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第三章 【001】 プラチナチケット

転校から1年――。

短い夏が終わり、先輩たちが引退。そして新チームがスタートした。


「……ハァ……ハァ……いつまで……ハァ……走んのよ、オレら……」

「シラネ……つうかよ……ゼィ……ゼィ……ゼィ……話かけんなよ……ゼィ……疲れんべ?」

 誰に言うでもなく呟いた僕の言葉に、死にそうな声でそう応えたのは坂杉だった。

 だけど別にお前に話しかけたワケでは決してない。



 茅ヶ崎湘洋高校野球部は、夏休み恒例・三泊四日の合宿に入っていた。

 合宿三日目の今日、僕らは炎天下のグラウンドをランニングしている。もう何周しているんだか覚えていないが……ただこの練習が非近代的な練習だというのはよく判る。

 しかも昨夜、OBが襲撃してきて明け方まで居座った。だからほとんどの奴らが寝不足の状態。

 ココで誰かが倒れたりすりゃあ、納村も慌てて『この馬鹿げた練習』を終わりにしてくれるんだろうけど……そういえばグラウンドに顧問あいつらの姿はない。まあいつものコトではあったが。


 先輩たちが引退してから半月が経ち、坂杉主将の下、新チームがスタートしていた。

 僕はてっきり「酒井が主将になる」もんだと疑っていなかった。実際、酒井を推す声も多くあった。しかし酒井本人が頑なに拒否した。

 酒井にそのことを尋ねると「選手宣誓とか当たっちまったら嫌じゃん」と顔を強ばらせた……そんな理由かよ。

 そこで自ら志願した坂杉が主将に収まったというワケだ。


 そして、おそらく来週あたりには秋季大会に向けてのメンバーが発表される。

 しかし、いまだに僕のポジションはコレと言って決まってはいない。

 ノックバットを手にする機会は減ったが、外野手をやったり、ブルペンキャッチャーをやったり、一年生マネージャーにスコアブックの書き方を教えたり、と相変わらず納村の気分によって「その日の役割」がコロコロと変わる……そろそろ我慢も限界に近い。



――お~い。スギウラァ。

 誰かが僕を呼んでいる。

 僕は顔を上げ、声のする方に視線を伸ばした。


 声の主は部長の武田だった。

 武田は大きなジェスチャーで手招きしている……なんだかちょっとエラそうだ。


「まったくよぉ……ハァ……練習の……ハァ……ハァ……ジャマ、すんなよな……」

 僕は心にもない台詞を呟くと、笑いを堪えてランニングの列を離れた。

 坂杉たちの視線で後頭部が焼けそうに熱かったが、僕はランニングから解放された喜びで飛び上がりたい気分だった。


「……何スか?」

 息を切らしている僕の言葉も気に留めず、武田は「ついてこい」とひと言呟くと、スタスタと歩き出した。

 武田は汗一つ掻いてない……。

 涼しい部屋で冷たいモンでも飲んでたんじゃないかと思うと、微かな殺意が脳裏を巡る……まあ、ランニングから解放してくれたから今日はトクベツに赦すが。


「ドコ行くんスか?」

 前を歩く武田は何も応えなかったが、途中で気付いた。おそらく職員室向かっているのだろうと――

 図星だった。 

 彼に続いてアシを踏み入れた職員室。そこには納村が待っていた。

 イヤな予感が背中を走り抜け、僕は心の中で身構えた。〈今日はいったい何をさせるつもりなんだ……〉

 そんな僕の心中を知ってか知らずか、納村はコチラを一瞥すると、デスクの上にあった封筒の中から薄緑色の小さな紙を取りだし、僕に向かって突き出した。

 何かのカード……診察券のようにも見える。


「――部員証だ。さっき届いた」

 納村が呟いた。

 僕はソレを受け取り、視線を落とした。

 神奈川県高等学校野球連盟と印刷されているが、シンプルで安っぽいただの厚紙……洋光台のスポーツ屋の会員カードの方が光沢があってよっぽど見栄えがする。

 だけど僕にとっては何よりも欲しかった一枚だったことに間違いはなかった。

 何かを言おうとしたのだが、咄嗟のことで上手く言葉が出てこない――。

「――よく我慢したな。」

 納村の声に視線を上げた。


 微かに口許を緩めた納村が、僕に向かって右手を差しだしてきた。 

 初めて見る納村の笑顔……コレを笑顔と言っていいのか微妙な気もしたが、僕はその気持ちに応えるように右手を合わせた。


「取りあえず、これで正式に野球部員、てことだ」

 武田が僕の肩に手を乗せた。


「――へへへ……ははは」

 僕は笑った。

 納村と武田はそんな僕を不思議そうに見ていた。

 僕としても何で笑ってるのか自分でもよく判らず、俯いてアタマを掻いた。

 嬉しいっていうのとは多分ちょっと違う。

 ただ、ようやくスタートラインに立てたような気がした。

 やっと僕にとっての高校野球が始まるような気がして、少しだけ涙腺が弛む気配を感じていた。




 

 一週間後、秋季大会のメンバーが発表になった。

 ミーティングの席で納村が名前とポジションを読み上げ、一番から順番に背番号が配られていく。

 エースナンバーは酒井に渡った。まあ、来年の夏には僕のものになるんだけどね……。


 その後も続々とメンバーが発表されていく。

 だが僕の名前が呼ばれることのないまま二桁に突入した。

 妙な脱力感に包まれ始めたころになって、ようやく僕の名前が呼ばれた。しかし――

「――17番・一塁手。――」

 言うまでもないが、練習でも一度も守ったことがない……つうか絶対にナメてるだろ、一塁手ってポジションを。

 





***



 そして来春のセンバツ大会を目指す戦いが間近に迫っていた。


 秋季大会の湘南地区予選、僕らは三チームのブロックに入っていた。

 三校の総当たりで二試合、一位の学校のみが県大会に進出できるのだが……なんだかみんな元気がない。いったいどうしたんだ?

「だってよぉ……湘南学館藤沢と同じ組だぞ?」

 僕が口にした疑問に応えてくれたのは俊夫だった。


 湘南学館藤沢は、甲子園出場こそないものの毎年県大会の上位に進出する強豪らしい。しかも湘南地区では無類の強さを誇り、更に今年は左右の好投手がいるとかいないとか……まあ、県大会を目指す僕らにとっては、絶望的とも言えるブロックってコトなんだそうだ。


「取りあえず……初戦の大船西。ここは落とさねえようにしねえとな」

 坂杉は自分に言いきかせるようにそう頷いていたが、最後まで『湘南学館藤沢』については一切触れなかった。


〈……やる前から随分と弱気だな、ウチのレギュラーどもは〉

 複雑な思いを抱えながらも、僕の実戦デビューは確実に近付いていた。





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