【002】 僕の夏
住宅地の細い路地を抜け、歯科医院の脇を抜けると、駅までは一直線だった。
前を歩く麻衣子は僕の方を振り返る様子はない。というより彼女が醸し出す無言の圧力の前に、僕は気配を殺して彼女の背中を追うことしかできないでいた。
麻衣子が不機嫌になる理由――。
それについてはいくつかの心当たりがあった。さっき走らせたということもあるのだが、それがすべてではない。
球場から出てきて顔を合わせたとき、彼女はすでに「不機嫌のタネ」をハラに隠し持っていたはずで……。
「そういえば、誰か応援にきてたけど」
彼女は冷めた声でいった。
やっぱりそれか――。
ある程度予想ができていた僕は「おれのじゃねえべ?」と惚けていった。しかし彼女はそれを見抜いているかのように僕を一瞥すると、何もいわずに目を逸らした。
僕は心の中で舌打ちした。実は組み合わせが決まったときから密かに危惧していた。
綾南高校野球部のマネージャー・澤井杏子。応援に来ていたのだとしたら彼女以外に思いつかない。
彼女の学校も今日が初戦。市営藤沢球場の第二試合……つまり僕らの次の試合で、いまごろ試合がはじまっているハズだった。
「まあでもさ、やっぱおれとは関係ねーと思うよ?」
試合にも出てないし――。
僕は自嘲気味に笑った。
「そう? 杉浦が出てきたとき、最前列まで移動してたけど」
「たまたまなんじゃね……」
僕が苦しい言い訳を口にした瞬間、麻衣子が足を止めた。
「思い当たるフシはないの?」
彼女の澄んだ瞳に見据えられたとき、僕は心の中であっさりと白旗を上げた。
どう考えてもいい逃れはできそうに――
「いっとくけど綾南の娘のことじゃないからね」
「え゛」
彼女の口から出てきた想定外の台詞に、僕の頭は真っ白になった。
しかし一瞬の間を置くと、今度は安堵と疑問が入り乱れて混乱した。
麻衣子がいっているのは杏子のことではなかった。しかし麻衣子が杏子のことを知っている……おそらく坂杉のヤロウあたりから漏れたのだろうが。それはともかく僕には杏子以外に心当たりがない。
「本当にわかんねーや」
彼女じゃないんだとしたら本当に見当がつかない。
「ホントにぃ?」
麻衣子は疑いのまなざしでもう一度僕の顔を覗き込んできた。
僕は背筋を強ばらせたままカクカクと頷いた。我ながら不自然な動きでイヤになるが。
「ふ~ん」
彼女はまったく信用していないかのような目を向けてきたが、ひとしきり僕の顔を見回すと何ごともなかったかのように駅の方向へと歩き出した。
僕はほっと胸をなでおろした。しかし同時に腑に落ちない気持ちにもなっていた。
考えてみれば僕らは付き合っているわけではない。まあいろいろあって一緒にいる機会は多いけど、付き合ってるっていうのとはちょっと違っている。だから本来なら僕が誰と会おうと文句を言われる筋合いなんてまったくない、ハズなんだが……。
彼女の後姿を追いながら、僕は何度も何度も首を傾げた。
鵠沼海岸駅をでた電車が片瀬江ノ島駅に到着した。
小田急の「片瀬江ノ島駅」を降りた僕らは、江ノ電の「江ノ島」駅へと向かった。
並んで歩く僕らは相変わらず言葉は交わしていない。
しかし麻衣子の表情からは先程までの「トゲトゲしさ」が消えて「いつもの彼女」に戻っているような気がした。
僕は少しだけほっとしていた。ほっとしたら急に空腹であることに気付いた。
「ハラへったな……」
僕は麻衣子の横顔を窺った。
「なんか食ってかない?」
しかし彼女は無反応だった。
何も聞こえていないかのような態度だったが、当然そんなはずはない。
「メシ、食ってくべーよ」
僕はもう一度いった。
すると彼女は僕の方に目を向け、「まだ四時だよ?」と呆れたようにいった。
「でも、ハラ減っちまったんだもん」
僕は右手で腹をおさえた。
麻衣子は少しのあいだ視線を漂わせたが、やがて僕と目を合わせるとにっこり微笑んだ。
「じゃ、ドコに連れてってくれるの?」
「カレー屋」
僕も目一杯にっこりと微笑み返した。
しかし麻衣子のリアクションは僕の期待したものとは程遠かった。
「え。何……だめ?」
「だめなわけじゃないけど……」
麻衣子はそういって微かな抵抗をみせたが、僕はカレーの素晴らしさをアツく語って彼女を説き伏せた。
そしてやってきたカレー屋。
七里ヶ浜駅にほど近いこの店は、普段は順番待ちの客で混雑しているが、今日はまだ時間が早いせいか待たされることもなく席へと通された。
海を見渡せるテラス席に向かい合って座ると、程なく派手な格好をした店員がやってきた。
僕はビーフカレーとバナナフリーズ、麻衣子はシーフードとアイスミルクティ……といういつもと同じメニューをオーダーすると、店員がオーダーを確認するあいだ、僕は海の方へと目を向けていた。ただ焦点の合わない視線を遙か遠くに伸ばしていた。
それにしても暑いな――。
おしぼりに手を伸ばすと額の汗を拭った。
考えてみればいまは真夏だ。夕方だとはいえ、座っているだけで汗ばんでくるこんな時期に「わざわざテラス席を選ぶ」なんてモノ好き以外のナニモノでもない。現にテラス席には僕らの他に誰もいないし。
「なあ。席、替えてもらうべか?」
室内の空いた席を親指でさした。
しかし彼女は訝しげな視線を僕にぶつけてきた。
「冷房、嫌いなんじゃないの?」
「まあ、そうなんだけど」
僕は小さな声で呟くと、再び海の方へ視線を伸ばした。
彼女のいうとおり、いままでの僕は「できるだけ冷房に当たらない生活」をしてきた。中学生のときの野球のコーチが「カラダを冷やす」という理由で冷房を毛嫌いしていたから、なんとなくそういう生活を強いられてきた。
だけどいまとなっては冷房を避ける理由はなくなった。暑さを我慢する必要なんて、もうドコにも見当たらない。
「ま……もう終わった、てことさ」
僕は彼女の方を振り向き微笑した。
しかしそこに麻衣子の姿はなかった。彼女はすでに席を立ち、冷房の利いた店内へと移動していた。
「――杉浦って本当にココ、好きだよね?」
麻衣子はいった。半分呆れたような声だったが、僕は何もいわずに曖昧に頷いた。
ココのカレー屋は、僕がこっちにきたばかりの頃に従姉に連れてきてもらった店だった。確かにココのカレーは僕好みの味だったが、正直にいえばファミレス以外にはココしか知らないというだけのハナシだった。
それにしても……。あの頃の自分を思い出し、僕はそっと口元を弛めた。
二年前の夏、僕は東京の高校を辞めてこっちに転校してきた。そしてまもなく麻衣子たちと知り合った。
あのころの僕は苛立っていた。穏やかないまの僕からは想像できないくらいに――。
僕は窓の外に視線を伸ばした。
海ではサーファーたちが今日も波間を漂っていた。見飽きるほど繰り返し目にしてきた光景だ。
「……夏だなあ」
「ん? なにかいった?」
麻衣子が耳を寄せてきた。
僕は少しのけぞると彼女と視線を合わせずに微笑した。
「いや、もう夏だな、と」
「ああ――」彼女は合点したように頷いた。「でも杉浦の夏は終わったじゃない、ついさっき」
遠慮なくそういった麻衣子の顔には悪戯っぽい笑みが広がっていた。
彼女のいうとおり「僕の夏」は二時間くらい前に終わった。
ずっと目標にしてきた「最後の夏」は何の見せ場もないまま既に幕を下ろしていた。
「明日からはヒマになっちゃったね」
麻衣子の顔には相変わらず笑みが浮かんでいる。
ヒマになる……。僕はその言葉の意味をかみしめた。
神奈川県大会の初戦。長い長い夏はココから始まるはずだった。そしてそのために余計な予定を入れないようにしてきた。つまり……僕の夏のスケジュールはまったく白紙状態ということで、気の遠くなるような「長い夏休み」が間もなくはじまってしまう、というワケだ。
「明日、何か用事あるの?」
不意に麻衣子が呟いた。
僕は何もいわずに彼女の顔を見返した。
意味ありげな笑みを浮かべる麻衣子の表情は、まるで「僕に用事なんてあるわけがない」とでもいうような余裕の表情に見えた。
「明日か……」
僕はわざとらしく考え込むフリをした。
確かに僕のスケジュール表にはナニも書かれていなかったが、それもなんだか癪なので……あ。そういえば――。
「明日は用事があるんだ」
僕はいった。
麻衣子は大げさなくらいに目を丸くしたが……そんなに驚かれる理由がわからない。
それはともかく、僕にはやらなきゃいけないことがあった。「夏」が終わった後、ひとつだけ仕事が残っていた。
「実家に行かないといけないんだ」
一応終わったからさ――。
夏が終わったら実家に挨拶に行くということはずいぶん前から決めていた。
特に深い意味はなかったが、こっちに来てから疎遠になってしまった両親に対する「ひとつのけじめ」みたいなものだった。
ただ予定していたよりもずいぶん早い時期になってしまったから格好がつかない気分ではあったのだけど。
会計を終えて店を出ると、国道を行くクルマにはヘッドライトが灯りはじめていた。
延々と続く車列は、遠く葉山の方まで断続的に続いているみたいだった。
「歩いて帰んべ」
僕はそういうと、彼女を促し国道沿いの歩道を歩きはじめた。
彼女の家までは一つ先の「稲村ケ崎」駅からの方が近い。しかしココから歩いても二〇分くらいでたどり着く距離だった。
海沿いの国道を彼女のスピードに合わせて歩く。
陽が落ちたとはいっても気温はまだまだ高い。しかし海から吹く心地いい風のおかげで暑さはそれほど感じない。
ただ、延々と続く渋滞と排気音……コレにはときどき閉口させられる。そしてその渋滞しているクルマの中にいる親切な人たち。
麻衣子は何度かその「親切な人たち」に呼び止められていたが、そのたびに「送っていく」という彼らの誘いを「丁重」かつ「冷淡」に断った。
彼らの目には「僕」という存在がいったいどういうモノに映っていたのか……機会があれば是非尋ねてみたい気分だった。
ファーストキッチンの前で国道とわかれ、江ノ電の踏切を渡る。
左手にある県立高校ではまだ野球部が練習をしていた。
笑い声と威勢のいいかけ声が響くグラウンドと、泥だらけになりながらベースランニングをする選手たち――。
昨日までの自分たちを見ているようで、気が付くと僕は目を背けていた。
住宅街へと続く坂道を上りきり、交番の前までくるとようやく国道の喧騒から解放されたような気分になった。
振り返ると眼下には真暗な海が広がっていた。そしてそれを縁取るように国道にはヘッドライトとテールランプが並んでいる。
「なあ。今度の月曜ってなんか予定あんの?」
僕は何の前触れもなしにいった。
麻衣子は足を止めた。唐突な僕の言葉に訝しげな視線を向けてきた。
「つき合って欲しいところがあるんだけど」
構わずそう続けると、彼女の顔に浮かんだ警戒の色はより濃くなった。
「……どこに行くの?」
麻衣子は探るような声でいった。
僕は遠くに視線を伸ばし「都内」とだけ短く答えた。
「トナイ?」
彼女は怪訝そうな顔でそういったが、僕は何もいわずに小さく頷いた。
やがて稲村ガ崎にたどり着いた。
長い下り坂を進んだ先の二つ目の角。そこで麻衣子は歩みを止めた。
ココを曲がれば彼女の家はすぐそこだった。
「――月曜日は家で待ってればいいの?」
彼女はいった。
僕は頷くと、稲村ヶ崎駅から電車で行くつもりだと伝えた。
そしていつもそうしているように、RZを彼女の家の庭先に停めさせてもらいたいと告げた。
「それはいいけど……いったん家には帰るの?」
「帰るよ。着替えなきゃいけねえし」
僕は即答した。
「じゃあ、六会まで迎えに来てよ」
彼女はそういうと僕の方に向き直った。「一度家に帰るならついででしょ?」
確かに彼女のいうとおりだった。
六会駅は麻衣子の学校から最寄りの駅だった。そして僕が住む「大庭」からも距離的にはそう遠くない。
「そうだな。じゃ、駅まで迎えに行くよ」
彼女を見下ろしそう告げると、彼女はにっこりと微笑み、頷いた。
「じゃ。つうわけでまた電話するよ」
「うん。じゃあ電話待ってる」
バイバイ――。
麻衣子は胸の前で小さく手を振ると家に向かって歩き出した。
僕はいつものように彼女の姿が見えなくなるまでその後ろ姿を見送る。
不意に家の前で彼女が振り向いた。
「ドコに行くのか知らないけど、いかがわしいトコロには連れて行くなよ!」
麻衣子はそういって舌を出すと、僕の視界からいなくなった。
……家の前でそういう冗談はヤメてくんねえかな。
そんな僕の願いは宵闇と蝉の鳴き声にかき消されてしまった。