【013】 Something which moves me.
朝六時。
目覚まし時計が耳障りな電子音をまき散らし始める。
僕はベッドから体を起こすと、目覚ましを止め、少しだけ開けた窓から外の様子を窺い見た。
まだ薄暗い外の景色。隙間から吹き込む空気は刺すように冷たく、起き抜けの目に凍みる。
僕は起きあがって大きくノビをすると、クローゼットからジャージと汗だしを引っ張り出して着替え、静かに階段を駆け下りた。
僕がマネージャーの助手に任命されてから半年が過ぎていた。
だからといって、僕の置かれた状況に変化はない。
練習では相変わらず球拾いが中心だし、フリーバッティングの順番は回ってこない。
不足気味な練習を補う意味でも、この早朝自主トレは欠かせない。とはいっても一人でできることといえば走るコトぐらいしかなかったのだが。
ストレッチで十分にカラダを解すと、ゆっくりと歩き、やがて走り始めた。
なだらかな丘陵地帯に広がる新興住宅地。適度な起伏に富んだこのコースは、自主トレを始めた当初の僕にはとてもキツく、何度も気持ちが折れそうになった。
それでも続けてきたのは幸子のお陰かもしれない。
「――どうせ長続きしないわ」
彼女が何気なく言ったその一言が僕を走らせ続けているといっても過言ではなかった。
以前ほどキツさを感じなくなったいまでは、走らないときの方が落ち着かない。完全に日課になってしまっていた。
ジャスコの前の信号を曲がり、坂道を一気にくだる。「船地蔵」の信号を左に曲がり、しばらく進んだ先をナナメ右へ。
天神町の住宅街のなかにある公園――ここが折り返し地点。往復でだいたい八キロ。通学前に走る距離としてはギリギリのラインだ。
この先を抜ければ六会の駅がある。
そしてその近くには麻衣子の通う学校があったはずだが、そこまで走ることはほとんどない。そこまで行ってたら毎朝遅刻してしまう。
もともと長距離を走るのは苦手だった僕だが、最近はようやくこの距離にも慣れてきた。
青い背表紙のノート。
中学時代のコーチが遺してくれた僕専用の練習メニューには、僕が高校の三年間で取り組むべき練習内容がこと細かく記載されていた。ちょっとサボってた期間があったけど、ココに来てようやく追いついたみたいだ。
途中、左手に嵌めた時計に目をやった。
いつもより遅い。今日は寒かったからストレッチに時間を掛けすぎた。
朝練に出るなら、そろそろ折り返さなければいけない時間だが――。
僕は一瞬アシを緩めたが、思い直してそのまま走り続けた。朝練に出ることより自主トレを優先させることにした。
茅ヶ崎湘洋野球部では、体力づくりに明け暮れた冬が終わり、ボールを使う練習が始まっていた。
今では僕も肩の痛みに悩まされることはすっかりなくなっている。
尤も本気で投げることはないから当然といえば当然だ。寧ろあの痛みが再発することに対する怖さがいつも頭の隅にあることの方が問題だった。
***
三月に入ったある日、僕は高橋先輩に連れられて学校近くのファミレスに来ていた。
彼女は席に着くなり「ホットコーヒーを二つ」と、僕に確認をすることなくオーダーしたが、それ以降はひと言も発していない。
時折窓の外に視線を送ったりしていたが、僕の方を見ることもなくただ沈黙を押し通している。
その理由は僕にもだいたい判っていた。
まもなく店員がやってきた。
テーブルにコーヒーのカップが二つ並べられる様子を眺めていた。視界に入った高橋先輩は相変わらず窓の外に目を向けたまま……なんの感情も窺えない。
やがて店員が立ち去ると、それを待っていたかのように彼女が口を開いた。
「最近どうしたの?」
「……ナニが、スか?」
僕は惚けた。
「練習――。あんまり来てないじゃない」
彼女は背筋を伸ばし、テーブルの上で軽く腕を組むと真っ直ぐに僕を見据えた。
最近は確かに練習を休みがちだった。週の半分も出ていないかもしれない。
「なにかあった?」
「はあ……体調がよくなかったので……」
大嘘だ。そんなことが理由じゃない。
「もしかして……また、肩?」
彼女は深刻そうな顔で言った。
「いえ……肩は平気ですけど……」
僕は目を逸らして言った。自分でも情けなくなるくらい小さな声だった。
練習に足が向かなくなった理由。
僕の中ではハッキリとしていたが、その気持ちをどう表したらいいのか僕には判らなかった。
週末には春季大会の地区予選が控えている。
春季大会の登録メンバーは二五名。
ウチの部員は二六名。と言うことは外れるのは一人だけ……必然的に僕しかいない。
始めから判っていたことだし、アタマでは理解しているのだけど……現実を受け容れるのはなかなか難しい。
チカラが劣っているワケじゃない。投手としてはともかく野手として出ることに問題があるとは思えない。だけどルールという見えない縛りの前に、僕の存在自体が否定されているように思えた。
いまココにいる理由……それが僕には判らなくなっていた。
「なんで……オレを野球部に誘ったんですか?」
そう言いながらも的はずれな質問だと思った。
熱心に誘ってくれた彼女には感謝している。
だけど僕が選手として登録が可能となるのは早くとも七月。高橋先輩たちが引退したあとの話だ。
戦力にならない僕を熱心に誘ってくれたその理由。どうしてもそれがわからなかった。
彼女は僕を見つめ、少し首を傾げている。
「オレ、試合に出れないですよね? 先輩たちと一緒には」
言葉を継ぎ足すように僕が言うと、彼女は合点したように頷いた。
「そうね……たしかに今のチームにキミがいてくれたらって思うわよ。でも、ウチの学校もアタシたちの代で終わりってわけじゃないでしょ。その次もまたその次にも続いていくものだしね」
彼女はそう言ったきり黙り込んだ。
沈黙を嫌った僕は、気を紛らわすようにカップに手を伸ばし、コーヒーに口を付けた。
口の中に広がる強い酸味……思わず僕は顔を顰めた。僕がコーヒーを飲まない理由はこれ。酸っぱいのが苦手だった。
「……何年か前にウチがベスト8に入ったとき――」
高橋先輩が突然話し出した。
「すごく盛り上がっててね、創部当初から関わってきたOBの人たちなんかナミダを流して喜んでたわ。準々決勝で負けたんだけど、みんなが『よくやった』って」
彼女はナニかを思いだしたかのように笑みを浮かべた。
「でも当時のエースが言ってたの。“たった一回のベスト8で喜んでたらダメなんだ。ここで負けた俺たちの悔しさを誰かが継いでくれないと”ってね。当時は何を言ってるのか理解できなかったけど、いまならハッキリと理解できるわ。彼の言いたかったことが」
当時のエースの言葉……僕には理解できなくもない。負けて喜ぶことの方が僕には理解ができない。
「ところが……残念ながらウチには出てこないのよね、彼らの悔しさを継いでくれる存在が。ミンナ口を揃えて『昔は強かったなあ……以上。』ってカンジだし」
彼女は自嘲気味に笑った。
「だから……キミなら継いでくれるんじゃないかなって。先輩たちの悔しさ、そしてこのチームに遺したかった何かを」
彼女は僕の目を覗き込んできた。
「……そんないいモンじゃないスよ……オレ」
僕は目を逸らし、小さな声で言った。
「大丈夫よ」
彼女は首を小さく横に振ると、また笑みを浮かべた。「キミなら大丈夫。一緒に頑張ろう、ね?」
頑張ろう――。
無難で一番意味のない言葉だと僕は思っている。だけど……彼女に言われたとき、心が微かにざわつくのを意識した。
頑張りたい――。
なぜだかそう思った。そんなことを誰かの為に考えたのはいつ以来なんだろうと思った。
懐かしいような不思議な感覚に、僕は少し戸惑っていた。
***
そして春季大会の地区予選が開幕した。
四校の総当たりで開催された予選ブロックで、茅ヶ崎湘洋高校は三戦全敗を喫し、県大会出場を逃した。
予選ブロックで敗退したのは二年ぶりのことらしい。
僕はスコアブックを縁を強く握り、相変わらずなにもできない自分を腹立たしく思った。
そしてなによりも――
ぎゅっと唇を噛みしめた高橋先輩の横顔が目に焼き付いて離れなかった。