【010】 海風の記憶
新橋から乗った東海道線は、間もなく大船駅に到着するころだった。
車内は思っていたより空いていたため、僕らは運良く座ることができた。
下りの電車に揺られながら、僕は隣に座る麻衣子に「中学時代のこと」を掻い摘んで話した。
彼女はといえば、その間ずっと聞き役に徹していた。まったく口を挟むこともせず、ただ耳を傾けていた……時折、妙な笑みを浮かべながら。
しばらくして車内にアナウンスが流れはじめた。
僕は話しを止め、麻衣子は窓の外に目をやった。――大船駅に着いたようだ。
麻衣子はここで乗り換える。 彼女の性格からすると、遠回りとなったとしても藤沢あたりまで付いてくるような気がしないこともないが。
やがて電車が止まり、ドアが開いた。
彼女は僕の予想に反してスッと立ち上がった。
しかし……彼女の指は、僕の袖口をしっかりとつまんでいる……。 僕は無言で彼女を見上げた。
彼女は不思議そうな目で僕を見返し、言った。
「何やってんの? 下りようよ」
「え? いや、俺、辻堂――」「いいから、ほら!」
麻衣子は僕の言葉を遮ると、両手で僕の腕を掴んだ。
そして電車は行ってしまった。
〈嘘だろ。すっげえ遠回りじゃん……〉
「ちゃんと送ってってよ。それに、まだ途中でしょ」
麻衣子は悪びれた様子もない。
「えぇぇ、もういいべ?」
「ダメダメ。ちゃんと最後まで話してよね」
そう言って口角をきゅっとあげた。
僕はため息を吐いた。
別に話をするのは構わないのだが、もうしゃべり疲れて後頭部のあたりが怠いカンジだった。
僕は大げさな仕草でクビを回しながら考えていた。
どう考えても彼女が野球に興味をもっているとは思えない。
おそらく意地になっているだけだ。高橋先輩が知ってて自分が知らないと言うことが赦されないとか、どうせそんなくだらない理由なん――「ゴメンね」
彼女の声に、僕は我に返った。
「怒ってる、よね?」
彼女は神妙な顔つきでこちらを見上げていた。
遠回りをさせられたことで僕が怒っていると思っているようだが、そんなことを気にするなんて麻衣子らしくない。 僕は笑みを堪えて彼女を見下ろすと、戯けて舌を出した。
僕らは鎌倉駅で江ノ電に乗り換えた。
新橋からずっと一緒だったオジサンたちがいたのだが、彼らはここで駅を出て行った。
「――で、その先輩っていま何やってるの?」
隣り合って座った彼女が、正面を向いたまま呟いた。
「え……藤堂さん?」
ガラスの中の彼女は頷いた。
「あの人は……まだメキシコにいるよ」
僕は懐かしい先輩の顔を思い浮かべた。
藤堂純一。
僕の尊敬する先輩であり、対戦を誓ったライバル……。
高校に進む道を選ばず単身メキシコに渡った彼の行動力に、僕は憧れ、尊敬し、そして目標としていた。
でも……いまの僕にとっては、ちょっと眩しすぎる存在でもあった。
電車は街中を抜け、やがて稲村ヶ崎駅に到着した。
「――明日。続き、ちゃんと聞かせてよね」
麻衣子は立ち上がると、胸の前で小さく手を振った。
「おう。考えとくわ」
僕も軽く手をあげた。
***
「んじゃ、行ってきます!」
僕はいつものように玄関から婆ちゃんに声を掛け、外に出て盆栽をいじっている爺ちゃんに手を振った。
幸子は朝から出掛けているみたいで姿はなかった。ガレージにも彼女のクルマはなかった。
車が2台入るガレージには普段、幸子のトレノと僕のRZ、それから原付(JOG)が置いてある。
僕のとは言ったものの、RZはもともと幸子が乗っていたものだった。彼女はもう乗らないらしいので、ずっと僕が使っている。
僕はRZの燃料を確認すると、エンジンを掛けアクセルを軽く吹かし、ゆっくりと走り出した。
家を出てキッカリ三十分――。
麻衣子の家に到着したとき、彼女は既に家の前に立っていた。
「何よ、家の中で待ってなかったの?」
麻衣子にヘルメットを手渡した。
「うん。そろそろかな、と思って」
彼女は左手の時計に目をやるとそう言った。
「――取りあえず……ココから北鎌倉に抜けて、鎌倉街道通って井土ヶ谷あたりまで行って……中華街あたりでメシ。どおよ?」
「いいんじゃない」
彼女はそう言うとヘルメットを被った。
麻衣子の了解を取付けた僕は、駅に向かうゆるい坂道をクラッチを握ったまま下りていった。
***
中華街を出た僕らは、高島町を経由し第一京浜を走っていた。
左側に見えてきたのは警察署――もうすぐ川崎駅前を通過する。その先の橋を渡ればもう東京都内だ。
晴海に行くのは高校に入ってからは二回目だ。
前の学校に入学してすぐに、中学時代の監督に挨拶に行った時以来だ。
銀座から晴海通りに入り、橋を二つ渡ったトコロを右に曲がった。
少し進んだ先で、路肩にバイクを寄せた。
正面にグラウンドが見える。
ヘルメットを脱ぎ、僕はグラウンドを指さした。
「ほほう。ここですか」
僕に少し遅れてヘルメットを脱いだ彼女は、興味深そうに当たりを見渡した。
「でも……何にもないね」
「だろ? 俺が中学ん頃はもっと空き地ばっかりだったんだぞ」
「ここで練習してたんだ?」
こんな風に? 彼女はグラウンドを指さした。
グラウンドでは小学生くらいの子供たちが練習をしていた。軟式野球のようだ。
「ここで練習したのは、だいたい月の三分の一くらいだけどな。……もうちょっと先までいってみんべか?」
ヘルメットを被り直し、埠頭の先にある公園まで移動した。
「わあ、いいじゃない! ココ!」
麻衣子は声を上げた。
運河を挟んだ正面に見えるのは芝浦だったと思う。
「いいトコ知ってるじゃない」
彼女は肘を突き出してきたが、僕はそれをなんなくかわした。
「船もいっぱい見えるしな。満足だろ?」
少し皮肉も込めて呟いたが、海から吹く風に紛れ、彼女には伝わらなかったようだ。
しばらく何もせずに僕らは運河を眺めていた。
僕らは二人でいても、こうしてボーッとしていることがよくあった。
この『何もしない時間』は、理性と感情のバランスを取る貴重な時間なんだと思っている。少なくとも僕にとってはそうだった。
「――この海から吹く風って気持ちいいよね?」
彼女が呟いた。
海に面した柵に肘をついたまま、遠く眺めている。
「そうか?」
僕の中途半端な返事にも彼女の横顔には笑みが浮かんだままだった。
しかし麻衣子の言うとおり、海から吹く風は心地よかった。そして……どこか懐かしかった。
つい何年か前まで、僕はこの風を受けながら夢中になってボールを追いかけていた。 というより僕が追いかけていたモノは『夢』そのものだった。
それがいまでは完全に目標を見失っていた。あれほど具体的に描いていた夢も、いまでは思い出すのが難しいほど朧気だった。
あのときと今、いったいナニが違うんだろう?
僕は考えながら首を傾げた。
「――ねえ」
麻衣子の声に僕は顔を上げた。
彼女は柔らかい笑みを浮かべたまま言った。
「昨日の続き、話してよ?」