【005】 笑顔の意味
国道と交差する信号が黄色に変わった。
アクセルを開ければ十分に間に合いそうなカンジもあったが、そこまでする理由がいまは見当たらない。
僕はゆとりをもってスピードを落とすと、信号が赤に変わるのとほぼ同時に停止線にRZをつけた。
もはや珍しいことではなかったが、僕の遅刻は既に確定している。
なにしろ家を出たときには九時を大きくまわっていたのだから。
中学時代は、時間に正確な男を自負していた僕。
だけどこっちに来てからは遅刻続きで、しかもソレにすっかり慣れてしまって急ぐこともしない。
ヒトって環境で変わるもんなんだなあと今さらながら思ったりして――
〈あ……〉
国道の信号が青に変わったとき、僕は大変なコトを思い出してしまった。
今日の一時間目は確か数学だったハズ……。
中間テストで破滅的な点数だった数学。三年になれるかどうかのカギは、もはや出席日数に掛かっていると言っても過言ではなかった。
しかし、その出席日数もおそらくはギリギリ。
先週もこの時間には"今日とまったく同じコト"を考えながら、大庭のトンネルあたりを激走っていたと思う。
もし仮に留年しちまうようなコトがあったら、一時間目に数学を持ってきた教師を僕は赦さないだろうな、きっと。
僕は不意に湧き上がった焦りを抑えながら、アタマのなかで最短ルートの検索を始めた。
学校近くのコンビニの前にたどり着いたとき、時計の針は九時半を指していた。言うまでもなく、絶望的な時間だ。
僕はコンビニの駐車場を横目に、わき道に入った
以前はココの駐車場の一角に停めさせてもらっていたが、最近はココよりも少し学校から離れた『神社』に停めるようになっていた。
それというのも、新しく赴任してきた教頭がヒマな教員たちを動員して『バイク通学者の一斉摘発』に乗り出していた。
で、まっさきにマークされたのがココのコンビニに停めてた原チャリ。
ココに原チャリを停めてた奴らは、もれなく三日間の自宅謹慎を言い渡されていた。
僕のRZも間違いなくナンバーは控えられているハズだったが、原チャリと比べて身元がワレにくいからなのか、未だにお咎めはない。
それでも念のために、少し学校から離れた場所に新たなバイク置場を確保した。
いま謹慎なんてくらったら留年にリーチが掛かるのは確実……いや、既にリーチが掛かっている可能性も否定できなかった。
「――ん?」
RZを神社に乗り入れると、いつもの僕の定位置に見慣れない単車が停まっているのが見えた。
遠目からでもわかるブルーのフルカウル――FZRだった。
僕はFZRのすぐ横にRZを寄せてエンジンを切った。
ココに停めてるってことは、ウチの学校の奴の可能性が高いが……一体誰なんだろ?
FZRに興味はあったが、いまはそれどころではない。
僕は抜いたキーを握りしめたまま、学校に向かって全力で走り出した。
せめてもの誠意(=汗)を見せる為に――。
***
「――やっぱ、ココだったか」
声に目を開けると、及川涼が立っていた。
涼はニヤけたツラをして、僕を見下ろしている。
昼休みの屋上は僕の貸し切りになっているハズだったが……貴重な昼寝の時間にいったい何の用なんだ。
「ナニ……?」
僕は眩しさに目を細めながら囁くように言った。
「スギちゃんに用があったんだよ」
まあ……そりゃそうだろ。ココには僕しかいないんだから。それに……普段はそんな呼び方しねえだろ。
僕は心の中で身構えたが、そんな僕の心中に気付くことのない涼は満面の笑みを浮かべたままだ。
「マジでナンか用かよ?」
ニヤついたまま僕を見下ろす涼に対し微かな苛立ちを覚えたが、敢えて落ち着いた声で言った。
「神社にあったの見たべ? アレ、俺の」
神社……? ああ――え。
「FZ……?」
「チッチッ。FZじゃなくて、FZRね」
どっちだっていいべよ。
僕は思ったが、涼があまりにも嬉しそうなので何も言わなかった。
きっと誰かに話したくて仕方がなかったんだろう。
「でさ、今度の試合、一緒に行くべよ」
涼はスロットルを回す仕草をした。
「スギちゃんちに迎えに行くからさ――」
涼は矢継ぎ早に言った。
週末の試合は……確か今年最後の練習試合だった。
その日、麻衣子は来れないようなことを言っていた。確か模試かなんかがあるからとか言ってたような――。
じゃ、バイクでも問題ないよな。
「べつにいいけど……ウチの近くのコンビニにすんべよ」
ウチまでバイクで来られると婆ちゃんがあんまりいい顔をしないような気がする。
「オッケー! それじゃあ、コンビニな? 時間はあとで決めんべ」
涼はそれだけを僕に伝えると、足取りも軽くスチール扉の向こうに姿を消した。
***
眠い。マジで眠すぎる……。
放課後の廊下をアクビをかみ殺しながら歩いていると、前から俊夫がやってくるのが見えた。
「あれ? 杉浦、練習はよ?」
俊夫がすれ違いざまに言った。
「病院。」
僕が短く答えると、ヤツは「いいなあ」と小さな声で言った。俊夫は僕の通院を「練習を休むいい口実」くらいにしか思ってないみたいだ。
学校を出て、いつものようにコンビニに立ち寄ってから神社へと向かう。
コンビニの脇から裏道に入り、左手に広がるネギ畑を横目に……のはずだったが、畑には今朝は見かけなかったダンプが二台、乗り入れられていた。
ナニができるんだろ……そんなことを考えながら神社に足を踏み入れた。
僕のRZの周りには五台のバイクが停まっていた。そのなかにあって存在を誇示するように異彩を放つ涼のFZR。どう見ても神社の境内には不釣り合いな色あいだ。
僕はあらためてFZRを眺めてみた。
涼の自慢の愛車――。
ふと、フツフツと湧き上がる悪戯心。
しかしそんなことをしても誰も得をしないので今日のところは自重しておくことにするか。
僕はRZにキーを挿し、キックでエンジンを始動させた。
静かだった神社の境内に排気音が響き渡る――。
その爆音を遮るようにフルフェイスを被ると、シールドを薄く開け、ゆっくりと走り出した。
コンビニの脇から通りに顔を出すと、正面から知ってる顔が歩いてくるのが見えた。酒井と柴田だった。
「なんだよ。帰んの?」
酒井は少し不満そうな声で言った。
その後ろでは柴田が僕に向かってアタマを下げた。
「病院だ。坂杉には言ってあるからよ」
僕はそう言うとフルフェイスのシールドをおろし、アクセルを軽く煽った。
酒井たちに見送られながら、通りを東へと走り出した。
浜見山をすぎ、警察署の信号を右折して細道に入る。
クネクネと曲がりくねった道を進み、踏切をわたり、鵠沼の住宅街を抜けるとやがて広い道が出てきた。
その道を渡った先の、マンションに囲まれた小さな公園。その一角にRZを乗り入れると、僕はエンジンを停め、フルフェイスを脱いだ。
僕は月に一度、気が向けば二度ほど川崎の病院に通っている。
途中サボってた時期もあったけど、通い始めてからもう二年になる。
最初の半年は江東区の実家から、次は町田から、いまは藤沢の爺ちゃんちから。
こっちに来てからは、病院へは茅ヶ崎から電車に乗って行くことがほとんどだったが、最近は藤沢から乗ることが多くなっている……今日で三回連続だ。
公園にRZを残し、南藤沢の交差点を小走りで渡ると、駅までは一直線。
食欲を刺激するさまざまな誘惑と戦いながら、僕は脇目もふらずに駅へと急いだ。
〈まだちょっと早かったか……〉
僕は改札近くの壁にもたれ、行き交う人たちを眺めていた。
こんなところでこうしていると、以前にもここで待ち合わせをしたことを思いだす。
僕がこっちに来てから一年が過ぎていた。
だんだん知ってる道も増えてきたし、知ってる顔も増えてきた。
でもそのぶん記憶が薄れてきたモノもたくさんあって……ヨソモノと言われた頃が懐かしく思うこともある。
〈それにしても……ヨソモノはないよな〉
不意に笑いが込みあげ、僕は周囲からの視線を避けるように足元に目を落とした。
多分……初めて会ったときから僕は彼女に惹かれていたんだろう。
当時の僕はそれに気が付かなかったのか、それとも気付かないふりをしていたのか……今となっては確認するすべはない。
ただひとつ言えるのは――
「――待った?」
声に顔を上げると、麻衣子が目の前に立っていた。
僕のシンキングタイムに割って入ってきた彼女は、めずらしく息を弾ませていた。
「別に……待ってないよ」
「そ。じゃ、行こっか?」
彼女はそっけない僕の返事を軽く聞き流した。
『あたしも付いていっていい……?』
二ヶ月くらい前、麻衣子が唐突にそんなことを口にした。
彼女は僕が通院していることを知っていた。僕が話した憶えはないから、おそらく高橋先輩から聞いたのだろうが。
「遊びに行ってるワケじゃないから――」
僕はやんわりと拒否の意志を見せた。
しかしそれをものともしない彼女の笑顔に負け、僕は渋々ながらOKを出した。
彼女は高橋先輩と違ってゴリ押ししてくるようなことはなかった。
でもこっちにきて慣れない頃に世話になった……というか迷惑をかけたという負い目もあり、頼まれると何となく断りづらい。そもそも大したお願いじゃないから別にいいかと――。
だけど彼女はそれ以降、病院にフツウに付いてくるようになった……しかも保護者面して。今日で三回連続だ。
藤沢駅から乗った電車は空いていた。
ドア近くの座席に僕が腰を下ろすと、麻衣子も隣に腰を下ろした。
「ねえ。帰りに付き合って欲しいところがあるんだけど」
麻衣子は座ると同時にそう言った。
「いいよ。べつにヒマだし」
僕はそう答えると、制服の内ポケットから徐にイヤホンを取りだし、両耳に挿した。
ボリュームをあげると、テープの回るカサついた音とともに曲が流れ始める。
「悪いけど、川崎に着いたら起こしてよ」
そう僕が告げると麻衣子は何かを言ったようだったが、僕は目を瞑り、睡眠の体制に入った。
しかしなんでこんなに眠いのか……自分でも不思議だった。
それにしても、彼女が一緒に来てくれるとこういうときにはホントに助かるよな――。
「――ねえ!」
彼女が僕のイヤホンを抜き、耳元でナニかを言った。
「え。……着いた?」
反射的に窓の外を振り返った。
「まさか。いま大船をでたところ」
彼女は平然と言ってのけた。
僕はため息を吐いた。
「え~と……川崎って言いましたよね?」諭すように言った。
しかし麻衣子は無言だった。
だけどその表情はどんな言葉よりも雄弁に彼女の不満を表していた。
確かに彼女の言いたいコトは理解できなくもない。だけど勝手に付いてきた彼女にそんなこと言われるスジアイはゼンゼンない……ハズなんだとは思うのだが――
「スイマセンでした」
僕はオワビの言葉を述べた。そして「ホントに眠いので寝ててもいいスか?」と懇願した。
しかし彼女は僕の問いには答えてくれなかった。
代わりに手にしていた片方のイヤホンを耳に当ててナニかを呟くと、うっすらとした笑みを浮かべ僕から視線を逸らした。
***
「次はいつ?」
病院を出ると、それまで押し黙っていた麻衣子が口を開いた。
「来月。まだ決まってないよ」
「じゃあ、決まったら教えてね」
彼女は当たり前のように言った。
川崎を往復するくらいなら暇つぶしとしてはちょうどいい、と考えているのかもしれない。
外は思っていたよりも明るかった。
〈まだ練習やってるよな……〉不意に僕は時計に目をやった。
さっきから少しだけ感じる後ろめたさ。
別にサボっているわけじゃないし、病院に行ってたのは本当だ。それにいまから急いで帰ってもその頃には練習も終わってるハズだし……ま、いいや。
「え~と。どっか寄るところあるんだっけ?」
麻衣子を見下ろし言った。
「うん。横浜なんだけど……いい?」
「いいよ。どうせヒマだしな」――。
いつものことだが、帰りの電車は非常に混んでいた。
こんな電車で毎日通勤するサラリーマンのヒトタチには感心する。
すし詰め状態の車内で、麻衣子は静かに僕に身を寄せて……いや、僕を盾にして、という方が表現としてはきっと正しい。
横浜駅に着くと彼女は西口方面に歩き出した。
彼女に導かれるまま駅前のビルに入ると、僕はベンチを見つけ立ち止まった。
「俺、ここで待ってるよ」
ベンチを指さした。
「え~、なに老人みたいなこと言ってるの?」
彼女は僕の言葉を冗談として受け取ったようだが、大マジだ。
「ほら、置いてっちゃうよ」
彼女はそう言って僕を手招きした。
置いてってくれるならそれでもいいような気もしていたが……渋々ながら彼女の言葉に従った。
「――よね?」
声に顔を上げると、麻衣子が僕に向かって首を傾げていた。
「あ……悪い。聞いてなかった」
僕は鼻を掻いた。
麻衣子は手にしていた服を元の棚に戻すと、「疲れちゃった?」とため息まじりに呟いた。
「いや。平気」
僕は即答した。
彼女はそれに対して何かを言いかけたが、言葉にはしなかった。
それでも表情が曇る様子は手に取るように判った。この時になって初めて僕は自分の不誠実さに気が付いた。
「あのさ。え~、なんだ、その……メシでも食ってかない? オゴるけど?」
僕は場を取り繕うように言葉を並べた。
「え……あ、ゴメンね。今日はウチで食べるから」
彼女はそう言ったきり、押し黙ってしまった。
続く言葉を見つけられないまま、僕らは立ちつくしてしまった。
「――でも……お茶くらいならいいかな」
しばらくして、麻衣子が言った。囁くような小さな声で。
それは痺れを切らした彼女が助け船を出してくれたみたいに思えて……少しだけ申し訳なく、そして恥ずかしい気分になった。
僕らは地下街におりて、最初に目に入った喫茶店に入った。
「――ちょっと迷惑?」
「……何が?」
「病院までついてったこと」
向かい合って座った麻衣子は伏し目がちに呟いた。
「べつにそんなことはない、けどな」
実際に迷惑はしてないが、そう訊かれると何と応えたらいいのかわからない。僕の答えはいつも言葉尻が曖昧……自分でもよく判っている。
「じゃあ、次も……いい?」
彼女は僕の表情を窺った。
「べつにいいけど……なんか面白いことあるか?」
僕が首を傾げると、彼女は何かを思いだしたように「まあ……それなりに」と微笑んだ。
「そう言えば、杉浦のオートバイって何cc?」
彼女は言ったが、バイクに興味を示すのはめずらしいことだった。
「RZ? あれは350だけど」
「じゃあ、中型なの?」
麻衣子はテーブルに身を乗り出すようにしてきた。
「一応……そうだけど」
「見せて」
彼女は掌を僕の鼻先に突き出してきた。
「……ナニを?」
「免許証。」
僕は言われるままに財布から免許証を取りだし、麻衣子に手渡した。
彼女はそれを手に取ると何度も表と裏を見比べたが、写真が気に入らないからあんまり見られたくはない。
「中型に限る……こんなこと書いてあるんだ?」
不思議なものを見るように見入っている。
「これは実家の住所?」
「そう。警察に行くのが面倒くさいからそのまんま……もういいべ?」
僕は彼女から免許証を取り上げると、財布にしまった。
財布をポケットにおさめると、狭い店内を見渡しながら、カップに口を付けた。
同時に口いっぱいに広がるコーヒーの苦み――。
実家にいた頃、僕がコーヒーを口にすることはほとんどなかった。というより嫌いだから飲まなかった。
しかしコッチに来てからは、幸子が毎日のように淹れてくれる……嫌いだと言ってるのに半ば強制的に。
おかげさまでいまではフツウに飲むようになった。つくづく「人間には耐性ってものがあるんだなあ」と感じる――――ん?
麻衣子の顔が視界に入った。
彼女はテーブルの一点を見つめ、意味ありげな笑みを浮かべている……。
「ナニ……?」
彼女を視線を正面から掴まえた。
すると彼女はその言葉を待っていたかのように再びテーブルに身を乗り出してきた。
「実はね……免許取ろうかなと思って」
原付だけどね――。麻衣子はにっこりと笑った。
「え。止めといたほうがいいんじゃね?」
考えるより早くセキズイが反射した。
「え~なんで?」
一瞬、息を呑んだように固まった麻衣子だったが、いまはあきらかに不満げな表情を浮かべていた。
「だって危ねえじゃん」
僕はチカラを込めていった。
絶対に危険だと思う。
彼女……そして彼女の周辺も含めたみんなが。
「まあ、これから寒くなるしさ。春に暖かくなってきたら考えればいいじゃん……な? そうすんべよ?」
彼女を宥めるようにやんわりと答えを濁した。
「そろそろ帰ん――」
言いかけたところで、僕は口を噤んだ。
彼女はまだ首を傾げていた。
依然、納得がいかないといった表情のままで……まったく困った人だな。
しかしその表情に、ふと何とも言えない可笑しさが込みあげてきた。
僕は口許が歪むのを堪え、意味もなく背筋を反らすと、そっと窓の外に視線を伸ばした。
ご機嫌斜めな彼女に「笑顔の意味」を悟られないように気を付けながら。