【009】 Train & Rain
東海道線の茅ヶ崎駅から歩いて二十分ほどのところにある、茅ヶ崎湘洋高校。
神奈川県の「百校計画」の初期に創立した学校で、創立と同時に野球部もできたらしい。
部員は、一二年生を併せて二六名。それに女子マネージャーが三人。
夏の大会の最高成績は五年前の県大会ベスト8。
それ以外はだいたい三回戦までに姿を消しているらしい。つまり強豪とはほど遠い位置にいる学校のようだ。
コーチは特にはいない。たまにOBがセンパイ風を吹かせてやってくる程度らしい。
部長は武田賢司という国語教師。
そして納村孝一という数学教師……いま、僕の目の前にいる神経質そうな男がココの監督だった。
週明けの月曜日、僕は俊夫と一緒に高橋先輩の教室を訪れた。そこで正式に入部届を提出した。
すると彼女は「監督を紹介する」と言って僕だけを職員室まで連れてきた。
そして現在に至るというわけだが――。
納村は外した眼鏡をデスクの上に置くと、提出したばかりの入部届を片手に僕を一瞥した。
「――中学の時のポジションは。」
彼は億劫そうに口を開いた。
「一応……ピッチャー、でした」
僕は謙虚さを演出しつつそう応えた。
しかし彼は僕の何かが気に入らなかったようで、眉をぴくりと動かしただけで僕から視線を外した。
納村は入部届に目を落とした。
僕らが提出した入部届には名前と住所、それから生年月日くらいしか書かれていない。そんなモノの何を熱心に読んでるんだ?……僕は立ったまま納村を見下ろした。
納村は年齢不詳の男だった。若いようにもみえるが、そうでもないような気もする。若干白髪が混じった短髪と表情の乏しい顔。ソコに上手いこと収まったこぢんまりとした各パーツ。唯一特徴的だといえるのは、場違いなほどに太くて短い眉毛……これが全体的な冷たい印象を和らげているのかもしれない。体格はガッチリとしている。座ってはいるが、意外と背は高いのかもしれない――。
「……鈴木も戻るのか?」
不意に顔を上げた納村が、僕の後ろにいた高橋先輩に向かって言った。
「はい。杉浦くんと一緒に、です」
彼女が言うと、納村は鼻で笑い、ボソボソと小さな声で何かを言った。
内容までは聞き取れなかったが、その表情だけで十分すぎるほど推測できた。少なくとも納村は、僕と俊夫を歓迎してくれているというわけではなさそうだ。
「――気分悪いヤツだったろ?」
教室に戻ると俊夫が近づいてきて言った。
「アイツは偏屈だから、お前みたいなヤツは気を付けた方がいいぞ」
そう言った彼の表情からはなんの感情も窺えない。
「お前みたいって……何をどうやって気を付けるんだよ」
僕が鼻で笑うと、俊夫は「目立たないことだ」と即答した。
冗談で言ってるのかと思ったが、俊夫の目は笑っていなかった。
俊夫と違って僕はまだ納村という人間がよく判っていない。
ただ別れ際に言われた「くれぐれも問題はおこすなよ」という台詞が、彼が僕に対して抱いた印象なんだろうと考えると先が思いやられる気分だった。
***
「――了解。病院に行くときは言ってよね。遠慮しなくていいから」
高橋先輩はそう言って休みをくれた。
野球を再開したのに併せて、通院も再開することにした。できることなら、またマウンドに立ちたいという希望もあったし。
僕が練習に参加するようになってから既に一週間が経過していた。
その間、監督である納村をグラウンドでは一度も見ていない。部長の武田も一度だけショボいノックを披露しにきただけ……公立の練習ってこんなモンなのか……?
「そういえばユニホームできたらしいわよ」
彼女は思い出したように言った。
「じゃあ明日取ってきますよ。ついでですから」
僕は言った。
ユニホームを注文した店は大船の先だった。ということは明日の帰りに寄ってくればいいよな。
「……一人で行ける?」
彼女は心配そうな目を僕に向けてきた。
「大丈夫スよ。一回行ってますし……」
このあいだ言ったばかりだから問題ない。
「ホントに大丈夫ね?」
いったいナニがそんなに心配なんだろうと思うほど、彼女は念を押した。
あんまり心配されると、僕としても不安な気持ちにはなるが――
「大丈夫スよ……多分」
まあ、なんとかなる、ハズ。
「よかった。忙しくて、しばらくは一緒に行ってあげられそうになかったから……原田さんには連絡入れとくわ」
「はあ。お願いします……」
彼女が「よかった」を繰り返すたび、僕の自信は少しずつ萎んでいくようだった。
僕が通う病院は川崎にあった。
大手企業の中にあるクリニックの『スポーツ外来』。
中学時代のチームの監督が紹介してくれたその病院に通い始めてからもう一年以上になる。
とはいっても今回は約三ヶ月ぶりの通院となるわけだったが。
「――というわけで、転校しました。ご心配おかけしました」
医師にコトの顛末をざらっと説明した。
また野球を始めたことを報告すると、眼鏡の奥の医師の眼が一瞬和らいだような気がした。
「そうだね。折角ここまで我慢したんだから――」
医師の話では、僕の肩は「カドウハンイが戻りつつある状態」なんだとか。
何を言ってるのかさっぱり判らないのはいつものことだったが、いまが大事な時期だということは彼の静かな口調のなかに感じることはできた。
病院を出た僕は、駅までの道をいつもより時間を掛けてゆっくりと歩いてみた。
以前は早く学校に戻って練習をする為に、駅と病院の往復の道を走ることが多かった。
だけど今はそんな必要もない。転校してからの僕の時間は、以前よりもゆっくりと流れているような気がしてならない。
国道一号線を渡り、警察署の横を抜け、駅前のデパートに立ち寄る。
エレベーターを使わず、階段を昇って……僕が向かったのは書店。地図が見たかったのだ。
僕は棚から一冊の地図を手に取り、ページをめくった。
〈え~と……洋光台、洋光台――〉
洋光台は簡単に見つかった。
大船から三つ目の駅……そう言えば、高橋先輩の後輩の娘もそんなこと言ってたな。
場所を確認した僕は、手にしていた道路地図を元の位置に戻し、颯爽と駅へと向かった。
しかし――
〈あれ……おっかしいな……〉
駅のホームで僕は首を捻っていた。
大船駅から三つ目の駅……しかしどう見てもココは洋光台ではなかった。背中をイヤな汗が伝う感触があった。
結局その日、僕が洋光台に辿り着くことはなかった。
***
「嘘でしょ?」
翌日、そのことを報告すると高橋先輩はがっくりと肩を落とした。
まったく、キミが大丈夫だっていうから――
彼女はまるで呪詛を唱えるようにぶつぶつ繰り返してはいたが、結局次の日に一緒に行ってくれることになった。
「ご迷惑お掛けします」
僕は本当に申し訳ない気持ちで肩を窄めた。
「ホントよね。余所モンってことで今回は特別に目を瞑るわ」
彼女は腕を組んだまま、上目遣いに僕を見た。
〈ヨソモノ……ですか〉
イヤな言葉の響きだと思ったが、いまの僕には反論のしようがない。僕は黙って愛想笑いを浮かべた。
茅ヶ崎駅から乗った東京行きの東海道線は空いていた。
乗り込んだ車両も空席が多かったのだが、高橋先輩は座る素振りを一切見せず、ゆっくりと先頭車両の方に向かって歩き出した。
僕も黙って彼女のあとを歩く――。
すると突然彼女は立ち止まり、振り返った。
「ここまではわかるわね?」
高橋先輩は腰に手を当てて、僕を見上げた。
「……一応、大船までは行けたんスけどね」
言い訳のように呟いた。
「じゃあ何で洋光台までは行けないのかな? 不思議よね?」
彼女は頻りに首を傾げた。
その口調は責めるふうではなく、寧ろ小学生に言いきかせるかのように優しいものだった。
僕は窓の外に目を向けていた。
空はどんよりと曇っている。いまにも雨が降り出しそうな気配だったが、原チャリ通学の僕は生憎『カサ』なんてものは持ってきていない……あ、原チャリ――。
僕はコンビニに停めっぱなしにしてきた原チャリの存在を思い出していた。
やがて、見覚えのある会社の看板が視界を横切ったのと同時に、電車が速度を落とした。程なくして藤沢駅のホームが目の前に現れた。
窓に映る藤沢駅の長いホーム。
ユルユルと進み続けていた電車が完全に停止する直前、ホームに見覚えのある顔を見つけたような気がした。まあ、気のせいなんだろうけど。
「じゃあ、アタシはここで――」
突然、高橋先輩が立ち上がった。
〈は……?〉 僕は彼女を見上げた。咄嗟のことで言葉が出てこなかった。
「言ったでしょ。アタシ忙しいのよ」
つり革にぶら下がるようにして向き直った彼女は、僕を見下ろしてそう言った。
〈ナニ言ってんの、コノヒト……?〉
そのとき、彼女の後方のドアが開いた。
パラパラと入ってきた乗客――
「あ。」
「こんにちは……」
やっぱりさっきのは気のせいじゃなかった。乗客の中に後輩の娘がまぎれていた。
「というわけで、ここからは麻衣が連れてってくれるから」
口の端に笑みを浮かべた高橋先輩は僕の動揺を愉しんでいるようだった。
「じゃ、よろしくね」
「わかりました。このあいだのお店ですね」
彼女たちは早口で言葉を交わすと、互いに手を振りながら入れ替わった。
僕は彼女らのやりとりを、惚けたように見ているだけだった。
ドアが閉まり電車が動き出すと、後輩の娘は何事もなかったかのように僕の隣に腰を下ろし「よろしくお願いしますね」と、いつものようにはにかんだ笑みを浮かべた。
「はあ……よろしくお願いします……」
状況を掴み切れていなかった僕は、間の抜けたように鸚鵡返しをすることしかできなかった。
案内してくれるのが誰だったとしても僕としては何も問題はない。だが何となく釈然としない気持ちだった。
しかし……考えてみれば、本当に釈然としないのは彼女なんだろう。
高橋先輩の押しの強さはフツウではない。いくら後輩とはいっても学校も違う彼女に頼むなんてちょっと非常識なんじゃないだろうか? まあ、全ては僕の至らなさが原因なのは判ってるけど。
「―――ですよね?」
顔を上げると、彼女は僕の顔を窺うように首を傾げていた。
何かの応えを待っているようだったが……僕は彼女の話を全く聞いていなかった。
「……すいません。もう一回いいですか?」
僕は顔の前で人差し指を立てた。
「いえ。言い直すほどのことではないですから」
彼女はそう言って微笑んだ。
僕らを乗せた電車が次の駅、『大船』に到着した。
電車を降りると、後輩の娘は「ここから根岸線に乗りかえます」と言った。
「なるほど。ネギシセンですね」
ナニが『なるほど』なのか判らないが、僕は適当な相槌を打った。
一昨日もココまでは来た、それも何回も。
大船から三つ目というのは憶えていたのだが、最初に僕のたどり着いた三つ目の駅は『保土ヶ谷』だった。その次は『逗子』……。そして最後に乗ったのは何故か東海道線だった。
けっきょく僕は断念して、そのまま家に帰った。
「すいません、ありがとうございました。もう大丈夫です」
僕は彼女にアタマを下げた。
「お店までご一緒しますよ?」
顔を上げると、そこには不思議そうな目で僕を見る彼女の顔があった。
「亜希先輩にもそう言われてますから」 彼女は平然と言った。
「でも、本当に大丈夫スよ」
僕がそう言うと、彼女の口許に笑みが浮かんだ。
「いえ……杉浦さんの『大丈夫』はアテにならないから絶対に目を離さないように、っていわれてますし」
なんじゃそりゃ……。
「ちゃんとついてきてくださいね」
彼女は歩き出した。
仕方なく、僕も彼女の後を追って歩き出した
***
「本っ当にありがとうございました」
僕は何度も頭を下げた。
一昨日は何でたどり着けなかったのだろうと我ながら不思議に思ったが、取りあえず無事にユニフォームを手に入れることができた。
スパイクも買えた。最初に目を付けた高い方のスパイクだ。それでも尚、財布は潤っている……父からもらったお小遣いのお陰で。
父さんに感謝しないといけないよな、マジで。感謝と言えば、彼女にも……。
ふと彼女にお礼がしたくなった。というよりしなければいけないような気がした。
「――あの……よかったらどっかよっていきませんか。お茶ぐらいならご馳走しますけど」
人間、フトコロにヨユウができると心にもヨユウが生まれるのだ、ということを僕はこのとき初めて知った。
しかし……彼女は一瞬、ナニか思いを巡らせているように視線を落とした。
まさか拒否されちゃうのか――と淋しい気持ちになったが、やがて顔を上げた彼女は小さく頷き、僕は心の中で胸をなで下ろした。
僕らはさっき駅を出たところで見かけた喫茶店に入った。
「俺はアイスレモンティーにします。え~と、佐藤さんは?」
「私はミルクティーにします」
僕はそれにサンドウィッチのセットを二つオーダーした。
「わたし、食べませんよ?」
彼女は慌てて言った。
「いや、オレが食べるんスけど……」
「は? ああ……」
彼女は何かを言いかけて、大きく二、三回頷いた。
僕は店内を見回した。
壁に掛かっているプレートにはメニューが書かれている。種類の豊富さから言って、ココの店は紅茶よりコーヒーがメインのようだ。
小さな店だったが、僕としてはファミレスみたいなところよりもこっちの方が落ち着いてて――
不意に視線を感じて、後輩の娘の方を見た。
その瞬間、彼女は明らかに目を逸らした。その顔には何か含みを持たせた笑みが浮かんだままで……。
「……何スか?」
僕は彼女に向き直った。
彼女は僕の方を一瞬見たが、すぐに視線を逸らすと
「いえ……亜希先輩が、杉浦さんはまったく気が利かない男だって言ってたので……意外だな、と」
曖昧な笑みを浮かべたまま小さな声で言った。
おそらく僕がお茶に誘ったことをいっているのだろう……つまり、このことが高橋先輩の耳に入るのは時間の問題ってことだな。
「高橋先輩と色んな話をしてるんスね」
「はい、小さい頃から知ってますし、家も近所ですしね。最近は杉浦さんの話も時々出てきますよ」
時々出てくるって……ナンの話だ? まあ、聞かない方が身の為かもな。
「杉浦さんは……実家は東京、なんですよね?」
彼女は伏し目がちに言った。
僕は小さく頷くと、手にしていたサンドウィッチをトレイに置いて言った。
「あの……杉浦さんていうのは止めてもらえないスか?」
僕の言葉に、ティーカップを手にした彼女の動きが止まった。その目はまっすぐに僕に向けられていた。
「いや。一応、年齢も同じだしさ……」
名前にさんを付けられることに相当な違和感があった。フツウにくんでいいんじゃないかと思っただけなのだが……彼女はナニも応えてくれなかった。まったく無反応と言ってもよかった。ただ両手でカップを持ったまま、じっと黙って僕の口許を見つめている――。
やがて彼女はゆっくりとカップを置いた。
「じゃあ……杉浦。」 僕の目を見返して呟いた。
いきなり呼び捨て……。
それはそれで違和感があったが、まあいいや。
「私のことも『佐藤さん』って呼ぶのヤメてもらえます?」
まさか……佐藤ちゃん、じゃないよな?
「麻衣子でいいですよ。亜希先輩は麻衣なんていってますけど」
「はあ。考えておきます……」
僕はぼんやりと窓の外を眺めていた。
カミ合ってない……僕はそんな感じがしていた。喋ってはいたけど会話が弾んでいるとは言い難い。少なくとも僕は自然ではなかった……とくにナニかを意識していたワケじゃないが。
外は相変わらずのどんよりとした曇り空、だけど雨は降っていない。
雨の降っていない放課後に女の子と喫茶店で過ごす――。
こういう生き方もあったのかなと考えていた。
今までずっと野球漬けだったからそんな経験がなかった。中学の頃もマトモに話をした女の子といえば麻柚ぐらいしか記憶にないし、最初に入った高校は男子校だったし。なにしろ僕とは無縁の世界だった。
「……どうかしました?」
彼女が不安そうな表情で僕を覗き込んでいた。
「ああ……いや、ナンカ面白い話題でもなかったかなって思って」
僕は彼女から目を逸らし、カップに手を伸ばした。
「ふ~ん。で、ありました? 面白い話題」
「いや、すいません。……何にもなかったです」
そう言うと、彼女はにっこり微笑んだ。
「じゃ、見せてください」
「は?」 ナニを……?
「ユニホームです」
彼女はテーブルに身を乗り出した。
「ああ……ユニホーム、ね」
まあ、彼女には見る権利があるよな。そう言えば僕もじっくりとは見たことがなかったし。
僕は袋からユニホームを無造作に引っ張り出した。そしてそれをテーブルに広げた。
彼女は袖の『神奈川』と書かれた刺繍に手を伸ばすと「実物は初めて見た」といってユニホームの生地を摘んだ。
高校野球らしい、白基調のユニホーム。
胸にローマ字で書かれた校名。既視感のあるデザインは取り立てて特徴はないが、嫌みのない無難なモノだった。
「背中も……いいですか?」
彼女のリクエストに応えてユニホームをひっくり返した。
当然ながらなんにもない真っ白な背中。
彼女が頻りに首を傾げた。
「ああ、背番号スか?」
僕は背中の部分に指で円を描いた。
「アレは大会の前に配られるんですよ。選ばれたメンバーだけ――」
そう言ってから、あらためて気付いた。
背番号のないユニホームは、いまの僕の立ち位置を再確認させられているようで……少しだけ気持ちが沈んだ。
***
「ご馳走様でした」
「いえ。誘っておいて面白い話もできなくてすいませんでした」
歩きながら頭を下げた。
「そうでもなかったですよ」
彼女は呟いた。
僕は彼女の横顔を窺い見たが、その表情からは何も読み取ることはできなかった。
大船駅についたとき、外はもう暗くなっていた。まだ曇っているのかどうかは判らなかったが、まだ雨は降っていないのは確かだった。
「今日はありがとうございました。本当に助かりました」
別れ際にもう一度アタマを下げた。
「いいですよ、そんなに何度も……」
彼女は苦笑いを浮かべて後退りした。