【007】 Distance
窓の外を流れる景色を見ていた。しかし僕の知っている風景はそこにはなかった。
大船で東海道線を降り、別の電車に乗り換えたところまではいい。しかし、そこから先は『?』だった。
自分がドコに向かっているのか判らない。ここがドコなのかもまったく見当がつかない。
僕の不安指数はいま、メーターを振り切りそうな勢いで上昇していた。
混み合う電車のなか、高橋先輩たちは手を繋いでいた。
さっきから何かの話に夢中になっているみたいだったが、ソコには参加していない僕は電車に撹拌されるように揺さぶられるうち、気が付いたら彼女たちから離れた位置になってしまった。
きっと彼女たちは僕の存在なんてとっくに忘れてしまっているのだろう。まあ、それはそれで構わないけど、迷子になるのはさすがにマズイので、置き去りされないよう彼女たちを凝視していた。
きっと周りの人たちからはヤバそうなヤツだと思われていたことだろう。
やがて、そんな僕の視線に高橋先輩が気付いた。
彼女は僕に向かって微笑むと、小さく手招きをした。
僕は頷き、少しカラダを捻ったりして近づこうとしてみた。しかしこの混雑具合ではちょっとムリそうだった。
その様子を見ていた彼女らは何かを囁きあっている。そして……顔を見合わせて笑い出した。
まったく気分の悪い話だ。
洋光台駅で電車からはき出され、ようやく混雑から解放された。
「ケッコウ混んでたわね?」
高橋先輩が呑気に呟いた。
「そうスね……で、ドコいくんスか」
僕は少し投げやりなカンジでいった。
「あれ……怒っちゃってるの?」
「いえ。別に怒ってないッスよ」
「ならよかった」
高橋先輩は、僕の答えになんか興味がないというカンジだった。
「気を悪くしないでくださいね」
後輩の娘が歩み寄ってきて小さな声で言った。
「亜希先輩って、ちょっとマイペースな人なんですよ」
フォローをするように呟くと微笑した。
「ちょっと、じゃないスけどね」
僕も合わせるように笑みを浮かべると、大きく息を吐いた。
連れてこられたのは『スポーツショップ』だった。
高橋先輩曰く「気が変わらないうちに、ユニホームを作ってもらう」ってことなんだそうだ。
僕の固い決意に彼女はまだ気付いていないらしい。
「ここの店長はね、ウチの監督の知り合いなのよ」
そういうと高橋先輩は店の中へと歩いていった。
「原田さん、こんにちは!」
高橋先輩が呼びかけると、カウンター内にいた頭の薄い男が顔を上げた。
「おお。高橋さんだったよね? 納村んとこの――」
二人が話し始めた隙に、僕は野球用品売り場へと向かった。
グローブはヒモを取り替えればいいとしても、スパイクはもうボロボロだったはず――。
僕はスパイクが陳列された棚の前に立ち、目に留まった一つを手にとり眺めた。
いままで履いていたスパイクと同じメーカーの新シリーズ。しかし……値札を見て、丁重に元の場所に戻した。
〈やっぱ、現実的な選択をすると……このへんだろうな〉
次ぎに僕が手にした一足は別のメーカーのスパイクだった。値段も最初に手にしたスパイクの半分くらいだし、この値段なら手が届くかな?
「――なんか怖いですね。それ」
気が付くと、後輩の娘が隣に立っていた。彼女の目はまっすぐに、僕が手にしたスパイクに向けられている。
「ああ、これ?」
僕がスパイクの『歯』を指で叩くと、彼女は頷いた。
「まあ、滑り止めみたいなもんスよ。フツウの靴じゃ滑っちゃうから。でもスライディングのときなんかは――」
「すらい……?」
彼女は首を傾げた。
どうやら野球をあまり知らないようだった。
「まあ、そんなに危ないモンでもないスよ。確かに金具だし、履き慣れない頃はよく自分の踝とか蹴っちゃって、血がダラダラ出たりしましたけどね……ほら、ココなんだけどさ」
僕は靴下を下げ、傷痕の残る踝を彼女に見せた。しかし――
彼女はドン引きしてしまった。
我ながら余計なことを言ったんだなと思う。初対面に近い女の子に話す内容には相応しくなかったかもしれない。しかも……傷痕なんて見たくもないわな。
その後、採寸をしてもらってからユニホームを注文し、スポーツショップをあとにした。
そのころには外はすっかり暗くなっていた。
大船駅で電車を降りると、高橋先輩が「じゃ、アタシたちはここで。キミはそっちだから」と言って東海道線の乗り口を指さした。
「今日はありがとうございました」僕はアタマを下げた。
「来週……待ってるね」
彼女は満足げに頷くと、僕に向かって手を振った。
僕はもう一度アタマを下げると、東海道線のホームに向かって歩き出した。
結局、後輩の娘は僕と目を合わそうとはしなかった。僕と高橋先輩がそんなやり取りをしてるあいだも、一度も僕の方を見ようとはしなかった……嫌われてしまったのかもしれないな。
***
「――ナニ書いてんの?」
幸子が僕の頭越しに覗き込んできた。
僕は彼女に視線を向けることなく「手紙。」と呟くと、レポート用紙の切れ端にペンを走らせた。
おそらく生まれて初めて書く、『母宛て』の手紙。
箇条書きにも似たこの短い手紙をみれば、母にも僕の思いが伝わるハズだ。
「……野球の道具一式、森谷家に送って。来週中に。なるべく早いウチに……て、これなに……?」
幸子は僕のシタタメた手紙の全文を声に出して読んだ。
「……うっせえな。手紙っつっただろ?」
僕は書きかけの手紙を、彼女の視界から遮るように手で隠した。
野球を再開することを決めた僕だったが、その前にやっておかなきゃならないことが幾つかあった。
その一つが野球の道具一式。
これは実家に置いたままだった。捨てられていなければ、だったが。
本当は取りに行った方が早いのだが、母と顔を合わせるのは今ひとつ気が乗らないのでコッチに送ってくれるように手紙を書くことにした。
「なんで? 取りに行けばいいじゃない」
「え……いいよ」
僕は彼女の申し出を間髪入れずに断った。イヤな予感がした。
「明日なら乗っけていってあげるよ?」
幸子は僕の断りを無視するように無邪気にそう言った。
僕と母が『冷戦状態』にあることを、彼女は知らないのだ。
「ああ、そうですか。でもいいです」
僕は丁重に、しかしハッキリと断った。
「クルマで行けばスグじゃない」
どうやら僕の話を聞く気がないらしい……まあいつものコトではあったが。
彼女はとても面倒見のよい人だ。
しかし相手の気持ちにまで気が回らないことがママある。正にいまがソレ。親切の押し売りというのはこういうコトなんだろう。
「いいって。手紙も書いちゃったしさ――」
言い終えるより早く彼女の手が僕の手紙をさらった。そして次の瞬間、僕は目を疑った。
――ビリ……ビリビリィィ
僕が書き上げたばかりの手紙を、彼女は真っ二つに切り裂いた――。
僕は言葉が出てこなかった。彼女は僕を見下ろし、不適な笑いを浮かべている……。
「明日、十時に出るから」
彼女はそう言って、破いた手紙を丸めて屑籠に放り投げた。
***
「幸子には迷惑かけるわね」
母は言った。
「そんなことないわよ」幸子は笑った。「また野球始める気になったみたいだし。ね?」
幸子は僕のアタマをポンポンと叩いた。
「どうだかねえ。いつまで続くか、わかりゃしないわ」
母は鼻で笑ったきり、顔を背けた。
約二ヶ月ぶりの再会だというのに、母は僕と目を合わそうとしなかった。
僕はあまりの居心地の悪さに立ち上がった。
「ドコ行くの?」
幸子の声が僕を追いかけてきた。
「オレの部屋」
僕は彼女の方を振り返らず、階段を一段飛ばしで駆け上った。とっとと用件を済ませて、実家から退散したかった。
部屋は閑散としていた。
勉強机やなんかは僕がいた頃そのままだったが、生活臭をまったく感じない。
僕はクローゼットを開くと、ダンボールの箱を二つ引っ張り出した。
ダンボール箱は、ガムテープでしっかりとふさがれている。僕はこの箱を閉じたときのことを思いだし、微かに息苦しさを覚えた。
もう開けることはないと誓って半ベソでガムテープで封をしたのに……ズイブン簡単に『誓い』を破ってしまったような気がする。まあ、僕らしいと言えば僕らしくて笑えるが。
「――何なの? ニヤニヤしちゃって」
視界の端っこに、腕を組んで僕を見下ろす幸子の姿が映った。
「ふ~ん。意外と片付いてるじゃん」
「なんで入ってくんだよ。一階に行ってろよ」
彼女は僕の言葉を完全に無視して部屋を横切ると、勉強机のイスをひいて腰を下ろした。
「まったく。素直じゃないなあ」
僕を見据えて呟いた。「アンタも佳子叔母さんも、ね」
幸子は僕をじっと見つめていた。その口許にはうっすらと笑みが覗いている。
「うるせえ……。ナニも知らねえクセに……」
僕は彼女に背を向けた。すると「ナニも知らないから言ってるのよ」と耳元で囁いたかと思うと、僕の坊主頭を鷲掴みしてきた。
「――!!!」
僕はボクサーのように頭を小刻みに振ってソレから逃れようとしたが、彼女の手には吸盤がついてるんじゃないかと思えるほど、僕のアタマに張り付いて離れなかった。
しばらくして……僕は諦めた。
幸子が悪のりしたときのしつこさを僕は誰よりも判っていた。
僕は無抵抗になることを選択した。抵抗してムダに体力を消耗するよりもガンジーになることを選んだ――。
***
「じゃ、叔母さんまたね。今度ウチの方にも遊びに来てよね」
幸子が母に向かって言った。
僕はトランクにダンボール箱を二つ詰めると、さっさと助手席に乗り込み、目を伏せていた。
――コンコンコンコンッ
忙しげに窓を叩く音に顔を上げる――ソコにはイラだった表情で僕を睨む幸子の顔があった。
仕方なくドアを開け、母の前に立った。
僕の言葉を促すように、幸子が背中を押す。
「あ~、なんだ……。あ~、取りあえず……父さんによろしく」
ぶっきらぼうに呟いた。
すると母が僕の鼻先にナニかを突き出してきた。手にしていたのは白い封筒だった。
僕は無言でソレを受け取った。
そして中を覗いてみる……僕は驚いて顔を上げた。
「お父さんからだから」母は他人事のように呟いた。
封筒の中には一万円札が数枚と診察券が入っていた。診察券は僕が通院していた川崎市内のクリニックのものだった。
「あのスパイクはもう履けないだろうって。一緒に買いに行ってやれないから……それで自分で買いなさい」
囁くような小さな声でそう言った母は、最後まで僕と目を合わそうとはしなかった。