第一章 【001】 ネクストバッター
六回頃から降りだした雨はもう上がっていた。
ライト後方の雲の切れ間からは夏の強い陽射しが顔を覗かせ、雨で濡れた芝生をキラキラと輝かせていた。
「なあ。なんでこんなに応援がいるんだ?」
まだ一回戦だっつうのによ――。
ダッグアウトに帰ってきた三塁コーチャーの鈴木俊夫は、呆れたように客席を指さした。
三塁側のスタンドは全校応援なんじゃないかと勘違いしてしまうほどに膨れあがっていた。
「ヒマな奴らが多いんだべ。それに近けーし」
及川涼がいった。
確かにこの「市営藤沢球場」は茅ヶ崎湘洋高校から比較的近い場所にあった。
「でもよ、もし負けちまったら、明日こいつらと顔合わせにくいよな」
涼が客席に向けアゴをしゃくった。
確かにそれはバツが悪いな、と誰かが相槌を打つ。
「おうよ。だから今日だけは絶対に負けらんねえべよ」
主将の坂杉正史がバットを振り上げ、自分にいいきかせるように「負けらんねえ」を繰り返した。
大会四日目の第一試合、地元での試合に臨んでいる神奈川県立茅ヶ崎湘洋高校。
ノーシードではあったが、僕らの前評判は決して低くはなかった。
シード権獲得を目指して臨んだ春の県大会、三回戦で対戦したのは今年のセンバツベスト4の強豪・東峰学園だった。
試合は逆転で敗れたものの、その予想外の善戦は、県内の高校野球関係者の話題をさらった。
同時に僕らのが目指すモノも明確になった。合言葉は「打倒! 東峰学園!」、そして――。
この試合、先攻の僕らは初回にあっさりと一点を先制していた。
エース酒井浩平の出来は悪くない。
内外野ともによく足が動いている。
ベンチのムードもいい。
積み上げてきた自信と、初戦に臨む漠然とした不安。そこには油断が入り込む隙間などなかった。
五回を終了して、一対〇。
追加点こそ奪えないでいるが、ここまでの試合展開は自分たちのペースだとはいえなくはなかった。
「……雨、降ってきたみたいだな」
誰かがいった。少し風もでてきたようだった。
「ま、この程度なら問題ねえべ?」
酒井がドンと音をたてて、ベンチに腰を下ろした。
降りだした雨は特に強まる様子もなく、日程上に支障をきたすこともないようだった。
しかし、この試合の行方には少なからず影響を与えることとなった。
八回の裏、茅ヶ崎湘洋高に致命的な守りのミスが出た。
二死二、三塁からのタイムリーエラー。
それはあまりに大きすぎるミスだった。
八回を終了して 二対三。僕らはまさかの逆転を許してしまった。
最終回の攻撃を残し一点のビハインド。
決して負けるはずのない相手。
しかし、ココまで積み上げてきた僕らの自信は、いま微かに揺らぎはじめていた。
六回頃から降り出した雨は、もう完全に上がっていた。
水はけの良いグラウンドは、雲の切れ間から顔を出した夏の日差しに炙られ、もう殆ど乾いている。
膨れあがった三塁側のスタンドからは、応援のブラスバンドの演奏が聞こえる。
一塁側のスタンドでは、最前列に陣取った相手校の女子マネージャーらしき人たちが手をあわせて祈っているのが見える。
――つないでいけよ!! #$%’??=P!
ベンチからは誰かの声がしたが、ほとんど何をいってるのかは聞き取れない。
ネクストバッターズサークルに立った僕は、三塁側スタンドを仰ぎ見て小さく息を吐いた。
本当に全校応援なんじゃないかと思えるくらい、確かにスタンドはいっぱいだった。
「――スギウラ。絶対、おまえまで回すからよ」
打席に向う坂杉が、相手投手に視線を向けたまま少し上擦った声を出した。
僕は彼の緊張をほぐすように脇腹に軽く拳を入れた。
「当然だ。おれが全部返してやんよ」
そういってバットのグリップを握る手にチカラを込めた。
二死二塁。一打同点のチャンス。
マウンドで汗を拭っている相手投手は、ココから見ても青ざめているように映る。
そして三遊間と比べて広く空いている一、二塁間。
右方向に転がせば簡単にヒットになりそうなもんだが「引っ張り専門」の坂杉にそんな器用なことは期待できない。
打席に立つ坂杉を見ながら、僕は不思議なくらいにリラックスしていた。
ただ、頭の中では「負けらんねえ」という言葉を自らにいいきかせるように繰り返して――。
――キィン!
初球、高目のボールを叩いた坂杉の打球がライト方向へ飛んだ。
浅めに守っていた右翼手がややラインよりに動いた。不格好にグラブを翳しながらふらふらと後退り、やがて足が止まった。
一瞬の静寂が球場を包む――。
打球は音もなく、そのまま右翼手のグラブに吸い込まれた。
一拍遅れて一塁側スタンドを中心に沸き上がる悲鳴にも似た大歓声。
まるで優勝でもしたかのように、マウンドに集まる相手選手たち――。
そんな光景を僕は不思議な気持ちで眺めていた。
ネクストバッターズサークルに膝をついたまま、焦点の合わない目をスコアボードに向けていた。
しばらく立ち上がることができなかった。
誰かに抱え上げられるようしてに立ち上がるまで、いまの状況を理解できていなかった。
高校最後の夏――。
結局、スコアボードに僕の名前が刻まれることはなかった。
神奈川県大会一回戦。
甲子園を目指した僕の夏は、あまりにもあっさりと終わりを告げた。
***
試合後の球場には相手校の校歌が流れていた。
三塁側ベンチ前に整列した僕らに涙はなかった。
センバツベスト4の強豪に勝つことを目標にしてきたチームが、格下校と見ていた学校に、しかも全校応援に近い観衆の中で負けた。
グラウンドで泣かなかったのは、僕らの精一杯のプライドだったのかもしれない。
ベンチ裏で最後のミーティングを終えても、僕には「終わった」という実感は湧いてくることはなかった。当然、悲しいという感情が湧きあがることもなかった。
「なによ、おまえら着替えねえの?」
球場の出入口につながる通路で着替えていた僕は、二年生の佐々木智を呼び止めた。
「はい。これから帰って練習するらしいんで」
佐々木は帽子を取り、背筋を延ばして直立していた。
「マジで? 暑いのに大変だな」
隣にいた酒井と顔を見合わせ、苦笑いした。
「じゃ、ちょっと頼みがあるんだけどよ」
僕は脱いだばかりの、とても試合後とは思えないほど綺麗なユニホームを佐々木に手渡した。
「これ着てってくんねーかな?」
「着るんですか?」
「ああ」
僕が頷くと、佐々木は笑顔になった。
「嬉しいです。本当は11番が欲しかったんです」
「ならよかった。ユニホームは部室に置いといてくれ。それからコレも一緒に頼むわ」
明日、取りにいくからよ――。
僕はグラブとスパイクの袋を一緒に渡した。
球場の外に出ると、そこには人だかりができていた。まるで全校集会なんじゃないかと思えるくらいだ。
OBの顔もチラホラ混じっているようだったが、僕が知っている顔はソコにはなかった。
「――お疲れ。ホケツ君」
声に振り返ると、佐藤麻衣子が立っていた。
茅ヶ崎湘洋高の生徒が多い中で、他校の制服を着た彼女の姿は場違いな感じさえする。しかしそんなことなどお構いなしという感じの彼女は、真っ直ぐに歩み寄ってくると僕の顔を覗き込んできた。
「何……だよ?」
思わず仰け反った。
「ふ~ん。泣いてないんだ?」
彼女はそう呟くと、興味をなくしたように僕から離れた。
そんな彼女の態度に僕は薄笑いを浮かべて首を傾げた。
「泣くわけねーだろ? これくらいのコトで」
「泣くもんなんじゃないの? フツウは」
麻衣子は不満そうにクチを尖らせた。
彼女にいわれるまでもなく、僕としてもふつうに「泣く」ものだと思っていた。負ければ自然に涙が出てくるモノだと思っていた。
しかし現実には涙は出なかった。たぶんそれは「泣くに値しない」結果だったからなんだろう。
ま、それはともかくとして……。
「つうか何でココにいんのよ? 学校はよ?」
「休んじゃった。面白いもの見れるかなあと思って」
彼女は悪戯っぽく微笑した。
「ふ~ん。まあ女子高じゃ野球なんて見ることもねぇもんな。で、ナニよ? 面白いモンて」
「ホケツくんのナミダ」
間髪を入れずにそういった彼女は、無邪気な瞳を僕に向けていた。
知り合って二年になるが、この女がなにを考えているのか、いまだにまったく理解ができない。
麻衣子とは一昨年の夏の終わりに知り合った。
肩まであるやや栗色の髪の毛と、小さい顔に黒目の大きな瞳……といった外見的な部分は出会った当時とさほど変わってない。
だが「大人しそうな娘」という第一印象の面影はいまとなっては微塵もなかった。
「あ、麻衣子ちゃん来てたんだ?」
振り返ると坂杉が歩み寄ってくるところだった。
僕の見せ場を奪った男……本当に最後まで頼りにならない主将だった。
「杉浦、出番なかったんだよね。なあ?」
坂杉はそういって僕の肩に手をかけてきた。
僕はその手を振り払い「テメエのせいだろが」と膝裏に蹴りをいれた。
そこにOB連中から解放された酒井たちも集まってきた。
いつの間にか僕らの周りはちょっとした人だかりになっていた。
そんな談笑している僕らに、怪しげな大人が近づいてきた。
腕章をしている……たぶん記者かなんかだろう。僕はこの手の人たちが嫌いだった。
「――杉浦君、いるかなあ?」
記者の言葉に僕らは顔を見合わせた。
「ちょっと話しが聞きたいん――」
「ここにはいないスよ」
いいかけた記者を遮ると、僕は人込みの中に目を向けた。
視線の先には、まだユニホーム姿の佐々木の姿があった。
「あそこです、あの11番が杉浦ですよ」
そういって僕のユニホームを羽織った影武者を指さした。
「あ、あっちか」
記者は佐々木を見て合点したように頷いた。そして「ありがとう」と言い残すと走り出していった。
それを確認した僕は麻衣子の腕を掴んだ。
「――走るぞ」
「え?」
僕は戸惑う彼女の腕を掴んだまま、記者とは反対方向に走り出した。
たどり着いたのは球場と隣接する公園の駐車場だった。
距離にすると百メートルくらいしか走っていないが……。
「ちょっと、何なのよっ?!」
立ち止まるのと同時に、麻衣子は不満そうに僕の手をふりほどいた。そして僕に対する非難の言葉を並べ立てた。
彼女にしてみれば「ワケもわからずにいきなり走らされた」という感じなんだろうが……細かい説明をするのもなんだか億劫だった。
こういうときは気が済むまで放っておく――。
それがこの二年間で学んだ彼女への対処法だ。つかず離れずでうまく切り抜けてきた僕なりの処世術だった。
「――ところで……電車?」
頃合いを見て切り出した。
しかし彼女の苦言はまだまだ途中だったようで、不意につぐんだ口を尖らせた。
「いや、ココまでどうやってきたのかと思って」
僕は彼女の不満にはあえて気づいていないふりで言葉を続けた。
「……電車以外に何があるのよ」
彼女は少しの間をおいてからじっと僕を見返してきた。
「そうか……でも、おれ、アレで来ちゃったんだよね」
僕は駐車場の端に停めたRZを指さした。
麻衣子が来る予定はなかったからメットはひとつしか持ってきてない。
「というわけで今日は送っていけ――」
「ええ。結構です」
彼女は嘘くさい笑顔で僕の言葉を遮ると、一転して無表情になって僕に背を向けた。
そしてコチラを振り返ることなく、駅に向かって歩き出してしまった。
マジかよ……。
どうやら彼女はすっかり機嫌を損ねてしまったらしい。
だからといって僕が送っていく義理など本来はない……はずなんだけど……。
僕は首を傾げた。
そして大きなため息を吐くと、RZを残して彼女の背中を追いかけた。