【008】 Relations
吉武光雄がミーティングルームに着いたとき、すでに他のメンバーは定位置に座っていた。
入って右には監督の善波彰夫、その向かいには野球部長の太田伸一。そして一番奥には打撃コーチの三枝昌二……。
「遅かったな」
そう呟いた善波に向かって、吉武は軽く手刀を切り自分の定位置に座ろうとした。そのとき――
「吉武! ちょっと待て」
〈そら来た……〉吉武は思った。
「立ってるついでに牛丼でも買ってきてくれや。あとタバコも」
声の主は三枝だった。
吉武にとって三枝は高校時代からの天敵だった。
先輩・後輩の関係と言うだけなら善波も太田も吉武と立場は変わらないはずだった。
しかし何故か吉武だけは違っていた。彼は入学したときから三枝の『使いっ走り』だった。そしてその関係は二十年以上経ったいまでも続いている。
なぜ、自分だけが……?
解せない気持ちをいつも心に持ち続けてはいたが、三枝の前に立つとそれを言葉にすることができない。
最近では頼まれる前に気配でわかる。そう言う意味では彼らの主従関係は筋金入りだとも言えた。
「あと、ビールもな。銘柄は任せる」
三枝はポケットから無造作に取りだした一万円札を吉武に突き出した。
吉武は一瞬、縋るような視線を善波と太田に向けた。しかし彼らはあからさまに目を逸らした。
彼は溜息を吐いた。
そして黙って一万円札を受け取ると、いま入ってきたばかりのドアから出ていった。
「……で話は戻るが――」
三枝はテーブルを指先で弾いた。
善波と太田は腕を組んだまま考え込むような表情で押し黙っている。
吉武の登場で中断したが、かれこれ十五分くらいはこの状況が続いていた。
コトの始まりは、打撃コーチとして岡崎の個別指導をする三枝が強化プランの一つとして「この秋、岡崎には百打席立ってもらう」と言い出したことだった。
単純計算で、練習試合を含めて二十試合×五打席だから、打線がつながればそれほど難しい話ではないような気もする。
しかし高校野球においてはなかなか予定通りにはいかないこともある。
打てなければ五打席なんて回るわけがないし、打てば打ったでコールドもある。
意図的にコールドを回避することも可能ではあったが、チームの強化という面では逆行してしまう。
しかもチームは秋季大会の優勝候補の一角であり、勝ち進めば関東大会、その先には明治神宮大会も待ち受けている。そんな先の決まらない中で、練習試合の日程を効果的に組むのも至難の業である。そこで考えたのが、岡崎を一番で起用する案だった。
「せっかく四番で数字も残してますしねえ……」
善波は難色を示している。それは太田も同様だった。
「でもそれしかあるめえよ。打席数には限りがあるからな」
「フリーで補うことも可能なんじゃないですか?」
太田が三枝の顔色を窺うように呟いた。
「ゼンゼンわかってねえなあ――」
三枝は呆れたように「わかってねえ」を繰り返した。
「本当のチカラなんてのはよぉ、試合でしか身に付かねえんだよ。ピリピリとした緊張感の中でしか、な」
テーブルに身を乗り出した三枝は、唾を飛ばしながら熱弁を振るった。
「いいか。練習で付けられるのは『土壇場でヒト踏ん張り』できるかどうかの裏付けだけだ……どうだ。間違ってるか?」
三枝は善波と太田の顔を交互に睨んだ。
「いえ……間違ってないとは思いますよ」
善波の言葉に、太田も一度だけ小さく頷いた。
「じゃあ決まりだな」
三枝は締めるように手を叩いた。
善波としてはまだ納得がいったわけではなかったが、現時点では三枝に対抗できる材料を何も持ち合わせていなかった。
「ところで善波。おまえ『徳田式』って憶えてるか?」
ビールの缶を手にした三枝が善波に向かって呟いた。
「憶えてますけど……なにか?」
善波の顔が曇った。
徳田式サーキットトレーニング――
前監督の徳田和人が考えた成京学館伝統のトレーニング。
通常のサーキットトレーニングにベースランニングを組み合わせたモノで、かつては新入部員を対象に毎年行われていた。
しかしあまりの厳しさに潰れる人間や脱落する者が続出し、ある年に部員が集団脱走するという事件が起こったことをきっかけに、いまでは行われることはなくなってしまった。
善波も現役時代、このトレーニングで徹底的に鍛えられた。
彼が他の人間のように逃げださなかったのは、当時のお目付役だった三枝が容赦のない人間だったため、寮から逃げだすだけの体力が残っていなかっただけのことだった。
「いま、岡崎はオレと一緒に夜間練習をやってるんだが……やってるんだよ、ソレを」
三枝は他人事のように言った。
「はあ? 全体練習が終わってからですか?!」
善波は腰を上げかけた。
「ああ」
三枝が涼しい顔でそう答えると、善波は「ムチャせんでくださいよ……」とひと言呟くと顔を覆うようにして項垂れた。
「大丈夫だ、そんなに心配するな。アイツの基礎体力はオレが考えてた以上だ。まったく泣き言を言わん……可愛げがないくらいにな」
善波をなだめるように三枝が声を掛けると、太田も困ったように苦笑いを浮かべた。
「岡崎が言うにはな……負けたくないヤツがいるんだとよ」
その声に、善波が顔を上げた。
「……杉浦、ですか?」
「さあな。訊いてないないから判らんな」
三枝はビールを呷った。
彼も杉浦の名前は知っていた。
今年、西東京の明桜学園に進んだ剛腕投手・杉浦優。
稀に見る当たり年となった今年の一年生でも『ナンバーワン』と言われた好投手であり、『十年に一人』とも言われた逸材。高校球界に携わる者なら知らない人間はいない名前だった。
しかし三枝は杉浦を実際に見たことはなかった。
〈ナンバーワンってことは……羽曳野の用田より上ってことか? さすがにそれはあり得ないわな〉
噂っていうのはいつだって尾ひれがついていて、実物を見ると案外お粗末なものだったりする。彼は自身の経験から、自分で見たモノ以外は信用しないことにしていた。
「なあ。明桜の杉浦ってのはそんなにいいピッチャーなのか? 岡崎がライバル視するほど」
「ええ。素材的にはピカイチですね」
善波は即答した。「ウチも全力でいってたんですよ、最高の条件を用意して。でも明桜の動きが予想以上に早くて……」
「じゃ、善波も見てるのか? 杉浦を」
「ええ、何度か見てます。岡崎と杉浦は江東区のチームで四番とエースの間柄でしたから」
善波はそう呟くと、大きく息を吐いた。
三枝はテーブルに頬杖をついたまま聞いていた。
中学時代、同じチームで四番を打っていた岡崎とエースだった杉浦。
高校進学と同時に別々のチームになった彼らがライバル関係にあったとしても不思議ではないし、どちらのチカラが上なのかを確かめてみたい気持ちがあったのだろうということも容易に想像ができる。
岡崎がハードな練習に手を抜かずに取り組んでいるのは、彼にとって杉浦の存在が大きいということなのだろう……だとしたら、一度早いうちに明桜学園と試合を組んでみてもいいかもしれない。
三枝としても杉浦に興味があった。岡崎をその気にさせる剛腕投手の実力をこの目で見てみたいと思った。
「その杉浦なんですがね……どうも明桜を辞めたらしいんですよ」
「はあ? なんでだ? 理由は? 辞めた理由」
矢継ぎ早な質問を、三枝は善波にぶつけた。
「まだソコまでは入ってきてないですね。ただ、寮は出たって話です」
善波に代わって、太田が応えた。
「まいったな……」
三枝は善波からタバコを一本掠め取ると、くわえて火を付けながら呟いた。
「で、どう思うよ? 善波は」
「どうって……何がです?」
善波は片眉を上げた。
「岡崎にソレを伝えるかどうかだよ。少なくとも岡崎のメンタルに与える影響は小さくないだろ。まあ、黙ってても何れは知れちまうんだろうが」
三枝の言葉に、善波と太田はまた腕を組んだまま押し黙ってしまった。
秋季東京都大会のトーナメント表から見て、順当に勝ち進めば準々決勝で明桜学園と当たる可能性が高い。
「……まあ、頃合いを見てオレから伝えとくかな」
言葉と一緒に吐きだした煙を見上げ、三枝は目を細めた。
***
ナイター照明に照らされたグラウンドを走り続ける選手たち。
始めは岡崎だけだった夜間練習も、三ヶ月経ったいまでは十二人に増えていた。
「――今日は終わりする。もうオレが疲れた」
三枝がそう言うと、彼らはその場に倒れ込んだ。
この場にいるのは全員一年生だったが、強制されて集まっているわけではない。ただ彼らが岡崎の影響を受けているのは間違いなかった。いつの間にか岡崎を中心として『一年生チーム』がまとまりつつあった。
岡崎が持つ『ヒトを惹き付けるチカラ』に三枝は素直に感心した。
三枝はグラウンドに座り込んでいる岡崎に歩み寄った。
「なあ。以前に言ってた負けたくないヤツって、明桜学園の杉浦か?」
岡崎は顔を上げると
「はい。アイツには絶対負けません」と答えた。
彼の体力はほとんど残っていないと言ってもいいハズだったが、杉浦の名前を聞いたとたん、その口許には不敵な笑みが浮かんだ。
「そうか……」
三枝は足元に視線を落とした。「辞めちまったらしいぞ、杉浦は」
岡崎はなんら反応を示さなかった。
「まあ、ハッキリしたことは判らんが……神奈川の学校に転校したらしいな」
沈黙があたりを包み込んでいる。
間を嫌った三枝は、足元の小石を拾い上げると、ゆったりとしたオーバースローでグラウンドの隅に放り投げた。
岡崎は拳を握りしめたまま、立ちつくしている。その表情は読み取れないが、この沈黙が彼の心の内を如実に表しているようにも思えた。
〈まだ伝えるべきじゃなかったのか?〉
三枝は顎を撫でた。
杉浦の存在が岡崎のモチベーションを上げる役割を果たしていたのは言うまでもなかった。三枝にも経験があったが、ライバルの存在が自分の成長を促してくれる一面があるということは事実だ。
しかしライバルとは二人三脚の関係でいられるワケではない。片方が転けたときに、もう一方も一緒に脱落してしまうような関係であってはならない。
上を目指すのであれば、あくまで戦うべき相手は自分自身なのだ。それができないのであれば、一歩下がった位置で仲間とちまちまやってる方がいい……第一線からきっちりと身を引いたいつかの自分のように。
三枝は岡崎の言葉を待った。岡崎という選手が本物かどうかを見極めたかった。
彼が更に上を目指していく資格がある男なのか、それともライバルを失ったことでやる気を削がれちまう程度の男なのか――。
「――アイツらしいな……」
岡崎が呟いた。
「アイツらしいです。神奈川って一応、全国一の激戦区とか言われていますよね。ソコに飛び込んでいくなんて……やっぱりアイツらしいと思います」
それまで沈黙を保っていた岡崎が顔を上げ、喋りはじめた。
「自分も負けられません。アイツより先に甲子園に出て少しリードした気分になってました。それなのに……アイツはやっぱり凄いヤツですよ!」
彼は顔を紅潮させ、拳を握りしめ、頻りに「スゴイ」を繰り返した。
〈いや……そんなカッコいい理由じゃないと思うが……。だって退学になったって話だぞ……?〉
三枝は思ったが、岡崎の興奮具合はソレを口にするのを躊躇わせるほどだった。
「見ててください! オレ、絶対甲子園でアイツの球を打って見せますから!」
岡崎は力強い声で言うと、胸を張った。
「……そ、そうだな。頑張ろうな?」
「はい!!」
三枝たちの心配は杞憂に終わった。
岡崎の勘違いとは言え、取りあえずはいい発奮材料になったようだった。
しかし三枝は岡崎が本物かどうかを見極めることはできなかった。ただ……得体の知れない器の大きさの感じ、静かに身震いをした。そして思った。
やっぱりコイツは野球バカなんだな、と。