【005】 Suspended Game
時計は九時を十分程まわったところを指している。
「遅えなあ……」
僕は壁に寄りかかったまま呟いた。
待ち合わせは九時だったはずだ……だけどまだ誰も来ていない。
〈もしかして……〉
さりげなくあたりを窺った。
どこかで僕の様子を見て笑っているんじゃないかと思ったのだが、見る限りではそれらしき人はいないようだ。
〈あと十分ぐらい待って誰も来なかったら帰ろう――〉
「あ! いたいた。杉浦くん!!」
不意に聞こえてきた声に振り返ると、高橋先輩がこちらに向かって早足で歩いてくるところだった。
「まったく。こんなところにいたのね。キミは」
息を弾ませてやってきた彼女は、僕を見上げて呆れたように呟いた。
「ちゃんと時間通りに来てましたよ」
ポケットに手を突っ込んだまま、僕は唇をとがらせた。
「小田急線っていったでしょ? ココ……江ノ電でしょ?」
彼女は『江ノ電』の看板を指さし、ため息を吐いた。
どうやら僕が待ち合わせ場所を間違えていたみたいだった。
「……わかってくれたみたいね。じゃ、行きましょうか」
そう言うと、先に立って歩き出した。
彼女のあとについて歩きながら、ふと違和感を覚えた。
「あれ……他の皆さんは?」
彼女に尋ねた。
「行っちゃったわ。一本前の電車でね」
彼女は勝ち誇ったような笑みを浮かべると「高くつくわよ」とひとこと言っただけで、僕を責めることはなかった。
小田急の善行駅を下りてすぐ、今日の試合会場は私立高校のグラウンドだった。
「杉浦くんはベンチに入れないから、あの辺りで見ててね」
高橋先輩が指さした先は道路だった。
すり鉢状のグラウンドを見下ろす外周道路。たしかにあそこからなら全体が見渡せそうだ。
「じゃ、また後で。勝手に帰っちゃダメだからね」
彼女は僕に向かって念押しすると、ベンチへと向かった。
秋の県大会一回戦。
地元の人間じゃない僕にとっては、まったく馴染みのない県立高校同士の対戦。
大して期待もせずに眺めていたのだが……なかなか見応えのある試合だった。
茅ヶ崎湘洋高校は俊夫が言っていたように強くはなさそうだ。
しかし粘り強く、ピンチでは好プレーが出て最小失点に抑えている。
打線も非力だった。
僕が今まで見てたどのチームよりも非力なんだと思うが、なかなかシブトい。長打はないが三振も少ない。
塁に出ても盗塁を仕掛けることはないが、常に先の塁を狙う姿勢だけは見せている。
どこかで見たことのあるような泥臭いチーム……いつしか僕は真剣に試合に見入っていた。
結局この試合、茅ヶ崎湘洋高校は三対一で勝利した。
***
試合後、帰ろうとした僕を高橋先輩が引き留めた。
僕は彼女に連れられ、善行駅から二つ先の駅へ向かった。行き先は駅から歩いてすぐのファミレス。彼女の後輩がココでバイトしているらしい。
窓側の席につくと、彼女はアイスコーヒーを、僕は冷たい緑茶を注文した。
「どうだった?」
店員が立ち去るのを待っていたかのように、高橋先輩は試合の感想を求めてきた。僕は試合を見た印象をへんな脚色をすることなくそのまま話した。
「ふ~ん。泥臭いねぇ……それってヘタってこと?」
彼女は怪訝そうな眼を僕に向けたが、大きく被りを振って僕はソレを否定した。
店員がテーブルにコーヒーと緑茶を運んできた。
喉の渇きを感じていた僕はグラスに口を付け、氷を一つ頬張った。
「で……どう? やってみる気になった?」
そう切り出した彼女の表情はどこか自信ありげだった。
「……もうちょっと、時間が欲しいんですけど」
僕の答えが意外なものだったらしく、彼女は少し驚いたような顔をした。
「あ、一応前向きには考えてますよ。でも……」
「でも、なに?」
彼女はそう言って身を乗り出してきた。
「少しだけ抵抗があります。気持ちの整理がつかないっていうか……ホントに少しだけなんですけど」
野球をやりたいという気持ちは今でも持っている。しかし明桜学園での躓きは僕を少しだけ臆病にさせていた。
「僕は甲子園で優勝することを目標に明桜学園に入りました。 本気で目指してました……多分、誰にも負けないくらいに。 だけどいろいろあって向こうの学校を辞めることになったとき、僕にとっての野球はココで終わったんだなって思いました。 甲子園で活躍して、プロに入って……そんな夢が全部閉ざされたような気がしたんです――」
「目標がなくなって、これ以上続けることの意味がわからなくなって……そして僕は終わりにすることを決めました。 イキオイで決めたワケじゃないです。僕なりにずっと悩んで、悩んで、悩み抜いて……それで出した結論です。 なのにそれを簡単に撤回しちゃっていいのかと……ホントに少しだけですけど抵抗があります」
僕は一気に捲し立てるように喋った。
高橋先輩はしばらく黙り込んでいた。何か考え事をしているようだった。
そんな彼女の表情を見ながら、僕は少し混乱していた。
このあいだ石黒を罵倒していた彼女といま目の前にいる彼女。どうしても同じヒトには思えなかった。
「――まだドコか痛いの?」
彼女は窺うように言った。
「いえ。トクには……」
強いてあげるならば『心』だけかな。
「投げられるんでしょ?」
「はあ。まあ、一応は」
医者には止められているけど、投げることはできるんじゃないかと思う。
「野球、好きなんでしょ?」
「はあ。まあ、そうスね」
嫌いだったらそもそも悩んでなんかいない。
「じゃ、問題ないんじゃない?」
彼女は不思議そうな眼で僕を見た。
僕の話を聞いていなかったんじゃないかと思うほど、彼女は『僕の苦悩』をあっさりとしたその一言で片づけた。
「きっと……サスペンデッドゲームみたいなものなんじゃないの?」
不意に彼女が小さな声で言った。
「サスペンデッド……?」
「そう。タマにあるじゃない。雨が降ったり、陽が暮れたりして試合が中断しちゃうこと」
まあ聞いたことがないわけじゃないが……僕には経験がない。
「再試合ってことスか?」
「違うわよ。あくまで中断なんだから、次の日にはまた途中から試合は始まるの。それまでの経過はムダにはならないわよ」
彼女は笑みを浮かべて僕を見据えると小さく頷いた。
「キミの試合はまだ終わってないの。いまは試合再開までの準備期間。キミが放棄さえしなければ試合は再開するのよ……いつか必ず、ね」
高橋先輩はそう言って、もう一度頷いた。
僕は彼女の視線をそっとかわすと、緑茶のグラスに手を伸ばし、一息に飲み干した。
「再開……できんのかな……」
僕は大きく息を吐いた。
「きっとできるわよ。雨が上がるか、陽が昇るか、また目標が見つかるのか……どれが先なのか判らないけど、時間はまだまだたくさんあるから」
そう呟いた彼女は柔らかい笑みを浮かべていた。その表情は、何とも言えない安心感を僕に与えてくれていた。
「――あ、終わった?」
突然、高橋先輩が僕の後ろに向かってそう言った。
振り返ると、そこには女の子が立っていた。
肩ぐらいまでの長さのやや栗色の髪の毛と黒目がちな瞳。全体的に華奢な感じ……大人しそうな娘だ。
僕と目が合うと一瞬、驚いたように息を呑んだのがわかった……ま、こんな髪の色にしちゃってるから仕方がない。同じリアクションをする人をいままで何人も見てきた。
「あ……この娘、佐藤麻衣子ちゃん。アタシの中学の後輩。で、コッチは杉浦優くん。この間ウチに転校してきたの」
突然、高橋先輩が僕らを紹介した。
「あ、コンニチワ……杉浦ス」「……佐藤です」
僕らはお互いにそんなガチガチな挨拶を交わした。
「じゃ、帰るわよ――」
高橋先輩は伝票を摘み上げると、僕らに向かって意味ありげに口許を歪めた。
***
結局、僕は高橋先輩にご馳走になってしまった。
一応払う意思は見せたのだが頑なに拒否された。
こっちにきてから、まだバイト先すら決まっていない僕としてはありがたかったのだけど。
「次は来週の土曜日。『櫻陰』と当たるわよ」
高橋先輩は別れ際にそう呟いた。
櫻陰高校――。
その名前はよく知っている。以前は毎年のように好投手を輩出していた強豪校だ。最近はパッとした成績を残していないようだったが、それでもニ年くらい前にも甲子園に出ているはずだった。
「絶対に勝つわよ」
高橋先輩がそう言って拳を握りしめると、後輩の娘が一瞬微笑んだように見えた。