんだぞ。じゃないと三年生になれないかもしれないからな。死ぬ気でやれよ」
つまり何が何でもやらなきゃいけない、ってことは確かなようだ。
僕は帰宅すると同時に部屋に籠もり、ベッドに寝ころんだ。
そして天井を見つめたまま、アタマの中でこれからの三日間の過ごし方について思いを巡らして……ん?
不意に動かした視線のさき、机の上には埃が積もって凄いことになっていた。
そういえば、このまえ麻衣子が来たときにも気にはなっていたのだが――。
「……よし。」
僕は反動をつけてベッドから起きあがると、窓を全開にした。
まずは部屋の掃除をすることにした。
謹慎一日目の仕事は掃除。
宿題は明日からやろう。きれいさっぱりに片付いたこの部屋で。
こうして僕の謹慎生活が静かにスタートした。
***
コッチに来て以来初めての大掃除で、部屋は見違えたようにキレイになった……と思う。
机とベッドの配置を換えただけで、部屋が明るくなったような気がしないでもない。
そんなことより僕は一方通行の連絡になってしまった杏子のことが気になっていた。
連絡をしようにも、耳の遠い爺ちゃんはともかく幸子や婆ちゃんがいると電話もしづらい。
時計を見ると七時を回ったところだった。
〈取りあえず電話してみっかな……〉
僕は上着を羽織ると、小銭を握りしめて階段を駆け下りた。
「ちょっとコンビニに行ってくるけど……何か買ってくるモノ、ある?」
誰にというワケでもなく、居間に向かって声を掛けた。
「あ。ちょうどよかった。アタシも行こうと思ってたのよ」
幸子が軽快に立ち上がった。そして困惑する僕に向かって「寒いからクルマ出すわ」と親指を立てると、階段を駆け上っていった。
〈ウソだろ。なんで……?〉
最近、僕は考える。
アノ女はわざと僕の嫌がることをしようとしてるのではないだろうかと。彼女が関わると僕の目論見はいつも全てが裏目に出る……もはやこれは偶然だとは言えないんじゃないだろうか。
「さあ、行くわよ!」
幸子は声を張ったが、コンビニはクルマで行くほどの距離ではなかった。
走り出したと思ったらもう着いた。
「あんたはナニ買うの?」
幸子は言ったが、そう言われても困る。買いたいものなんかべつにない。
しかし何も買わないのも不自然だし、かと言って無駄なカネも使いたくない。コレは非常に悩ましい問題だが……。
僕は不意に目に留まった小さなチョコレートを一つ、摘み上げた。
「え……?」
幸子は僕の手の中のモノを指さした。
僕は小さく頷いた。
そして不審そうに僕を見ている幸子と目を合わさないようにして、さりげなく顔を背けた。
また何かを言われるんじゃないかと僕は身を固くしたが、彼女は無言で僕の手からチロルチョコを奪うと、そのままレジへと歩き出した。
会計を終えてクルマに乗り込むと、幸子はチロルチョコを僕の鼻先に突き出してきた。
「はい。どうぞ」
「はあ……どうも」
僕は軽く頭を下げ、チョコを受け取った。
買ってくれる気があるなら先に言ってくれればよかったのに、と思う。そうすれば怪しまれない範囲でもうちょっと選択肢もあっただろうに、と。
そんな僕の心中を知ってか知らずか、幸子は僕を見ていた。
僕はソレに気付かないふりで視線を足元に落としていたが、それでも彼女の遠慮のない視線が確実に僕を捉えているのだろうということだけはわかった。
このプレッシャーに僕があとどれだけ耐えられるのかと問われれば、あと二十秒くらいが限度ってトコだろな――
「あ!」
急に幸子が声を上げた。
「アタシ、行かなきゃいけないトコがあったんだ」
そう言ってポンッと手を打った。
そして僕を一瞥すると、一度咳払いをしてから「悪いんだけど、あんたココから歩いて帰って」と一方的に言った。
結局彼女は僕に口を挟む隙を与えずに何処かへ走り去ってしまった。
〈ウソだろ……〉
本当に置き去りにされた。それも真冬のコンビニの駐車場に。
「なんて勝手な奴……」
僕は思わず呟いた。
〈でも……意外といいヤツだな……。〉
だんだん小さくなっていくトレノのテールを見送りながら、僕は幸子の意外な気遣いにしみじみと感謝していた。
しかし、そんな幸子の気遣いも虚しく、杏子は電話に出なかった。
少しの時間をおいて再度かけてみたが、一回目と同じように無機質な声が彼女の不在を伝えていた。
僕はため息を吐いた。
杏子とのやり取りはこんなコトが多いような気がする……微妙にいつもすれ違っているような。
僕はナニも言葉を残さず、そっと受話器を置いた。
***
「佐藤さんから電話があったよ」
家に帰ると、婆ちゃんがテレビを見ながらそう言った。
「佐藤さん?」
ああ、麻衣子か……僕は独りで合点したように呟いた。
このあいだ幸子にあんなことを言われたので、麻衣子とはなんとなく話がしづらい。
「あら。幸子は一緒じゃないの」
婆ちゃんが振り返った。
「ああ、なんか行くところがあるってさ。でも……多分、すぐに帰ってくるよ」
階段を昇りながらそう言った。
ん。まてよ。幸子がいない……? 麻衣子に電話をするなら、幸子のいないいましかないよな――。
僕はダッシュで階段を下りると、そのままの勢いで受話器を掴み、いつのまにかアタマに刷り込まれた番号をプッシュする――。
「あ。もしもし。杉浦スけど―――」
ツーコールででた麻衣子の様子はいつもと何も変わらなかった。へんに意識していた僕がアホらしく思えるくらいだった。
電話をくれたようで――。
僕は言ったが、彼女もとくに用事があったわけではなさそうだった。
取りあえず謹慎になってしまったことを僕は伝えた。
しかし彼女はソレにはあまり興味がないようだった。
ただ、年内は練習に参加させてもらえないってことを伝えると「それはお気の毒さま」と高らかに笑った。
***
机の上には未だ手つかずの宿題の山……。
僕は机に広げた宿題の上で、バラバラになってしまったシャーペンを組み立てていた。
どうも僕には『思考に詰まるとシャーペンを分解してしまう』という悪癖があるようだ。
引き出しの中には、バネがどこかに飛んで行っちゃって再起不能になったシャーペンが無数に収まっている。
呼鈴が鳴った。
婆ちゃんが玄関先で話をする声が微かに聞こえる――。
謹慎二日目の今日、取りあえず宿題を広げてはみたが、まったくやる気が起きない。
どうにも集中できないでいるのは多分昼飯を食べたばかりだから――
「お。ちゃんと机に向かってんじゃん」
突然かけられた声に飛び上がるように振り返ると、ソコには酒井が立っていた。
「な……なんだよ、突然」
「寂しがってんじゃねえかと思ってよ」
酒井はコンビニの袋を顔の前に掲げて笑った。
「あとで坂杉と俊夫もくるからよ」
状況が掴み切れていない僕を尻目に、酒井は買ってきたポテトチップスとばかうけの袋を開け、着々と宴会の準備を始めた。
「じゃ、取りあえずカンパイ――」
コンビニの袋からポカリの缶を二本取り出し、一本を僕に放り投げてきた。
「待て。ナニに乾杯よ?」
「謹慎……だろ?」
酒井はそう言いながら微かに首を傾げた。
じゃ、まあ取りあえず乾杯――。
「そういや、酒井、学校はよ?」
「ヌケてきた」
平然と言った。
「知らねえぞ。オマエも謹慎喰らうぞ」
「おう。そんときは差し入れ持ってウチに来いよな」
酒井はにんまりと笑った。
「あれ、中学のチームか?」
酒井は机の上の写真立てを指さした。
「ああ。」
そういえば麻衣子にもこのあいだ聞かれた。
中学時代の写真のほとんどは、実家の僕の目の届かないドコかにしまってあった。
でも、この集合写真だけはなんとなく手元に置いている。コレといった理由はないが……なんとなく毎日眺めている。
「杉浦はずっとピッチャーなんだべ? 昔っから」
「ああ……基本的にはな」
僕は短く答えた。
「投げる気はねえのかよ?」
酒井はやや首を傾げた。
「いや。なくはねえけど……ウチにはいいピッチャーがいるから、焦ることはねえかな、と」
僕が口元を歪めると、酒井も釣られたように笑みを浮かべ、僕に向かって拳を伸ばしてきた。
「おれは中学までは、ずっとショートだった。ピッチャーを始めたのは高校に入ってからなんだ」
そう言って酒井は缶を呷った。
僕としては意外に思った。
コンバート自体は珍しくも何ともなかったが、酒井に関してはずっとピッチャーをやってきたもんだと疑ってなかったから……やっぱり意外に思った。
「そういや、高校卒業したらナニすんの?」
酒井がポテトチップスに手を伸ばし、呟いた。
「さあ。」
僕は僅かに首を傾げた。「なんだべな。よくわかんねえや」
夢がないわけではないが具体的に語れるレベルにいまはない。
「そうか……取りあえずおれは大学に行こうと思ってるけど……野球は高校で終いだな」
酒井の顔には薄い笑みが滲んでいた。
「なんでよ。もったいねえじゃん」
僕は本当にそう思った。
しかし酒井は穏やかな笑みを浮かべたまま小さく首を振った。
「ま、坂杉と違っておれは現実が見えてるつもりだからな。でも……つうか、だからこそ最後の夏くらいは派手にいきてえよな――」
酒井は大きく息を吐くと、最後の夏に懸ける強い決意と、ソレを盛り上げるための具体策をアツく語りはじめた。
そのためにはまず春の県大会を勝ち進み、夏のシード権を獲得する必要があると言った。そして――
「四番は杉浦が適任だと思うんだよな。個人的には」酒井は言った。
「オレ……? ないない。オレが公式戦で打席に入った回数、知ってるべ?」
「じゃ、他にいるか?」
酒井に真顔で問われたとき、頭を過ぎったのは一人だけだった。
「……俊夫はよ?」
「俊夫か……確かにな。いまは燻ってるけど、本当なら一年からレギュラーのハズだったしな」
そう言った酒井の目に不思議ないろが浮かんだのを僕は見逃さなかった。
「おれと俊夫は小学校も中学校も違うんだけど、小学生のときからよく知ってんだよ」
「ほう。初耳だな」
僕が身を乗り出すと「ああ見えてもアイツ、ジツはサードの守備も上手くてよ」と静かに笑った。
そして「おれと俊夫が組んだ三遊間は鉄壁だったんだぜ」と目を輝かせると、
少年野球の選抜チームに選ばれ、そこで初めて俊夫と出会ったときのこと。フリーバッティングのときに「どっちが先に打席に立つか」で大喧嘩をしたこと。そして、県大会の準々決勝で負け、二人で大泣きしたこと――。
そんな話をときどき自慢とは言えないような自慢を織り交ぜながら、楽しそうに僕に聴かせてくれた。
「アイツんちはもともと血筋がいいみたいでな、オヤジも甲子園に出てるらしいし、二年上の兄貴は東峰学園の元主将で一昨年のセンバツに出てて、一年下の弟もいま、東峰学園の正捕手で今度のセンバツが確実……まあ考えてみれば、俊夫ってヤツはウチにいるのが不思議な男なんだよな」
ソレを聞いても特別な驚きはなかった。
俊夫の勝負強さは天性のものと言えるのかもしれない。
言ってみりゃサラブレッド……もっとも、種類としてはショボイ部類に入るんだろうけど。
「なのによ、あの俊夫ときたら――。もう一度アイツと三遊間を組みたくてココまで来たっつうのに……」
いままでにこやかに話していた酒井が、突然吐き捨てるように言った。
あまり感情を表に出すことのない酒井が見せた苛立ちに少し驚いたが、何となく……本当に何となくだが理解ができるような気がした。
「なあ。俊夫なんだけど――」
僕はあらためて訊いてみたくなった。「ホントはナニやっちゃったのよ」
このあいだの説明じゃ、まったく納得ができない。
いくらサインを見落としたとは言っても、ホームランを打ってハズされるなんて……僕のジョーシキでは到底考えられない。
「オマエと同じだよ。」
酒井は醒めた声で言った。「橋本をぶん殴っちゃったからだろ、たぶん」
橋本って……はしやんのことか?
「オマエが転校してきたときにはもう引退してたけど、橋本ってのはウチの副キャプテンだったんだよ。まあまあ上手かったけど、ちょっと嫌なヤツだったんだ」
酒井は話しながら眉を顰めた。
「おれもよくは知らねえんだけど、橋本のオヤジってのが厄介な人らしくてよ、納村もさんざん脅かされたって話だ。ま、ドコまでが本当かは知らんけどな」
酒井は声をひそめて言った。
まあ……イヤな奴ってのはドコにでもいるんだよな、ジッサイ。
それにしても厄介な人なら僕もたくさん知ってるが、はしやんのパパってそんなに危ないヤツなのか……よかった、あんまり関わり合いにならなくて。
でもセンパイを殴っちゃうなんて。まあ、僕も他人のことは言えないのだが――。
「なんでぶん殴っちゃったのよ? アイツは」やっぱりそれが気になる。
「素手だべ?」
酒井はさらっと言った。
「……。いや、そうじゃなくてよ――」
「あ? ああ、理由か……?」
酒井は合点したように手を打つと「気に入らなかったんだべな、多分」と早口で言った。
いや……気に入らないって……。
少なくともそんな理由じゃないと思うが――
「ま、そんなことはどうでもいいんだけどよ。とにかくウチが夏に勝ち進むためには、おれと俊夫、それから杉浦のチカラがどうしても必要なんだ」
酒井は拳を握りしめた。
「最後は……当然おれがショートで俊夫はサード。 その為にはおまえにも投げてもらわないと、な」
頼むぜ、マジで――。
そう言って僕の肩を叩いた。
酒井はショートに戻りたいと強く言った。
そしてもちろん僕はピッチャーに……僕らの利害は見事に一致しているということがコレで確認できたというわけだ。
「……で、杏子ちゃんとは会ったりしてんのか?」
酒井は急に話題をすり替えると、ポテトチップスをまとめてクチに放り込んだ。
僕は横目で酒井の顔を窺ったが、彼の表情からはその台詞にナニが含まれているのか読み取れなかった。
「……何でよ?」
僕は探るように言った。
「いや、久美ちゃんがそんなこと言ってたからよ」
どうやら酒井の言葉にはそれほど深い意味があるわけじゃなさそうだ。
「このまえ帽子を取りに行ったときに会ったけど……それ以来会ってねえよ」
事実そうだった。嘘ではない。
「でも、気に入られてるらしいぞ。付き合っちゃえば――」
「え゛?! 誰と誰が付き合うのよ?!」
声に振り向くと、そこには俊夫が立っていた。
「おまえ……いつからそこにいたんだよ?」
「え? いや、たったいま、だけど」
俊夫もコンビニの袋をぶら下げていた。ポカリの缶が透けて見える。
「で、誰と付き合うって? あ、わかった。湘北の娘だべ?」
俊夫は僕と酒井の間に腰を下ろすと、僕らの顔を交互に窺った。
「ちげえよ。綾南のマネージャーだ」
酒井は部屋を見渡しながら言った。まるで俊夫の視線を避けるようにして。
「綾南のマネージャーって……どの女よ」
「一番背が高い女。」
「マジで! なんでよ?!」
俊夫は目を見開いたが、僕は無言でクビを横に振った。
「さっきも言ったけどよぉ、帽子を取りに行っただけだって……それからは一回も会ってねえよ」
強調するように言った。だって本当のことだし。
「ウソツケ! 杉浦、ワザと帽子置いてきたんだべ」
まったく抜け目ねえやっちゃなあ――。
俊夫はワケのわからない言いがかりをつけて僕の肩を揺さぶった。そんな僕らをを見ながら酒井はただ大笑いしている――。
酒井と俊夫の腐れ縁。
それは僕が知らなかった「日の目を見ないレベルの野球チーム」のよくあるエピソードの一つだったのかもしれない。
でもその昔話は、同時に僕にも懐かしい気持ちを思い出させてくれた。
酒井と俊夫の関係は、僕と亮、そして岡崎のそれに近いのかもしれない。
おそらく坂杉や渋谷、そして涼にだって似たような経験があったハズだ……そこから見えていた景色はそれぞれに違ってたのかもしれないけど。
***
坂杉は六時半をすぎた頃にようやくあらわれ、それとほぼ同時に幸子が帰ってきた。
「なんだよ、お前の姉ちゃんって美人なんだな」
奴らは口を揃えてそう言った。ヒトを外見だけで判断する愚か者たちだな。
晩飯を食い終えても酒井たちはなかなか帰る素振りを見せなかったが、「もしかして泊まっていくつもりなのか」と僕が警戒しはじめたころになって突然、奴らは引き揚げていった。
そして部屋にいつもの静寂が下りてきたのは十時を少しすぎた頃だった。
ふぅぅ――。
一人になった部屋で、僕は大きく息を吐いた。
今日は一日がスゴク長かったような気がする。
でも机の上の宿題は手つかずのままだ。無事提出できるのだろうか……ちょっと不安だ。
――優、電話!
幸子が一階で叫んでいる……。
〈まったく、そんな大声出さなくたって聞こえるがな。〉
僕は呆れて首を傾げながら、階段を駆け下りて受話器を取った。
電話の相手は麻衣子だった。
「おう。ナニよ――」
――コンコンコンコンコンッ!
僕はその音に顔を上げた。
幸子が僕を睨んでいた。
苛立たしげにテーブルを指で叩きながら……僕の応対が気に入らないようだ。
「あ。ああ、俺も電話しようかと思ってたんだわ――」
言った瞬間に余計なことを口走ったもんだと後悔した。
幸子の態度に煽られるようにそういったモノの、僕の方から話すコトなんていまはべつにない。
「え? ああ……まあそうだな……今度会ったときに……え? いや、なんか電話じゃ言いづらいしさ……」
幸子はまだ僕を睨んでいる。
いまの応対のナニが悪いのか、僕にはもうわからない。
「え? はあ……まあ、大事って言えば……大事な話……なんスかね……」
話が微妙にヘンな方向に行っているような気がする。どう考えても、みんな目の前の女のせいだが。
「あ、ああ、明日。取りあえず明日また電話するよ。んじゃな」
僕はそれだけを言うと、逃げるように受話器を置き、大きく息を吐いた。
「なんなの、その電話。彼女ヘンな期待しちゃうんじゃないの?」
幸子は蔑むような目で僕を見ていた。
「はあ? 姉ちゃんが悪いんだろ。へんなプレッシャーかけやがって……」
「あら。また他人のせい? ホントに男らしくないわねえ、マサルちゃんは。だいたいねえ――」
幸子は僕の話を遮り、小馬鹿にするような言葉を並べ始めた。
やっぱり口喧嘩では絶対にコイツに勝てるわけがない――。
僕は瞬間的にソレを悟り、耳を塞いで部屋へと急いだ。そして心にカタく誓った。
幸子の前でなんか絶対に、二度と、ナニがあっても電話はするまいと――。
***
謹慎最終日となった今日も、僕は机に向かって悪戦苦闘していた。
焦る気持ちと裏腹に一向に捗る気配はない。
〈絶対に無理だべな〉
半分、諦めに似た気持ちも芽生えていた。
〈涼はどうしてんだろ?〉
僕は電話を掛けてみた。
しかし奴も同じだった。宿題はまったく捗っていないらしい。
時間的に言っても自分で全部やるのは不可能だということについては疑う余地はない。
ここで選択肢を整理してみたい。
①枠①番……幸子
②枠②番……酒井浩平with茅ヶ崎湘洋高野球部
③枠③番……麻衣子
④枠④番……適当にマスを埋めて提出する。
⑤枠⑤番……腹をくくって提出しない。
だいたいこんなところか?
杏子の顔も浮かんだが、彼女の学力は未知数でしかもダブり……それ以上に何となくいまは気まずい。
①が本命かも知れないが、絶対にやだ。
②はどうだろう……アイツらも僕とそんなに変わらないだろうから却下。
③は……麻衣子の学校は進学校らしいから楽勝かもしれないが……大穴だな。なんとなくいまは頼みにくい。それもこれも幸子のせいだが。
④、⑤は一番ラクなところだが……なによりも心証が悪いよな。留年するのだけは絶対に避けたいし……とココで僕は気が付いた。
誰かに教えてもらうにも、この時間では誰とも連絡が取れない。誰かにお願いするにしても、学校が終わる四時ごろになるまでは何にもできないのだ。
"今どうにもならないことは今は考えない――"
昔、エライ人がそんなこと言ってたような気がする。
そう思ったら急に気持ちがラクになった。あとのことは、またあとからゆっくり考えんべ。
昼飯を食い、取りあえず机に向かってみる。
相変わらず宿題をやる気は起こらず、④-⑤狙いの気持ちが心の中で大きくなっていた。
原はあんな事を言ってたが、宿題をやらなかったくらいで留年って……そこまで横暴なマネはできないような気がする。
そう考えると不思議と気持ちは落ち着いてきた。
僕の中での最新のオッズは、④、⑤が一番人気を争い、その後ろに②、①、③と続くカンジで――
「……ん?」
一階で電話が鳴っている。
だが、誰も出る様子がない。また爺ちゃんしかいねえんだべ……。
僕は階段を駆けおりて受話器を取った。
「――はい。もしもーし」
『あ、杉浦?』
聞こえてきたのは麻衣子の声だった。
昼休みに電話をくれた彼女は、いきなり『寝てた?』と尋ねてきた。
「おまえ……オレがいつでも寝てると思ってんべ?」
失礼なやつだ。だいたいこんな時間から寝てるわけがない。
「いまは勉強してましたよ、ちゃんとな」
どうだ。驚いたべ……ん? あれ……受話器の向こう側が急に静かになったような……。
「もしもーし?」
『……ゴメン。邪魔しちゃった?』
彼女は小さな声でそう言った。
「え……いや、そんなことないけど。」
そんな申し訳なさそうな声で言われると、コッチが悪いような気になってくる。それに……考えてみれば寧ろコッチから連絡を取りたいと思ってたくらいなんだから。
『あの……』
彼女は遠慮気味に呟いた。『今日、帰りに杉浦んち寄ってってもいい――』
そのとき僕には微かに聞こえたような気がしていた。
最終コーナーでウチを突いて駆け上がってくる③の蹄の音、そして④⑤を蹴散らす嘶きが――。
大穴がくる気配に僕は拳を握りしめ、そして自然に頬が弛むのを感じていた。
***
麻衣子の学校が終わるのを見計らい、天神町の公園で彼女を待った。
程なく現れた彼女は、急いできたのかやや息を切らせていた。
僕は借りてきた幸子の母のママチャリの後ろに彼女を乗せ、家に向かった。
途中の上り坂が思った以上にキツかったが、そこは意地とプライドで走破し、フトモモがパンパンになりながらも家に着いたのは午後四時になるちょっと前だった。
「あれ? なんか……変わったよね?」
彼女は部屋に入ると、机とベッドを指さした。
「ああ。一昨日、大掃除をしてさ。ついでに変えてみたんだ」
「ふ~ん」
麻衣子は部屋を見渡した。そして「こっちの方がいいんじゃないかな……多分」。
彼女はそう言ったが、結構適当な人だということを僕は既に知っていた。
「まあ、取りあえず座ってよ」
僕は座布団を一つ、麻衣子に手渡した。
「あの……昨日の電話のコトなんだけど――」
「ちょっとそのまえに――」
僕は麻衣子の話を遮り、机の上のプリントに手を伸ばした。
「これ、まったくできなくて困ってたんだ。……教えてくれない?」
そう言って僕はテーブルの上にプリントを広げた。
麻衣子はは無言だった。
ただ一瞬、僕の顔とテーブルの宿題のあいだに視線を往復させたのがわかった。
頭のいい娘だから、いまの状況を彼女なりに整理しているのだろう――。
「……昨日言ってた大事な用事って……コレ?」
麻衣子は上目遣いに僕を見た。
「まあ、それもあるけど……」
「……けど、ナニ?」
そう呟いた彼女の僕を見る目は冷たかった。さっきまでとはまるで違うヒトみたいに。
「え。いや、その……いえ、なんでもないス……」
僕は頭を下げた。
彼女は僕の言い訳を赦さないオーラを纏っていた。
このときになって僕はようやく気が付いた。
僕は自分で思っているよりずいぶん無邪気な奴なんだということに……いや、思慮が浅いという方が正解に近いかもしれない。
「ったく――。」
彼女はため息を吐いた。
その深いため息とともに、舌打ちが聞こえたような気がして、僕は肩を窄めた。
「で……どこがわかんないの?」
彼女の言葉に、僕は顔を上げた。
麻衣子はそう言いながらも優しい笑顔をだった。しかしそれもはじめだけで……その表情はだんだんと険しくなっていく――。
「ちょっと……全部じゃない……」
彼女は呆れたように呟くと、天を仰いだ。
結局、宿題のほとんどを彼女に任せてしまった……。
「本当に助かりました!」
深々とアタマを下げた。
「駅まで、いや家まで送っていきます……いや、送らせてください!」
僕は言ったが、麻衣子は目を伏せ、軽く手で払うようにして「結構です。」とだけ呟いた。
家を出てバス停まで歩くあいだも彼女はヒトコトも喋らなかった。
そんな麻衣子の態度はバス停に着いてからもナニも変わらなかったが、その横顔からは「怒っている」という雰囲気は窺えなかった。
やがてバスが僕らの目の前にやってきた。
ドアが開いたとき、僕はもう一度「駅まで送っていく」と彼女に告げたが、さっきと同じように……いや、さっきよりさらに毅然とした態度で拒絶された。
「じゃ……悪いけどココで――」
仕方なく僕はバスに乗り込む彼女の背中に声をかけた。「今日は本当にあり――」
「これは貸しってことにしておくから。」
麻衣子はバスのステップに足をかけたところで、僕を振り返りそう言った。
そしてアゴを突き出すようにして不敵な微笑を浮かべると、僕に向かって思いっきり舌を出した――。
麻衣子を乗せたバスを見送った僕は、その場に立ちつくしていた。
勝ち誇ったような彼女の表情に、ナニかとてつもない大きな負債を背負わされてしまったような気がして……僕は人知れず背筋を強ばらせた。