【011】 疼痛
僕はスチール製のベンチに腰を下ろし、話を続けていた。
隣に座る麻衣子は、昨夜と同じように聞き役に徹していた。
ちょっとした自慢も含まれた僕の話に、彼女は茶化すこともなく耳を傾けている。それは僕にとっては意外なことでもあった。
「――以上。終わり」
僕は彼女を横目に見ながら話を切った。
「……え?」
彼女は顔を上げ、「まだ途中でしょ?」と言った。
「だって、お前アクビしてたじゃねえかよ。失礼な奴っちゃなあ」
僕は醒めた表情をつくり麻衣子を一瞥したが、彼女は頑として『アクビ』を認めようとしなかった。
「でもホントにおしまい。これ以上はなんもないよ」
僕がそう言うと、彼女は不満げな表情を浮かべた。
麻衣子が僕の昔話にいったい何を期待しているのか……僕にはまったく判らなかった。
時計に目をやると三時を回ったところだった。
陽射しはまだまだ弱まる感じはない。
僕は喉の渇きを覚え、烏龍茶の缶に口を付けた……しかしもうカラだった。
「飲む?」
麻衣子が自分の午後ティーを掲げたが、僕は静かに首を振った。
中学時代の仲間とは、今ではほとんど会うことはない。
会わない理由なんて特別ないようなものなんだけど、あの頃の夢を追い続けていられる奴らと会うことで、今の自分を再確認してしまうことが怖かったのかもしれない。
最近では当時のことを思い出すことも少なくなった。まあ、なるべく考えないようにしてるというのもあるのだが。
誇らしい思い出のはずなのに、今となっては思い出すのも煩わしい存在になりつつあるのも事実。
ただ、麻衣子に聞かせた昔話は僕が心の奥にしまい込んでいた『何か』を確実に揺り動かしていた。
「――そのヤマジさんって人はどっかでコーチとか続けてるの?」
麻衣子の声に僕は顔を上げた。
「え……どうかした……?」
麻衣子はやや仰け反りながら不思議そうな目で僕を見た。
「……いや、なんでもない。いつか話してやるよ」
僕はベンチに凭れ、空を仰いだ。
山路洋一。
中学時代の僕のコーチ。有名な人だったらしいが、僕にとっては「野球に詳しい」ただのオジサンだった。
彼と最後に会ったのは僕が中学一年のとき、二月の節分が過ぎてすぐの寒い雨の日だった。
その日、彼の奥さんから受け取った青い表紙のノート……そういえば、最近は開いていない。机の奥にしまい込んだままだった。
「ねえ。また怒ってるの?」
彼女は不安げに僕を見つめていた。
「何で?」
「なんか……黙り込んでるから」
麻衣子はそう言って視線を落とした。
「ああ……悪い、考え事してただけ」
僕は自嘲気味に笑みが込みあげてくるのを抑えきれなかった。
やっぱり『この場所』はいまの僕にはまだ居心地が悪い。良くも悪くも思い出が多すぎる。
胸を張って帰って来られるようになるにはもう少し時間が掛かりそうだった。
「さて――」
僕は立ち上がり、大きくノビをした。
「そろそろ行くべ。晩飯には早いけど、築地でネギトロ丼でも食おうぜ」
「ネギトロ、ドン……て何?」
「ゴハンの上にねぎとろが乗ってるヤツ。食えばわかるよ」
僕は首を傾げる彼女を促し、公園の入口へと歩き出した。
「げ――!」
僕のRZは公園の入口を塞ぐように倒れていた。
「嘘だろ?!」
猛ダッシュで駆け寄ると、バイクを起こし見回した。
マフラーとステップにはキズが入ってしまっていたが、タンクは無事のようで少しだけ安心した。
「風……かな?」
麻衣子は僕の顔色を見ながら言った。
「あんな風ぐらいじゃ倒れねえよ……。誰かが倒していったんだろ」
僕は深いため息を吐いた。
「災難だったね」
麻衣子は苦笑いを滲ませ、僕の肩に手を乗せた。
***
築地は混み合っていた。
僕はうどん屋の前の路上に停まると、ガードレールにバイクを寄せ、エンジンを切った。
「こんなところに停めちゃって平気なの? また倒されちゃうんじゃない?」
「ヘーキだべ? こんだけ人がいるんだからよ」
麻衣子は心配そうに言ったが、僕は周囲に視線を這わせ、そう答えた。
「ゼッタイ迷子にはなるなよ」
人込みを目の前にして、僕は子供に言いきかせるように言った。
麻衣子はムッとした表情を浮かべたが、僕の言葉には何も答えず、じっと僕を見たまま黙って手を差しだしてきた。
「……」
暫く睨み合いは続いた。
だが結局根負けした僕は仕方なく彼女の手首を掴み、人込みの中を歩き出した。
やがてカウンターがあるだけの粗末な店が目の前に現れた。
カウンター中央の丸イスを引いて腰を下ろすと、隣に麻衣子を座らせた。
「ネギトロ丼でいいべ?」
彼女が頷いたのを確認すると、僕は見覚えのあるオヤジに向かい、ネギトロ丼を二つ注文した。
程なく僕らの前に現れたネギトロ丼は以前と何も変わっていなかった。
「じゃ、いただきます」「いただきます」
口に含んだネギトロはほろっと融けるようだった。
「どうよ? うまいべ」
「うん。おいしい」
だろ?
僕は少し誇らしい気持ちになってお茶を啜った。
***
麻衣子を家まで送った帰り道、稲村ヶ崎駅前の踏切でつかまった僕は意外な人に出会った。
高橋先輩だった。
改札を出てきた彼女は僕のバイクに気づき、手を振って近づいてきた。
僕はバイクを端に寄せ、ヘルメットを脱いだ。
「いま帰りスか?」
「そうよ。キミも……帰るところ、ね?」
高橋先輩は口元を弛めた。
彼女の家は麻衣子の家の少し先にあったのでもっと会う機会があってもよさそうなものだったが、ほとんど見かけることもなかった。 こんなところで偶然会うのはもちろん初めてだった。
「それにしてもびっくりしたわよ。キミの球、本当に速いんだもん」
高橋先輩は、呆れたような声で言った。
「いえ……そうでもないスよ」
僕は顔の前で軽く手を振った。
「あのピッチングが公式戦で見られなかったのは本当に残念だわ」
そう言った彼女の顔は本当に悔しそうな感じで、僕は苦笑いするしかなかった。
彼女は負けず嫌いな人だった。そのことを僕はよく知っていた。
野球部のマネージャーだった彼女は、転校してきた頃、毎日のように僕を勧誘にきていた。
当時は鬱陶しいと思うこともあったが、いまでは本当に彼女には感謝している。
しつこく誘ってくれたお陰で今があるわけだし。
「これでも先輩には感謝してるんスよ。 ホントに」
高橋先輩は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがて笑みを浮かべて僕の胸を軽く小突いた。