【002】 Golden Rookie
赤信号がやけに長く感じる。
フルフェイスの薄いスモークシールドを上げると、僕は朝の陽射しに目を細めながら空を見上げた。
雲ひとつない空には鳶が舞っている……いや。カラスだな、あれは。
それにしても長すぎる……信号はまだ変わらない。
僕は苛立ちを抑え、アクセルを軽く吹かした。
RZはアイドリングが安定していなかった。
一昨日までガレージの奥に眠っていたRZ。
従姉の幸子が乗らなくなってから、軽く一年以上は経っているはずだった。
やがて交差する信号が赤に変わった。
正面の信号が青になるのを待たず、僕はRZをスルスルと国道に滑り込ませた――。
早朝の国道134号線は走るクルマも疎らで、行き交う人も少ない。
僕の右手に広がる海ではサーファーたちが波間を漂っているのが見える。きっと彼らもいつやってくるとも知れない『大きな波』でも待っているのだろう。
目的もなく家を出た僕だったが、なんとなく走っているうち、気が付くとココまでやってきていた。
僕は『駅入口』の信号を過ぎたところでバイクをUターンさせ、そのまま路肩に寄せるとエンジンを切った。
〈ココに来たのはいつ以来だろう……?〉
バイクに跨ったままフルフェイスを脱ぎ、思いを巡らせた。
堤防があって、狭い砂浜があって、そして人気がないのもあのときと同じ。
ただ今の僕には波打ち際まで歩いて行こうという気はさらさらないし、行ったところで叫ぶ言葉もナニもない。
あのとき波打ち際で、僕はナニを叫んだんだろう?
堤防に寝ころんで見ていた夢はなんだったんだろう?
僕が被っていたオークランドアスレチックスの帽子……そういえばあの娘は元気にしてるのだろうか?
そんな取り留めのないことばかりがアタマに浮かんでは消えていた。
新しく始まるコッチでの生活に対する漠然とした不安もあった。
それに明日からは新学期が始まる……そうだ、転校したんだっけな……。
僕は海を眺めていた。
サーファーたちは相変わらず波を待っているようだった。
国道から見下ろした海は穏やかで、彼らには悪いが、もう大波はやってこないような気がして――
不意に視界が歪んだ。
僕はタンクの上に置いたヘルメットを抱きかかえるようにして顔を伏せた。
強がりも限界だった。あふれだした涙がとまらなかった。
〈悔しい……〉
思い描いていた夢……僕はこの時はじめて、それが終わってしまったことの意味を知った。
***
空気が非常に重い――。
こんなとき気の利いた冗談が言えたらいいんだろうけど、あいにく僕はそんな要領のよさを持ち合わせていない。
それにしても……いつまでこのにらみ合いが続くのだろう?
正面に座った教頭と学年主任はともかく、その横に突っ立っている担任の原。
彼の視線は僕のアタマに向けられたままだった。
「まったく転校早々問題を起こしやがって……」
学年主任の杉山が苦々しげに口を開いた。
僕は黙ったまま、まだ鈍い痛みの残る右拳を左手で強く握りしめた。
僕としては被害者でもあると思っていたからどうしても解せない部分もあった。
気を付けるもナニも、絡まれてしまったのでは避けようもないんじゃないか?
それに……からんできたのはココの三年生だ。あんなのを野放しにしてきた先生こそ、僕に謝るべきなんじゃないの? 真剣にそう思ったが、口にはしなかった。
卒業まで静かに過ごしたい……いまの僕が心から願っているのはそんなことだった。
「とにかく。今回は相手も相手だから不問とするが、気を付けるように。いいな」
教頭は途中、何度もため息を吐きながら諭すよう言った。
「はあ……すいませんでした」
とりあえず、心のこもらない謝罪の言葉を吐いて頭を下げた。
***
「――ねえ聞いた?!」
そういって高橋亜希子が野球部の部室に飛び込んだとき、部員の大半はユニホームに着替えている最中だった。
彼女は部室内の臭いに一瞬顔をしかめたが、半裸の男たちのことなど眼中に無いようだった。
「お前よお。着がえてんときには入ってくんなって言ってんべ」
主将の石黒が睨んだ。
「ドア開けっ放しでなにいってんのよ。あんたが恥ずかしがってても気持ちが悪いだけよ!」
彼女はそう言うとロージンの入った箱を蹴り上げた。
――うわっ! ちょっ! ゲホッ、ゲホッ、ゲホ……
「……あの人怖えーよな……」
一年生の坂杉正史は同じ一年の酒井浩平に声をひそめて言った。
彼らは先輩たちの断末魔の声を聞きながら、決して彼女には近づくまいとあらためて思った。
茅ヶ崎湘洋高校野球部マネージャーの高橋亜希子。
同校きっての強面で知られる石黒に対し、真っ正面から啖呵を切れる人間は彼女以外には見当たらない。
校内屈指ともいわれる美人でありながら、気の強さでも校内屈指なのは間違いなかった。
成績も優秀な彼女がなぜ、家からも遠いこの学校を選んだのかは未だ謎のままだ。
「そんなことより、転校生の話、聞いた?」
彼女は、咽せ返っている部員たちに気を留めることなく言った。
「あ? ああ金髪の転校生のことか? 橋本たちをシメちまったっていう――」
石黒が答えると、彼女は頷いた。
「そのコ、明桜の野球部だったらしいのよ」
「明桜って……東京のか?」
「そっ。あの明桜よ。あそこの野球部は特待しか入れないって話だし、期待できるんじゃない?」
「期待? 何の期待だよ。問題の間違いじゃねえのか」
石黒は苦笑いを浮かべた。
「絶対ウチにはいってもらうわ」
亜希子は石黒の言葉も耳に入らないようで、興奮気味に上擦ったような声を出した。
***
「アイツだな」
坂杉と酒井は一年C組を覗いた。
教室の真ん中の列の一番うしろ。
昨日、転校早々三年生を相手に茅ヶ崎駅前で暴れたって言う男。金髪がひときわ目をひく。
昨日、坂杉正史・酒井浩平の二人はマネージャーの高橋亜希子に呼び出され、その場で『スカウト』に任命された。正確には明桜からの転校生を野球部にさせることを厳命されたのだ。
「で、どうするよ?」
「どうするって、マズは自己紹介しかねえべ?」
坂杉と酒井はどっちが先に声を掛けるかジャンケンで決めることにした。
「よおし、行くべ!」
ジャンケンに負けた坂杉が先陣をきった。
「――よ!」
坂杉は教室に入るなり、手を挙げて声を掛けた。
しかし転校生は坂杉に目を向けることすらしなかった。
坂杉は転校生の正面の席に腰掛けた。
「オレ、坂杉。でコイツが酒井。キミ、転校生だよね? え~と、名前はなんだっけ?」
「……スギウラ」
転校生は机の上に視線を落としたまま、独り言のように呟いた。
「スギウラ、くんね……。え~と、何見てんの?」
彼は無言のまま、広げていた雑誌の表紙を坂杉に見せた。
「おお、今週号? オレ、まだ読んでなかったん――」
杉浦は雑誌を閉じると、突然立ち上がった。
「――やるよ。読み終わったから」
杉浦は机の上に雑誌を放り投げると、呆気にとられる坂杉たちを残して教室を出て行ってしまった。
「……作戦の立て直しだな」
酒井は呆然としている坂杉の肩を叩いた。
***
坂杉と酒井が再び杉浦の教室を訪れたのは放課後になってからだった。
「杉浦あ、一緒に帰ろうぜ!」
酒井の声に杉浦は一瞬振り向いたが、何事もなかったかのように歩き出した。酒井たちは顔を見合わせ、溜息を吐くと杉浦のあとを追いかけた。
「んで、杉浦ってドコに住んでんのよ?」
酒井が後ろから話しかけた。
杉浦は振り返り、怪訝そうな目で酒井たちを一瞥すると「大庭」と短く答えた。
「大庭って……ライフタウン?」
杉浦は小さく首を傾げてから曖昧に頷いた。後ろを振り返ることはなかった。
「え~と……電車で来てるんだっけ?」
「原チャリ」
杉浦は即答だった。
この学校ではバイク通学は禁止されていた。
きっと転校生の杉浦はそんなことは知らないのだろうと坂杉は思った。
昇降口をでてグラウンドの横に差しかかったとき、それまでスタスタと歩いていた杉浦が歩くスピードを緩めたのが判った。
杉浦の視線の先では、野球部が練習の準備を始めているところだった。
「やっぱり興味あるんだ?」
坂杉はチャンスとばかりに駆け寄った。
「べつに……ねえよ」
杉浦は醒めた目で坂杉を見ると、再び前を見据えてペースを速めた。
「――痛っ!」
坂杉は尻を押さえた。酒井が蹴り上げたのだ。
「ったく、余計なことすんなよ!」
酒井は坂杉を睨みつけると、小走りで杉浦を追いかけた。
酒井はハラを決めていた。
〈もう、ストレートにお願いするしかねえな〉
「なあ、野球やんべ?」
酒井の声に杉浦は立ち止まり振り返った。
「俺ら野球部なんだけどさ、ぜひ入ってくんないかなと思って」
「――やらない。」
それだけ言うと大股で歩き出した。
相変わらず静かな声だったが、これまでとは違う強い意志を感じさせる声だった。
「なんで? やんべよ。なあ?」
酒井は意地になって食い下がった。「な?」
杉浦は立ち止まり、酒井へ視線を向けた。
「それで、話しかけてきたのか?」
酒井は杉浦の視線を逸らすことができなかった。杉浦に気圧されていた。
やがて杉浦は興味をなくしたように目を逸らした。
「やっぱ、そういうことかよ……」
小さな声で言った。
「オトモダチができたのかと勘違いしちまったよ。んなわけねーよな」
彼は憂いを帯びた表情を浮かべたまま、一度も後ろを振り返ることなく歩き出した。
坂杉と酒井はその後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかった。
***
「ええ?! それで引き下がってきたの?!」
高橋亜希子は呆れたように言い放った。
「スミマセン……」
呼び出された坂杉と酒井は黙ったまま、深く頭を垂れていた。
「で……なんかわかったの? 辞めた理由とか」
苛立ちのこもった亜希子の声に、坂杉は知っている全ての情報を話した。
部室の中央のイスに座った亜希子は苛立ちを抑えるように、手にしたノックバットで地面をコンコンと叩いていた。 その度に彼らは首をすくめていた。
「――だいたい判ったわ。 それにしても……ホントに使えないわね。予想はしてたけど」
アンタたちに任せたアタシが悪かったわ――。
亜希子は大きくため息を吐いた。
「そんなことは――、いえ……すいません」
酒井は何かを言いかけたが、亜希子に睨まれると口を噤んだ。
彼女はもう一度大きくため息を吐いた。
「いいわ。アタシがやるわ――」
彼女は立ち上がると、握った拳にチカラを込めた。