【003】 Never mind……me.
従姉の幸子が帰ってきたのは、僕が晩メシを食べている最中だった。
少し酒の匂いを漂わせて帰ってきた彼女に対し、僕は心持ち背を向けた。
こういうときの彼女は粗暴さが平常時の10%増しになっていることが多い。関わらない方が身の為――
そんな僕の気持ちとは裏腹に、上機嫌の幸子は僕の隣に腰を下ろした。
「新しい学校は慣れた?」
幸子は食事中の僕の顔を覗き込んでそう言った。
まだ学校には二回しか行っていないのに慣れるもナニもないだろとは思ったが、それでは角が立つ。「……まあまあ、かな」
「まあまあってなによ?」
遠慮気味に応えた僕の言葉に、彼女はあからさまに嫌な顔をした。そして「男のクセに、そういうハッキリしない返事はよくないわ」と続けた。
女ならいいのかよ? という反論はあったが、それは僕の心の中だけに留めておくことにした。
小学生の頃には年に数回訪れていたこの森谷家。
当時の僕はココに来ることを楽しみにしていた。爺ちゃん婆ちゃんは無条件に僕に甘かったし、伯父さんはいっつも小遣いをくれる。そして幸子姉ちゃん……。
この女も昔は優しかった。僕の嫁にしてやってもいいかな、と思ってたくらいに可愛かった。ところが久々に会った幸子は僕の知ってる姉ちゃんではなくなっていた……記憶って本当に残酷だ。
「まだメシ食ってるんだからアッチいけよ」
僕は完全に彼女に背を向け、イスに座り直した。
すると彼女は立ち上がり、僕のカニクリームコロッケを素早く摘み上げると、そのまま自分の口に放り込んだ。
「え。」
呆気にとられる僕を見下ろした幸子は、満足そうな笑みを浮かべて口をモグモグしている。
「うそだろ……? ナニすんだよ……」
最後に食おうと、取っておいたのに……。
「早く食べないからこういうことになっちゃうのよ。この家でアタシが鍛えてあげるわ」
幸子は全く悪びれず、逆に僕を諭すようにそう言った。
***
翌日。
休み時間のたびに、僕は机に伏せたまま目を閉じていた。
べつに眠かったワケではない。ただナニモすることがなかった。
顔を上げて誰かと目を合わすのも、話しかけられることでさえ億劫だった。
サカスギとサカイの二人はあれから姿を見せていない。まあ……当然だろうな。
彼らにも悪気があったワケじゃないということは僕も理解している。でも僕には僕の理由がある。触れられたくないキズもあるのだ。
「――こんにちは」
不意に頭上から聞こえてきた声に顔を上げると、そこに立っていたのはキレイな女の人だった。
僕は周囲を見渡してから無言で自分を指さした。彼女は小さく頷き、「キミに用があるのよ」といった。
彼女は「高橋亜希子」と名乗った。二年生だという……つまり僕の一年上だ。
僕は上目遣いに彼女を見た。
すると彼女は得体の知れない笑みを浮かべたまま、僕の目をじっと見返してきた。
「……なんスか?」
僕は根負けして呟いた。
彼女はまったく目を逸らすこともなく、静かに「キミをスカウトしにきました」と言った。
「は?」
僕は彼女の言ってる意味がすぐには理解できなかった。
野球部のマネージャーだという『高橋先輩』は、休み時間になるたびに僕のところにやってきた。
彼女は「僕をスカウトしにきた」とはいったが、不思議になるくらい野球の話はしなかった。だが「どうしてこの学校に来たのか」と言うことを遠回しに何度も聞いてきた。その度に僕は理由とは言えないような理由を、繰り返し彼女に聞かせた。
「お昼、一緒に食べない?」
昼休みにも、彼女はやっぱりやってきた。
もうメシを食い終わっていた僕はやんわりと断った。しかし彼女はそんなことお構いなしで、僕の腕を掴むと校舎に挟まれた中庭に連れだした。
「学校には、もう慣れた?」
中庭にあるベンチに隣り合って座ると、彼女は弁当を広げながらそう言った。
僕は昨日、幸子に言われたときと同じように、まだ慣れるもナニモねえだろと思いながらも「まあまあです」と応えた。
「そう。それはよかった」
彼女は笑みを浮かべ、小さく二度頷いた。
「野球、もうやらないの?」
彼女は視線を落としたまま、何の前触れもなく呟いた。
「やりません」
僕ははっきりと答えた。ほとんど条件反射のように。
「ふ~ん。もったいないなあ、才能があるのに」
一瞬の間をおいてそう言った彼女は、本当に残念がっているようにも見えた。
「――ナニがわかるんスか?」
僕はきつい視線を彼女に送り、できるだけ静かな口調で言った。
「知ってるわよ。キミのことならイロイロと」
彼女は平然と呟いた。
もったいない――似たような台詞を、僕はここ数ヶ月で何度も聞かされていた。
そのたびに僕は苛立ち、怒りを露わにしてきた。しかし怒りが過ぎ去ったあとには虚しさしか残らないということも、僕はこれまでの経験から知っていた。それでも僕はさっきよりも強い視線を彼女に向けていた。
しかし彼女は寧ろソレを愉しむかのように僕の目を見返してきた。
結局すべてを見透かしたような彼女の視線に負けて僕は目を逸らし、そのまま口を噤んだ。
高橋先輩に解放され、教室に戻ると女子数人が駆け寄ってきた。
「ねえ、高橋先輩となに話してたの?」
彼女たちの嬉々とした表情から、この学校での高橋先輩の立ち位置が窺い知れた。
「いや、別に……何も」
僕の返事に最初に問いかけてきた女子は不満そうだった。
しかし、ココで報告しなきゃいけないような話は本当に何一つしていない。
「でも休み時間の度にきてるじゃない」
今度は別の女子が口を挟んできたが、僕は黙ったまま曖昧に首を傾げた。
翌日もそのまた翌日も、高橋先輩は休み時間のたびに僕のところにやってきた。
そして非生産的な会話を繰り返した。
そんなことを何度か繰り返すウチ、彼女が垣間見せる表情に「どこかで会ったことがある」ような錯覚を起こしていた。しかし、それはあくまで錯覚だということに僕は気付いていた。
仮に以前どこかで会っていたとしたら、僕は彼女のことを絶対に忘れていないだろうという妙な自信もあったし。
少なくとも今の僕には、数日前とは明らかに違う心境の変化が訪れていた。
***
――ふぅ。
僕は大きく一息吐くと、ガレージの床に腰を下ろし、胡座をかいた。
三時間かけて磨き込まれた目の前のRZは輝きを取り戻していた。
つい一週間ほどまえに僕がここで『発掘』した埃だらけのRZは、見違えたように艶やかだった。まさに『生まれ変わった』のだ。
――♪~
僕は新しいウエスに手を伸ばすと、軽やかに最後の仕上げに取りかかった。
「なんかあったの?」
声に振り返ると、幸子が立っていた。
「あ? べつに」
僕はRZの前にしゃがみこんだまま、上目遣いで呟いた。
彼女は腰に手を当てたまま、怪訝そうな目で僕を観察するように見ていたが、やがてそれはナニかを含んだ笑いに変わっていった。
「なんだよぉ……」
僕は幸子を睨みつけた。
「……なるほど、ね。 そういうことか」
彼女は合点がいったようにそう呟くと、意味ありげな笑みを浮かべたまま右手で僕のアタマを掻きむしった。