【015】 Even-count
「でも……結果としてそうなっただけじゃないの?」
「いや、そうじゃないス。その前のプレー、あれで流れが変わっちゃったんスよ」
僕はそう言って水の入ったグラスに手を伸ばした。
週末の練習試合の帰り、僕と高橋先輩は麻衣子のバイト先のファミレスに来ていた。
「向こうのバッテリーは完全に三塁ランナーに気が行ってましたからね。一塁ランナーなんか、まったく見てなかったスよ」
試合のたびに高橋先輩は僕に感想を求める。そして時々、激論を交わす。
最初の頃は、適当にもっともらしいことを言ってれば勝手に納得してくれてたのだが、最近はそうもいかなくなってきた。
より高度な、より戦術的な意見を僕に求めるようになった。
「でもさ、一塁ランナーは木島よ? ムリよ、絶対に走れないわ」
彼女は鼻で笑った。
木島っていう先輩はとても足の遅い人だ。このチームにおいては異常に高い出塁率を誇っているが……しつこいようだが本当に鈍足だ。
「誰も走れとは言ってないスよ。ただ……もうちょっとピッチャーにプレッシャーをかける方法はあったんじゃないか、と」
「いや、でもね? アノ場面では――」彼女は食い下がってきた。
彼女は意見を求めておきながら、何かと僕に反論する。
だが僕はこのやりとりが嫌いではなかった。むしろ楽しい。
野球に関してはどう考えても僕の方に分がある。彼女もそれは判っているようで、話にいつものヨユウが見られない。スグにムキになるのだ。
あるとき僕は見つけた。彼女がムキになって喋るときには鼻のあたまに小さな皺が入るということを。
以来、その皺を見るたびに思わず笑みがこぼれてしまう。すると自論を否定されたと勘違いした彼女は更にムキになって――。
彼女は可愛いひとだった。
これだけ一緒にいると、吉田じゃないけど勘違いしてしまいそうになるくらいに。
だけど彼女にはそれを許さないような雰囲気があった。
彼女が時折みせる凛とした佇まいには、僕のそんな気持ちが入り込む隙間なんてまるでないように思えた。そしてもう一つ――。
「――お待たせです……」
「あ、終わった?」
高橋先輩の後輩、佐藤麻衣子の存在……。
麻衣子が合流すると僕らの野球論議は終了する。野球に興味がない彼女に高橋先輩は気を遣っているのだろう。
いままでも練習試合の帰りに合流することのあった彼女だったが、その頻度はだんだん高くなっている。最近は週に一度は顔を合わせているような気がする。
まあ害はないのだが……いまの僕にとっては少しだけ邪魔な存在だと言えるのかもしれない。
「――ねえ。聞いてる?」
麻衣子が僕の顔の前で手を振った。
「え……なんスか?」
「ほら聞いてない。いっつもこんなカンジですよね、スギウラって」
なんだか判らないが、麻衣子は呆れたように高橋先輩に同意を求めた。
麻衣子はよく話しかけてくるようになった。
最初に会ったときに感じた大人しさというか、もの憂げな雰囲気は今となってはまったく見られない。
よくいえばうち解けたカンジだし、悪く言えば馴れ馴れしい……。
僕としては彼女に対して悪い印象はまったくと言っていいほど持っていなかったが、その微妙な距離感に少しだけ戸惑いを覚えていた。
***
放課後、終業のチャイムが鳴り響く頃には、僕は校門を走り抜けてコンビニの駐車場にたどり着いていた。
今日はツキイチの病院に行く日だった。
僕はRZに跨り、フルフェイスを被るとシールドを少し上げ、空を見上げた。
空は明るいが曇っている。
梅雨特有のはっきりとしない天気。まあ雨が降ってないだけマシな方だろう。
六月も半ばになり、夏の神奈川県大会の組み合わせが一昨日決まった。
主将の石黒先輩が引き当てたのは当たりのブロックだった。コレと言った強豪校の見当たらない『奇跡の山』だった。
五回戦くらいは行けんべ――。
石黒先輩はトーナメント表を見ながら呟いた。
実際にはそんな簡単なもんじゃないと思うが、チームにとって明確な目標がこれで定まった。
横浜方面に向かう国道一号線は空いていた。
藤沢バイパスの直線を軽快に走り抜け、戸塚警察署の前まで一度も信号につかまらなかった。
狩場のあたりで少しだけクルマが列を作っていたもののほとんどはガラガラで、第一京浜を通って病院に着いたのは予定していたより二〇分も早い時間だった。
「――まあ、いいだろう」
僕は医師の思いがけない台詞に一瞬言葉を失った。「ただし、ウォーミングアップとクールダウンは時間をかけてじゅうぶんに行うこと、いいね?」
投球解禁――。
その瞬間は肩を痛めたあの日と同じようにあっけなく訪れた。
しかし不思議なくらいに心は静かだった。高揚する自分と、それを冷静に見つめるもう一人の醒めた自分がいる。
投球を禁止されてからの約二年間で僕は多くのモノを失った。
目標を失ったことも大きかったと言えば大きかったが、それは自分なりに自己解決できるモノだった。
僕にとって一番つらかったのは、多くの人たちが僕から離れていったってこと。投げることができなくなった僕には興味がないとばかりに、まるで潮が引くようにみんなが離れていってしまった。
見事に誰もいなくなってしまってさびしく嗤った日のことを僕はまだ忘れられないでいた。
「――だが通院は続けること。次回の検査で問題がないようだったら、段階的に――」
医師は喋り続けていた。
だけど彼の話のほとんどが僕の耳には入っていない。
自分に期待する気持ちとそれに歯止めをかけるようなもう一つの気持ち。
投球の解禁を『本当の意味』で実感できるのはまだまだ先になりそうだった。
***
そして神奈川県大会が開幕した。
大会三日目に登場したウチの学校は一回戦をコールドで勝利し、四年連続の初戦突破を果たした。