【006】 才能と環境と将来性
男は困惑していた。
怒号が飛び交う中、人込みを掻き分けて乗り込んだワンボックスカーの車内で、ようやく一息つくことができた。
二年ぶりの日本。
空港にはたくさんの報道陣が詰めかけていた。
向けられた無数のマイクと、点滅するフラッシュの眩しさ――
日本を出発ったときには到底考えられなかった光景。
男は懐かしさに目頭が熱くなっていた。
「こんな騒ぎになってるとは思わなかっただろ」
助手席に座っていた初老の男性が右手を差しだした。
「ええ――」
男はその手をガッチリと握り返すと、「本当に斎藤さんのお陰です」
そう言って、助手席の男に深く頭を下げた。
男はプロ野球選手だった。かつては将来を嘱望されたスター選手だった。
入団一年目で新人王を獲得し、三年目にはクリーンアップの一角を努めるまでに成長した。
しかし……四年目のシーズン、彼の野球人生は突如として暗転する。
試合中に負ってしまった選手生命を脅かす大怪我。
その年の大半を棒に振りながらも懸命のリハビリで再起を目指した、しかし……翌オフに戦力外通告を受けた。
結局、他球団からのオファーもないままに彼の現役生活は静かに幕を下ろした。
だが彼はまだ諦めていなかった。
自費で渡米して膝にメスを入れることを決断した。
暖かい沖縄に拠点を移し、出口の見えない辛いリハビリに耐え続けた。
そして一昨年、彼は二年のブランクを経て現役復帰を果たした。新しい所属先は台湾の球団だった。
その台湾行きを後押ししてくれたのは、ここにいる京葉工科大学野球部総監督の斎藤だった。
「ビデオで見たが、本当に素晴らしい活躍だったな」
斎藤が唸った。
「いえ……レベルが全く違いますよ。日本が高校生だとしたら、台湾はちょっと上手い中学生くらいでしょうか」
謙遜するように首を振った。
二年目となる今季、彼は完全復活を遂げていた。
台湾リーグの打撃部門で、シーズン記録の大半を塗り替える活躍でMVPを獲得、チームを初のリーグ連覇に導いた。
そして二年契約が切れる今オフ、彼の去就を巡って周囲は慌ただしさを増していた。
羽田を出発したワンボックスカーは、首都高速道路を都心へと向かっていた。
「あ、忘れてた」
助手席の斎藤はポンッと手を叩くと、グローブボックスを開けて一通の封筒を取りだした。
それを後部座席の男に差しだした。
男は手を伸ばしてそれを受け取ると、表と裏を交互に眺めた。
「これは……?」
封筒には何も書かれていなかったが、手紙だと言うことは判った。
「名嘉村君からの預かりものだ。帰国したら真っ先に渡してくれと頼まれた」
斎藤はバックミラーに映る男にそう言った。
「名嘉さんか……」
男は懐かしい顔を思い浮かべた。
名嘉村は男にとって高校時代の恩師に当たる人間だった。
師弟関係ではあったが、当初は決して良好な関係だったとは言えないものではあった。
徹底した管理野球を掲げ、練習においても一切の妥協を許さない名嘉村と、天賦の才能で楽しみながら野球をやってきた男とは、そもそもの野球観に大きな隔たりがあった。
彼らはことある毎にぶつかり、ときには練習のボイコットにまで発展したこともあった。
しかし、ある日突然、彼らはうち解けた。
どんなきっかけがあったのか、いまとなっては男も思い出せないでいた。
ただ勝利に拘るという一点においては、彼らの利害が一致していたから、と言うことだったのかもしれない。
いまでは無条件に感謝していた。
あの苦しかった高校時代があったからいまの自分があると言える。あのときの練習と比べれば……と、だいたいの苦痛には耐えることができたのだから。
クククッ――
男は何かを思い出したかのように吹き出した。
〈名嘉さんの熱血ぶり……いまの後輩たちはついて行けるんだろうか。だいたいいまの高校生には――〉
ふいに男の脳裏を別の顔が過ぎった。
同時に湧き上がるワクワクするような気持ちが全身を駆けめぐる――。
「斎藤さん――」
男は弾む心を抑えて言った。「そう言えば……杉浦くん。 彼は元気でやってますか?」
***
都内某所――。
タバコの煙が立ちこめる会議室には、十余人の男たちが円卓を囲んでいた。
殺風景な部屋に置かれたホワイトボードには無数の名前が書き込まれている。
「関東はこれくらいか?」
痩せた白髪混じりの男が呟いた。
ここに集まったメンバーなかで一番年嵩に見えるこの男は、編成部長という肩書きを持っていた。
「――いえ」
円卓を囲んでいた若い男が人差し指を立てて身を乗り出した。「最後にもう一人だけ、これも投手なんですが――」
若い男は関東と甲信越を担当するスカウトだった。
スカウト部長以下、十一名のスカウトの中で一番若く、体格も良い。
現役時代の実績で言えば、この中では文句なしのナンバーワンだった彼だが、スカウトとしてはまだ三年目の駈けだしだった。
男は鷹揚な仕草でスーツの懐から手帳を取りだした。
そしてテーブルに広げたファイルと交互に見比べながらゆっくりと話し出した。
「――ます。球種はチェンジアップ、それからカット気味のボールを持っていますが、この投手の最大の魅力はスピードです。右の上手から投げ下ろすストレートは、中学三年時にMAX147km/h、終速でも130km/h台の後半をコンスタントにを計測するなど、球威、キレともに際だっています」
「確かにいいモノを持ってますよ」
向かいに座っていた恰幅のいい男が口を挟んだ。スカウト部長の青木だった。
「私も何度か見ていますが、ストレートの球質はAA評価でもいいくらいですね。フォームのバランスもよくて、イメージとしては……そうですね、ちょうど――」
かつて東京を担当していた彼が引き合いに出したのは、八年前に獲得した現エースの名前だった。
若い男は続けた。
「高校での実績が乏しいため中央球界では無名ですが、この世代では用田と並ぶ素材と言ってもいいでしょう。懸念材料があるとすれば故障歴があることと、さきほどもお話しました実績の乏しさです。もっとも、それが幸いして他球団のマークは弱くなっていますので、或いは下位での一本釣りも可能かもしれません。本人のプロ入り志向は依然として強いとの情報が入っていますし」
「リスクがあるな」
年嵩の男が口を挟んだ。周囲の人間も彼に同調するように頷いている。
若い男は微笑を浮かべると、再び話し出した。
「故障に関しては、スポーツ医学の第一人者で、彼の主治医でもある高木先生より"問題がない"旨の確認が既にとれています。実績についてもココからの半年間で十分、我々の期待に応えてくれると確信しています。まあ、それについては程々のところで負けてくれるであろうという期待も含みますが……」
男は僅かに頬を弛めた。
「今年は現場の意向もあり、ドラフト直前になって即戦力の野手に切り替えました。しかしながら、先発ローテーション投手が揃って円熟期を迎えている我が球団にとって、"次世代のエース候補の獲得" はまさに喫緊の課題です」
静かに手帳をを閉じると、男は視線を上げて言葉を続けた。
「少なくとも現時点ではリストに残すべきだと考えます。これはスカウトというより……打者の眼からみた私のカンです」。
会議室が沈黙に支配される中、年嵩の男は虚空を見つめたまま、タバコに火を付けた。そして大きく煙を吐きだすと、細い目を更に目を細めて言った。
「次回の編成会議には、球団首脳がお出ましだ。本気で奴らを説得する気ならさっきの材料だけじゃ弱いぞ。野球ってものをまったく判ってないからな、ウエの連中は」
「はい――」
「ところで山下。アッチの進捗はどうなってるんだ?」
年嵩の男はスカウト部長に声をかけた。
「はい。台湾とは話が付いていますし、金額を含めた条件面でも既に本人とは合意しています……なにしろ代表が直々に動いていますから。メディカルで問題がなければ週明けに契約、同時に会見を行う予定になっています」
山下はその質問を待っていたかのように早口で答えた。
「なるほど。ようやく荒井が戻って来るんだな……」
年嵩の男は満足げに何度も頷いた。そして灰の落ちそうなタバコを持った右手を若い男に向けて言った。
「そう言えば秋山。確かキミは同期だったか?」
「ええ――」若い男は小さく頷いた。
そして手にしていた手帳を懐におさめると「――彼は二位で、私が一位でしたがね」と表情を変えることなく呟いた。
***
今年最後となる練習試合の当日、涼のFZRがコンビニに姿を現したのは約束よりも少し早い時間だった。
既に到着していた僕は、駐車場の縁石に腰を下ろしたまま、涼に向かって軽く手を挙げた。
エンジンを切ってフルフェイスを脱いだ涼は、軽い調子で「悪いね。待った?」と言った。
「いや、べつに」
僕は買ったばかりのおにぎりをパクつきながら短く答えた。
ブルーのフルカウルのFZRはココでも目を惹く。
新品に見えるフルフェイスのヘルメットはラパイドだったが、FZRとは色が合ってないように思える。
アンバランスな感じ……まあ、本人が気にならないのならべつにどうでもいい話だが。
今年の最終戦、今日の対戦相手は綾南高校。
横浜市のはずれにある学校で、バイクならココから三〇分くらいでいけるらしい。
当然ながら僕はそんな名前を聞いたこともない学校になんか行ったことがなかったが、涼は「だいたいの場所は判る」と言っていた。
だけど一応場所は昨日のうちに酒井に教えてもらった。あくまで念のために、だ。
店内の時計を覗くと、針は十一時をまわったあたりを指している。
正午に集合のハズだったから少し早いが、遅刻するよりは早く着く方がいいに決まってる。
「じゃ……そろそろ行くべか」
おにぎりの最後のひとくちを口の中に放り込んだ僕は、勢いよく立ち上がった。
「取りあえず、町田線を真っ直ぐ行って桜ヶ丘を――」
涼が得意げに話してはいるが、僕にはまったく判らない。
「いいよ。涼、マエ走れよ」
話を遮ってそう促すと、涼はヘルメットを被る手を一瞬止めて目を細めた……なんか知らんが嬉しいみたいだ、前を走ることが。
涼はセルでエンジンを始動させると、一度僕を振り返ってからフラフラと走り出した。
〈なんか危なっかしいし……〉
僕は一抹の不安を抱きながら、彼の背中を追いかけた。