【014】 Graffiti
久しぶりに足を運んだ部室。
放課後、一番乗りして部室のドアを開くと、汗と埃と交じった匂いが練習に復帰する僕を迎えてくれた。
そして部室に入るとまず目に飛び込んでくるのは壁の落書き。
三方の壁に隙間なく書き遺された『歴代のセンパイ方の心の叫び?』の中に、いつも目を惹く太い字で書かれた一文があった。入部当初の頃の僕はそれを見る度に何故だかムカついていたのだが――。
「お。久しぶりじゃねえかよ!」
振り返ると俊夫が立っていた。
「ったく、サボりまくりやがって。心配してたんだぞ、コノヤロウ」
彼はガッチリと肩を組んでくると、その腕にチカラを込めてきた。
コイツとは二年になって違うクラスになった。
僕が練習を休むようになってから、休み時間のたびに僕のクラスに来てたみたいだったが、全然顔を合わす機会はなかった。確かに心配してくれてたのは本当らしい。
「まあ……イロイロあってよ」
僕は彼の腕から逃れてそう言った。
俊夫は嬉しそうに笑っていた。何がウレシイのか全然わからんけど。
取りあえず、僕は今日から練習に復帰した。マジメに練習に取り組むことにした。
彼女の言葉が全てだったわけではないが、きっかけの一つになったのは間違いなかった。
***
四月になって、茅ヶ崎湘洋高校野球部にも新入部員が入ってきた。
二十六名だった部員は、彼らの加入で四十五名にまで膨れあがっていた。今年は硬式の経験者が五人もいるらしい。
そして……後輩ができたことで、ついに僕も球拾いから解放された。
だがポジションが与えられたワケじゃない。
練習では、異常に守備範囲の狭い外野手たちを相手にノックバットを振りまわし、試合のときには相変わらずスコアブックを手放さない。
まあ、マネージャーの助手からいっぱしのマネージャーに繰り上がったってとこなんだろうが、当然ながら僕はいまの自分の状況に納得がいってない。
なのにこのあいだ、僕に対して「マネージャーさん」と呼びかけてきた無礼な新入部員がいた。
僕は愛情を持ってそいつに蹴りを入れた。言ってみれば『暴力的制裁』ってヤツだ。
そのころから通常の練習が終わったあと、僕と酒井そして俊夫の三人は居残りの練習をやるようになっていた。
暗くなってからの練習だからできることは限られているが、ネットに向かってのティー打撃みたいなものはできる。
なにしろ三人ともイヤイヤ参加しているワケじゃない。僕としても昔を思い出すような楽しい時間でもある。
「杉浦スイングが速えーよな、マジで」
酒井が感心したように溜息を吐いた。
「べつに……そうでもねえだろ?」
当然だと思ったが一応、謙遜してみた。
「明桜でどんな練習してたんだよ。今度教えろよな?」
酒井は言った。
「まあ、そのうち、な」
僕は話を切るように短く答えた。
居残り練習が終わって部室に戻ると、一年生が五人、ボール磨きをしていた。
そのうちの一人、吉田という男は酒井の中学の後輩でもあり、同じ硬式のクラブチーム出身だった。一応、酒井を慕ってココに来たらしい。
野球は上手くないが、口はよく動く。まあ典型的なお調子者ってカンジだ。
「吉田あ。なんか飲むモン、買ってこいよ」
酒井が吉田に向かって千円札を突き出していった。
「おお~。オゴリか?」僕は言った
「さすがだな。ご馳走になります!」俊夫が僕に続いた。
俊夫に煽られた一年生も立ち上がってクチグチに酒井を賛辞する言葉を並べた。コイツらも相当調子がいい奴らだ。
おだてられた酒井は、鼻の穴を広げたまま満足げに頷いた。
「じゃ、取りあえずペットボトルでよ……あ、紙コップ、忘れんなよ」
吉田が戻っていた頃には、ボール磨きも終了していた。
「じゃ、取りあえず、乾杯!」
「乾杯!」
なにが乾杯なのかは知らんが、男八人でくだらない話をし続けた。
そのなかでも盛り上がるのは女の話。
どこどこのクラスの誰が可愛いとか、中学のときの同級生でこんな女がいた、とか。
話をしていくウチに判ったのは、この八人の中で彼女がいるのは一年の柴田ってヤツだけ。
酒井も俊夫もいないらしい……僕も他人のことは言えないが。
「でも――」
不意に吉田が呟いた。「マネージャーの高橋先輩って、凄くきれいなひとッスよね……」
僕らは無言のまま顔を見合わせた。そしてそれぞれが曖昧な笑みを浮かべた。
新入部員のコイツらはまだ判ってないようだ、高橋先輩という方がウチの部において『アンタッチャブルな存在である』ということを――。
「杉浦先輩と付き合ってるんですか?」
場が水を打ったように静かになった。
余計なことを口走った無邪気な吉田は、なんだかわからないといった顔で不安げに僕らの表情を窺っている。
「そんなことあるわけねえべよ」
酒井が呟いた。
笑いを堪えているようにしか見えない。「まあ、ないな」俊夫からも失笑が漏れだしてきた。
僕も彼らに合わせるように苦笑いを浮かべた。
確かに僕と彼女は一緒にいることが多いから、吉田が勘違いをしたとしても致し方ない。
しかしそれはとてもデリケートな話題でもあった。
まあそれは僕にしか判らない特別な事情ではあったのだが。
***
次の日、昼休みに部室を訪れた。
体育の授業で履くアップシューズを取りに来ただけだったのだが、不意に落書きが目にとまった。
僕は壁の前に立ち、落書きを眺めていた。
毎日のように目にしてはいたが、こんなにじっくりと見たことは多分ない。
――甲子園に行こうぜぃ!!
僕にとって目障りだった一文。ゴマカシを含んだような軽い雰囲気が入部当時の僕を酷く苛立たせた。
だけど……最近なんとなく赦せるようになってきた。
いつの時代の先輩が遺したモノかは知らない。それを書いた先輩の目にそのとき何が映っていたのか、もちろん僕には知る由もない。
ただ、いまの僕と同じように「夢を夢としてしか語れない」虚しさを感じてたんじゃないかな……と思ったりもする。
「――何みてるの?」
振り返ると、そこにいたのは高橋先輩だった。
開けっ放しだった部室のドアに凭れるようにしていた彼女は、小さく微笑むとゆっくりと近付いてきた。
やがて僕の視線の先にあったものに気が付いた。
「ああ、これ?」
彼女は壁に近づき、手を伸ばした。
「これ……このあいだ話したエースだった人が書いたのよ」
そう言って文字をなぞった。
「本人は本気だったみたいで、絶対に連れて行ってやるなんていってたんだけどね……」
彼女は少し戯けた声でそう言った。
その刹那、僕は彼女から目を逸らした。
このあいだの話から何となく気が付いてはいた。彼女がそのエースだった先輩と親しい関係だってことに。
「……やっぱ、先輩も行きたいんスか?」
僕は訊ねた。
「え?」
「甲子園、ス」
「ああ……。さあ、どうなのかな……」
彼女は曖昧に首を傾げて笑ったきり、何も答えを返してくれなかった。
僕の質問は軽くかわされてしまったみたいだったが、同時にほっとしている自分がいた。
もし彼女が本気でそれを望み、そしてソレを口にしたとしたら……いったい僕にできることってなんなんだろ?
僕は隣に佇む高橋先輩の様子を盗み見た。
壁を見つめ、どこか懐かしそうに微笑む彼女――
僕はかつてのエースだったという見知らぬ先輩に対して、嫉妬に似た対抗心が湧きあがるのを強く意識していた。