【010】 Ingratitude < Substitute
茅ヶ崎まで原チャリを取りに行って、家に戻ったのは午後八時を少し回ったところだった。
心配していた雨に降られることもなかったのは、日頃の行いがよかったからだろう……きっとそうに違いない。
「ただいま――――ん?」
靴を脱ぎ、顔を上げるとそこに幸子が立っていた。
「遅かったじゃない」
彼女は醒めた声で言った。
べつに遅くはねえだろと思ったが顔には出さず、小さな声で「ただいま」ともう一度言った。
僕は心の中で身構えていた。
彼女が玄関先で僕を迎えるときはあまりよくない知らせがあるとき――ココでの経験から既にそれを学んでいた。
「ゴハンは食べるの?」
幸子は呟いた。
「……当たり前じゃん」
メシを食わないワケがない。つうか本題はそんなことではないハズだ。
僕は彼女の顔を窺い見た。
「さっき、電話があったわよ」
やっぱりな。
「……誰から」
「佳子叔母さん」
なんだ……身構えて損した。
「……なんの用だって?」 どうせ小言だろ。まったくめんどくせえな。
「ミネギシさんて人に電話しなさい――、だって」
幸子の口から出てきたのは意外な名前だった。
峰岸さんというのは中学の頃のクラブチームの監督だ。
公私にわたって凄くお世話になった。高校の進学までのほとんどの手配をしてくれた、言うなれば恩師に当たる人だ。
おそらく僕が通院を再開したのがドコからか峰岸さんの耳に入って、実家に連絡をくれたのだろう。
前の学校を辞めてからも実家の方に電話をもらってたみたいだったが、僕からは一度も連絡を入れていなかった。
自分の不義理さに少しだけ自己嫌悪に陥りそうになる。
そう言えば……義理を欠いていると言えばもう一人いた。連絡しなきゃいけないヤツが。
「はあ……了解。電話しとくよ」
あまりにも素直にそう答えたせいか、幸子は驚いたように僕の顔を覗き込んできた。
***
翌日、高橋先輩に無事にユニホームをとってきたことを報告した。
彼女から返ってきた言葉はひとこと「よかったわね」。
あまりにも感動もナニもない答えに、僕は肩すかしを食らった気分だった。
本当は朝一番で報告をするべきだったのだが、大遅刻をしてしまった僕が学校に来たのはつい先程。きょう最初に彼女と会ったのは練習が始まる直前だった。
まあ、そんなことで怒ってるなんてことはないのだろうけど。
「あれ? お前、休みじゃなかったのか?」
部室にやってきた僕を俊夫が怪訝そうな顔で見上げた。
「色々あってよ。」
僕は遅刻の理由を簡潔にその一文にまとめた。彼はそれ以上の理由を追及してこなかった。
それが彼の良いところでもある。
茅ヶ崎湘洋高校のグラウンドはなかなか広かった。
ライトは九十メートルくらい。レフトは……おそらく一五〇メートルくらいかな?
しかし他の運動部と共用のため、フリーバッティングは週に三日しかできないらしい。しかも時間の制限付きで。
だから練習はノック中心ということなんだが……
グラウンドの状況は決して守備練習に適しているとは言えなかった。
まず固い。
そして細かい砂利が多い。
典型的な校庭そのものだった。僕の知る限りでは、最悪の部類に入るグラウンドだ。
練習はランニングに始まり、ストレッチ、キャッチボール、そしてトスバッティング。それからノックorフリーバッティング……と続いていく。
僕がコッチに来てから感じている『ゆったりとした時間の流れ』は、この練習でも言えることだった。
ひと言で表すのならスピード感に欠けている。メリハリがないとも言えるかもしれない。
しかし僕の気持ちとは裏腹に、僕自身も間違いなくココに馴染みつつあった。
日に日にココのいろに染まりゆく感覚……僕は漠然とした不安を覚えていた。
「それにしても、お前ってホントに野球がスキなんだな?」
俊夫はストレッチをしながら僕を見て鼻で笑った。
「あ? ナンでよ」
「だって授業も出ないで練習にだけ来るって……野球好き以外にあり得ねえべ?」
俊夫は得意げに自説を展開した。
たしかに野球が好きと言うことには異論はないが、その説では「授業が嫌いなのかもしれない」という可能性には言及されていない。
それに「授業に出ないで練習する」なんてことは、前の学校では当たり前だった。そういう意味でも彼の説は既に破綻をきたしていると言ってもいい――
「まあ、そんなことよりキャッチボールすんべよ」
俊夫は僕を急かした。
〈ん……スンベ……?〉
いつかどこかで聞いたことのある懐かしいフレーズ……。
「ん? どした?」
彼は左手に嵌めたグラブにボールを叩きつけながら、僕を振り返った。
「いや……そうだな、キャッチボール、すんべ」
僕は俊夫に向かってグラブを翳した。
***
「なあ。帰りにラーメン食いに行かねえ?」
試合前のランニング中に近づいてきた酒井が耳元でいった。
「雑誌に載ってた店がこの近くにあるんだよ」
機密情報を伝えるように小声で言った酒井に、僕は「必ず行く」と即答した。
週末恒例の練習試合。とはいっても僕にとっては初めての試合。
今日は対戦相手である横浜市内の県立高校まで来ていた。
例によって高橋先輩に連れてきてもらった僕は、ココがどこら辺なのかまったく見当がつかなかったが。
それにしても……ココの野球部はまったりとしている。
試合が始まる前から帰りのラーメンの相談をするなんて、いままでなら考えられないことだった。でも……そんなユルさが今の僕には少し居心地よく感じられた。
ココのエースは、僕と同じ一年生の酒井浩平。
一年生でレギュラーと呼べるのは酒井だけで、残りは全て二年生。夏の大会にベンチ入りしたのも一年生では彼一人だったという。
俊夫は退部するまでは三塁手だったという。
しかし今では『球拾い』が彼の役目……僕と一緒だ。
俊夫の話によれば、このチームで中学からの硬式経験者は一年生の酒井と俊夫だけ。
あとはほとんど中学校の軟式野球部出身。稀にまったくの初心者が含まれているという……僕は未経験者がいる野球部という現実に少しだけ驚いていた。
「おい! 鈴木、杉浦――」
試合前の練習中に名前を呼ばれた。
声の主は監督の納村。
ベンチに座ったまま僕らに向かって手招きをしている――
〈まさか……イキナリ投げろって言われてもムリだぞ?〉
いきなりの実戦デビューの予感に、緊張が背中を走り抜けた。
「―――プレイボール!!」
球審のコールともに、相手のエースが大きく振りかぶった。
初球は外角低めに僅かに外れて「ボール」。
〈ホント、この位置からだとコースがよく見えるよな〉
僕は一塁に目を向けた。
ベースの近くに立つ俊夫の表情は、どうみてもアクビを堪えているようにしかみえない。
〈ま、眠くもなるわな。こんな状況じゃ〉
試合前に納村に呼ばれた僕ら。彼は僕ら二人をこの試合の「審判」に指名した。
と言うわけで僕は二塁塁審、俊夫は一塁塁審としてこの試合に出場している。ながいこと野球をやっているが、審判をヤラされたのは初めての経験。
〈多分……この試合に僕が選手として出場することはないってことなんだろうな〉
何とも言いようのない疎外感を覚える。
「……早く終わんねえかな」
誰にも聞こえないように呟いた。
既に僕の興味は「試合後のラーメン」だけに絞られていた。
***
「さて、先輩たちは帰ったし――――。そろそろ行くべか」
酒井が呟いた。
もう二年生の姿はない。ココに残っているのは一年生だけだった。
「一応、今日はお前らの歓迎会っつうことでよ」
坂杉はそう言って僕と俊夫の肩を叩いた。
周りの奴らを見渡すと、みんな優しい目をしている――
〈なんだよ……コイツら、いい奴らじゃん〉
僕は仲間たちの温かな歓迎にナミダが出そうになった。
「じゃ、行くべ!」
僕は彼らに背中を押され、更衣室をあとにした。
今日の練習試合は、七対三で勝った。
打線が一巡した四回に、相手投手が突如制球を乱して四球を連発し、押し出しを含めて七点を挙げた。
得点をしたのはその回だけだから、とくに見せ場って言う見せ場はなかった。
強いて言えば酒井の粘り強いピッチングが光ったってところだろうか。
「だから言ったべ? あそこはよ――」
饒舌だった酒井が急に口を噤み立ち止まった。
彼の視線の先……校門のところに高橋先輩が立っていた。
「今日はお疲れさま」
彼女は僕らを労うように笑顔で言うと、僕に向き直った。
「じゃ、帰るわよ。杉浦くん」
有無を言わせない口調だった。
しかし今日のラーメンだけは譲れない。ラーメンを食わなければ、ココまでナニしに来たのかわからない。
「いや、すいません。今日は――」
言いかけたところで、誰かが脇腹をつついた。
振り返ると坂杉だった。
彼は顔を顰めて小さな声で言った。
――杉浦、悪い。頼むからナニも言わずに行ってくれ。
顔の前で小さく手刀を切った。
――はあ? なにいってんだよ。オレの歓迎会、だろ?
僕も小声で言い返した。
しかし坂杉は悲しそうに首を振るだけだった。
「どうしたの?」
その様子を見ていた彼女が首を傾げた。
「いえ。なんでもありません! な、スギウラ?」
酒井がわざとらしい笑顔を浮かべて僕の方に振り返った。
「――!!」
僕はその表情で全てを悟ってしまった。周りの奴らもあからさまに僕から目を背けた。
けっきょく僕はリリースされた。
奴らが平穏にラーメンを食いに行く為に捧げられた生け贄が僕だったってわけだ。
〈歓迎会っつう話はなんだったんだ?!〉
僕は憤りを隠せないでいた。ゴハンを目の前にお預けを喰らったみたいだ……つうかそのまんまなんだけど。
「――どうだった? 今日の試合」
高橋先輩がいつものように尋ねてきた。
彼女は僕の心中を察する気なんてまるでないみたいだった。
「キミの感想を聞かせてよ?」
彼女は屈託のない笑顔を浮かべている……。
僕はため息を吐いた。
〈……まあ、いいや……〉
ラーメンのことばかり考えてる自分がちっぽけに思えて、もう一度息を吐いた。
***
「――まあ、それがよかったんじゃないスかね? 結果的に」
僕は試合を見た感想を端折って話した。
「なるほどね……」
じっと耳を傾けていた彼女が言った。「他にはない? 見てて気になった点は」
「気になった点……スか?」
もう一度、試合を振り返ってみる。
「ああ、そう言えば……石黒先輩って、レギュラーじゃないんスか?」
主将の石黒は一塁手。
しかしこの試合では最後まで三塁のベースコーチを務めていた。
「彼は野球を始めたのは高校に入ってからだから、あんまり上手くないのよね」
彼女は平然と呟いた。
「え……そうなんスか?」
野球未経験者……そんな人が主将でいいのか?
「彼は三塁ベースコーチのレギュラーかな?」
高橋先輩はそう言いながらも少し首を傾げた。
「へえ……」
それは『補欠』ってコトと同じ意味ですよね……?
「まあ……人にはそれぞれ役割があるのよ、きっと」
彼女はそう呟くと、自らを納得させるように頷いた。
じゃあいまの僕の役割ってなんなんだろ?
他校からの移籍組である僕は、ケガの具合とは関係なく来年まで試合に出ることができない。高野連がそう決めたんだから黙って従うしかない。
そう言う意味でも、いまの僕の立場は非常に微妙なモノだと思う。
チームを強化するうえで貴重な機会となる『練習試合』に、メンバーとして登録できない僕が出場できる可能性ってどのくらいあるんだろう。
かと言って毎回『審判』なんかヤラされたらたまったもんじゃないし――。
「僕のポジションて、どうなってるんですかね」
不安な気持ちを抑えて尋ねた。
恐ろしいことに、僕にはポジションすら与えられていなかった。
強いて言えば『球拾い』……だけどそれは期間限定のポジションであることを願いたい。
「そうね。先生は何も言ってなかったけど――」
彼女は細い顎に指を当てている。
考えごとをするときの彼女のクセなんだろうか。
いずれはピッチャーを、という希望は当然ある。
投球練習を再開していない現状ではまだまだ難しいが、三年の夏までには十分間に合うはずだ。
過去の栄光をいつまでも引きずるつもりはないが、それでも僕には自信があった。
確信していたと言ってもいい。僕なら絶対、この弱小チームを甲子園までつれていってやることができる――
「取りあえずさ――」
沈黙を保っていた彼女が口を開いた。
「キミにはアタシの助手をしてもらおうかな」
結構忙しいわよ。彼女はそう言って口角をきゅっと上げた。
〈え……マネージャーの助手って……?〉
僕は首を捻った。
同時に何とも言えない笑みがこぼれるのがわかった。
「ナニか可笑しい?」
高橋先輩がとがった声で言った。
「……いえ。なんでもないス」
一年前には考えられなかった落ちぶれように、僕は呆れて笑うしかなかった。