【011】 ハヤリ病と大根役者
「ただいま……」
午後八時。
帰宅した僕はテンションをやや低めに保ち、玄関に足を踏み入れた。
「おかえり……ん? どうしたの。元気ないわね」
いつものように居間から顔を覗かせた幸子が声をひそめた。
「ああ。ちょっと熱っぽいからもう寝るわ」
僕は低い声で応えた。
「え? ゴハンは?」
「……いらない」
小さく手を振った。
「ええ~」
彼女は驚きの声を上げていたが「さっき牛丼を食ってきたから」とは口が裂けても言えない。
僕は仮病に罹ってみた。
もちろん杏子にうつされたってワケじゃないが。
階段を昇りきり、自分の部屋に入ると静かにドアを閉め、大きく息を吐いた。
あとできっと麻衣子から電話があるハズだ。
でもちょっと今は話をする気になれない……そこで僕は考えた。
熱があるから寝てるって言えば、幸子や婆ちゃんも僕につなぐことはないだろう、と。
今はまだ八時。
見たいテレビもあったが今日だけは我慢だ。でも……こんな時間に寝れんのかな。
そう考えていた僕だったが、布団に入ったとたん、当たり前のように意識は遠のいていった―――。
"あれ? ホントに寝ちゃってるよ"
"あ、やっぱりいいです。……帰りますから"
"大丈夫大丈夫。いま起こすから待ってて"
"え。いえいえ、いいですって……"
「マサル! 起きなさい!」
突然、部屋の明かりがつけられた。
僕は舌打ちした。
「……なんだよ。寝てんのによぉ……」
眩しさに目を細めながらも幸子を睨みつけた……ん? 肩越しにもう一人誰かの顔がある――。
「――?! ……なんでいるの? お前!」
麻衣子だった。
彼女は申し訳なさそうな顔で僕にアタマを下げた。
「お見舞いに来てもらったのよ。気が利くでしょ」
幸子は胸を張った。
僕はしばし呆然としていた。
〈嘘だろ? 余計なコトしやがって……〉
考えられない展開だ。
男心をまったくわかってない。これじゃ僕の小芝居が台無しだ――。
「じゃ、コーヒーでも淹れてくるから。麻衣子ちゃんはココにでも座ってて」
幸子はクッションを麻衣子に差しだした。
〈ちっ、ナニ仕切ってんだよ、俺の聖域で。〉
僕の視線を完全に無視し、幸子は部屋を出ていった。
階段を下りていく足音がだんだん遠くなる――。
「ゴメンね。迷惑だったよね」
麻衣子が言った。気まずそうな顔で。
「いや……ゼンゼン平気、ですよ」
何が平気なんだろうか……全然平気じゃない状況だ。
「頭痛とか、あるの?」
「いや、大丈夫……」
なにしろ仮病だからね……心配はいらない。
それにしても部屋の空気が重い。
麻衣子も病人に気を遣っているのか、あまり喋らない。
しかし黙っていると得体の知れないナニかに押し潰されそうだ――。
「……昨日はゴメン……」
沈黙に負けるのはいつも僕の方だった。
「え、いいよ。ちょっと心配したけど……」
彼女は俯いていた。
「どこに行ってたの?」
「あ、ああ、友だち。昔の友だちんち」
「約束も忘れて?」
「……ゴメン」
僕は幾つかの嘘をついていた。もうどれが嘘なのかハッキリしないくらいに。
「でも少し安心した」
麻衣子が顔を上げた。
「さっき電話したらね、お姉さんが『優が倒れちゃったからお見舞いに来てやって』っていうからビックリして」
「え?」
幸子のヤツ……なんちゅう嘘を吐くんだ。あとでキツク説教してやる必要があるな。まあ……僕もヒトのことは言えないかもしれないが。
「でも……大したことなさそうね」
「ああ、大したことないスよ」
重ねて言うが、仮病だからね……。
「そういえば、杉浦の部屋に来たのって初めて」
「え、そうだっけ? 高橋先輩と来たべよ?」
「あの時は玄関先で帰ったから……」
「そうだったっけ……?」
彼女はもの珍しげに部屋を見回している。
見られてマズイモノはとくにないけど、恥ずかしいからあんまり見ないで欲しい。
「これって杉浦がいたチーム?」
「は?」
麻衣子は机に飾っておいた写真立てを手に取った。縁には埃が積もっている。
「ああ。中学んときのな」
潮見のグラウンドで最後に撮った集合写真。
甲子園で会おう――そう誓って別れた仲間たちが、そこにはいた。
「強かったんだっけ?」
「まあな」
写真の僕は首からメダルをぶら下げ、笑っていた。
そのとき、階段を昇ってくる足音が響いてきた。
足を踏みならすようなサウンドが部屋の前で止まった。「お待たせー!! ドア開けてー!!」
麻衣子が立ち上がりドアを開けると、トレイを持った幸子が立っていた。
「両手がふさがってたの。悪いわね」
幸子は僕の方に目を向けると「じゃ、ごゆっくり」と言って一階に下りていった。
「がさつな女だな。ああなったら終わりだよな」
「そぉ? いいお姉さんじゃない。優しいし」
麻衣子は笑みを浮かべて、幸子が出ていったドアの方を見ていた。
「姉貴は外面がいいからな。でもまあコーヒーを淹れるのだけは上手いよ。マジで」
麻衣子は僕が促すままに、カップに口を付けた。
「ホントだ。美味しい」
「だろ?」
僕は自分が褒められたワケじゃないのに、得意げに鼻が膨らむのが判った。
麻衣子はしばらく僕の部屋で遊んでいた。
ヘルメットを被ってみたり、グローブをはめてみたり、バットを構えてみたり、と。
「でもよかった。杉浦も元気そうだし。じゃ、そろそろ帰るね」
彼女は立ち上がり、軽く手を振った。
僕は心が痛んだ。
彼女に対してというより嘘ばかりついてる自分に対して。
そして、そんなことを考えながらまた新しい嘘を考えて――。
そして麻衣子はカップを乗せたトレイを持って部屋を出て行った。
僕はただ彼女を見送ることしかできなかった。
麻衣子が出ていった部屋は静かだった。耳の奥がキーンとするぐらいに。
時計の針は十時半を指していた。
アタマが妙に冴えてしまっている。今度こそ眠れないかもしれないが……
それでも僕は眼を閉じた。
ドスッ、ドスッ、ドスッ――
「……」
階段を昇ってくる足音……もう少し静かに歩けないんだろうか?
ガチャ――。
「ほら、あんたも行くわよ。」
いきなりドアを開けた幸子は、そう言って僕の布団を剥ぎ取った。
「あ? ナニいってんの、アンタ。オレ寝てるんだけど」
「うるさい。いいから早く着替えなさい!」
幸子は強い口調で僕にそう命じると、また足を踏みならして一階におりていった。
〈これが『ヤマイに倒れてる人』に対する仕打ちかよ?〉
僕は舌打ちしながらも渋々着替えはじめた。
だいたい病人(仮病)を連れてドコに行こうと言うんだ?
一階におりると、居間には麻衣子がいた。
「あれ? お前、帰ったんじゃないの?」
「うん、帰ろうと―――」
「女の子一人で帰らせるワケには行かないでしょ。アタシが送っていくわよ」
幸子は麻衣子の言葉を遮り、そう言った。
「はあ。そうなんスか? ジャ、ヨロシクオネガイシマスネ」
恩着せがましいことを言うヤツ――。そう思いながらも僕は礼を言った。
「アンタも行くのよ」
「はあ? オレ、病人なんスけど、一応」
僕は声を上げたが、幸子は黙って首を横に振った。
コノ女はいったい……僕の迫真の演技を見て何とも思わないのだろうか?
「さっきのコーヒーに薬入れといたから平気よ。もう治ってるんじゃない」
「……」
「それに送っていった帰りに女の子一人じゃ心配でしょ」
幸子は自分を指さした。
「はあ? 姉ちゃんは平気だろ。絶対心配いらねえよ――」
クスクスッ
さっきから笑いを堪えていた麻衣子が吹き出した。
「……とにかく。アンタも行くのよ」
幸子は少し顔を赤らめ、上着を羽織った。
幸子のトレノは後ろの席は非常に狭い。
なのに僕が後ろの席に押し込められた……一番デカイのに。
「じゃ、行くわよ」
幸子はギヤを1速に入れると、静かに走り出した。
「稲村ガ崎って言ってたわよね?」
「はい。七里ガ浜東に近い方なんですけど……」
「じゃ、近くになったら教えてね」
そういうと、幸子はスキール音を鳴らし、突然スピードをあげた。
トレノは僕が知らないような道をどんどん進んでいった。
僕はいま、いったいドコを走っているのか判らない。
夜だということもあるけど、それだけじゃない。
さすがに地元民。恐るべし。
「あ。この、もうちょっと先を右に入ったところです」
麻衣子がフロントガラスの先を指さした。
結局、R134には一度も出ないまま、稲村ガ崎まで到着した。
「あの……本当にありがとうございました。かえって迷惑をお掛けしました」
麻衣子は幸子に向かってペコリと頭を下げた。
「気にしないで――」
幸子は麻衣子に笑いかけると「また遊びに来てやってね、バカだけど悪い奴じゃないから」と助手席に移動した僕の頭をポンポンと叩いた。
「じゃ、杉浦もお大事に」
「おう、じゃな」
軽く右手を挙げた。
僕と幸子は、麻衣子に見送られ踏切方面に向かって走り出した。
R134に出る信号は赤だった。
「痛てっ!」
突然幸子が僕のアタマに拳骨を喰らわせてきた。
「……なにすんだよ~」
「何で仮病使ったりしたのよ。」
幸子は僕を睨みつけてきた。
「え……なんスか?」
「なんすか、じゃないでしょ。牛丼かなんかの臭いプンプンさせて帰ってきて、食欲ない~とか言っちゃってさ」
「……」
モロバレじゃん。
僕には俳優の道はないみたいだ。
「麻衣子ちゃんから電話あったって言ってたのに電話しなかったでしょ。したの?」
「……してない」
「朝帰りした挙げ句に今日、熱があるとか言い出したでしょ、これは絶対に彼女から逃げてるって、ピンッときたわ」
ピン、ですか……
「まあ、ナニをしてたっていいんだけど……ああいう娘を泣かしたら怒るわよ」
「え……だって泣かすもナニも別に麻衣子とは付き合ってるワケじゃないしよ……」
「バカなのアンタ。それとも惚けてるの? もし好きじゃないなら気を持たせるような態度はやめなさいよ」
幸子はいつになく厳しい口調だった。
R134は走るクルマも疎らだった。
小動の信号を右に折れ、藤沢駅に近付く頃になっても幸子はひと言も喋らなかった。
僕としても誰かに真剣に怒られたのは久しぶりで……ガラにもなく凹んでいた。
「……反省してるの?」
藤沢橋の信号で止まったとき、幸子が助手席の僕に目を向けた。
僕は黙ったまま頷いた。
「ホントに反省してる?」
「……してます」僕は声を絞り出した。
「じゃ――何か食べて帰るか。そろそろお腹も空いたころでしょ?」
幸子は僕に向かって微笑んだ。
「……うん。ハラ減った」
僕はその笑顔を見てなぜだか安心した。安心したら猛烈に腹が減ってきた。
「明日、麻衣子ちゃんにお礼の電話するのよ」
「はい。ちゃんと電話します」
「それから約束は守る。守らないなら約束しない。わかった?」
「はい。肝に銘じておきます」
「それから――」
幸子の説教は今日も延々と続く。
だけど……いまは少しだけ素直に聞けそうだった。