【009】 夏の残像
暑いな……マジで。
僕は額の汗を手の甲で拭った。
学校から駅へと向かう帰り道。強い西日を真っ正面から浴びながら、僕は首を傾げた。
なぜ今日に限ってバイクではなく、電車で来てしまったのか――。
朝の自分がナニを考えていたのか、いまの僕にはまったく理解ができない。ただ、あのときは何となくそんな気分だったのだ。
「やっぱ、バイクで来りゃよかった……」
絶対にそうすべきだったべ――。
「そう? 電車でよかったじゃない」
麻衣子が呟いた。
学校を出てからひと言も喋らなかった彼女が、僕の独り言に反応した。
しかし……よかったの意味がわからない。僕は彼女に目を向けたまま微かに首を傾げた。
すると彼女は「じゃないとまたバイクを置いて帰ることになっちゃうでしょ?」と当然といった感じでいった……大した自信家だ。
引退試合を終えた僕らは、特別な催しもなく、そのまま自然に解散していた。
もともと何かを期待していたわけではなかったが、あまりにもあっさりとした終わり方に思わず苦笑いがこぼれた。
そして高橋先輩は石黒たちとラーメンを食いに行くといった。
彼女は別れ際に「うまくやんのよ」と僕に耳打ちし、麻衣子を押しつけてきた。それはたぶん彼女なりに気を回したつもりだったのだろうが、僕としてはまったく的外れな気遣いだと言わざるを得なかった。だいたい僕としてはラーメンを食いに行きたかったのに……そんなことを考えていたら腹がへってきた。
「なあ。おれらもメシ食いに――」
……ん?
ふと、麻衣子が妙な視線を向けていることに気付いた。
じっと僕を見つめる彼女の顔には怪しげな笑みが浮かんでいて「きっとよからぬことを考えているに違いない」と僕に直感させた。
僕は警戒心を抱きながらも、あえて表情を弛め「なに?」と優しく尋ねた。すると――
「……さっき泣いてたでしょ」
彼女は上目遣いでいった。
その顔に浮かんだ笑みはさっきよりも濃くなっていた。
「あほか……泣くわけねえだろ」
僕は動揺を悟られないよう、あえて大袈裟に呆れたような声を出した。
「ウソ。絶対に泣いてた」
彼女はそういうと、髪を揺らして僕の正面に回り込んできた。
「ねえ。なんで泣いてたの?」
彼女は嬉々として顔を覗き込んできた。
どうでもいいが、何がそんなに嬉しいんだか……。
「……ったく、気付かねえフリしとけよな」
視線から逃れるように顔を背けると、彼女に聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「え? なになに」
「なんでもねえよ」
彼女はなおも探るような視線を送ってきたが、僕は軽やかな身のこなしでそれをかわした。
やがてたどり着いた茅ヶ崎駅。券売機の前はあきらかに海水浴帰りと見える人たちで混雑していた。
その潮臭い行列の一番後ろに並ぶと、麻衣子が僕の脇腹をつついてきた。
「じゃ、行こっか」
彼女は小さな声でそういった。
「え……どこへ?」
「ごはんよ。ご馳走してくれるっていったじゃない」
「いってねえよっ!」
思わず声をあげたが、彼女はまったく意に介さずに「行ってみたいところがあるんだけど」と微笑んだ。
僕はため息を吐いた。
ただでさえ酷い金欠に悩まされ、夏休みのあいだ中修行僧のような生活を強いられていたっていうのに。
しかし、奢るかどうかはともかくとして、彼女の方からリクエストがあるのはめずらしい。
「ドコよ。行きたいトコロって」
とりあえず聞いてみた。
「もんじゃ焼き」
彼女は僕の言葉を待っていたかのように即答した。
「杉浦の実家の近くにあるんでしょ? 有名なところ」
「え……月島ぁ? さすがに遠いべよ――」
「ダメ?」
「いや、ダメってわけじゃねえけど……」
僕はいいながら左手の時計に目をやった。
「じゃあいいじゃん」
彼女はにっこりと笑った。
それは自分の提案が拒否されるとは微塵にも思っていないかのような笑顔だった。
***
新富町に着いたとき、時計の針は六時になる少し手前を指していた。
駅を出ると目の前の道は渋滞がはじまっていた。都心へと向かうクルマの列は僕らが目指す佃大橋の方までずっと続いている。しかしココには「親切な人」はいないようで、少しだけ安心していた。
「このへんにはよく来たの?」
橋のたもとまで来たところで麻衣子が呟いた。
「いや、さすがにコッチまでは来ねえよ」僕は苦笑した。
「でも晴海あたりにはよく行ったな」
チャリンコでな――。
「じゃあ、もんじゃ焼きってよく食べた?」
「しょっちゅうはねえけど食ったことはあるよ。だけどそんなに美味いモンではないと思うけどな」
「ええ~そんなこといわないでよ」
せっかくこれから行くのに――。
そういって彼女は頬を膨らませたが、目元に浮かんだ笑みが消えることはなかった。
橋の中央までくると見覚えのある景色が視界に飛び込んできた。
倉庫と運河の入り組んだ見慣れた景色。橋を渡りきれば月島で、その先には晴海がある。
晴海には中学の頃の野球チームの練習グラウンドがあった。
あのころは自宅からグラウンドまでの「結構な交通量がある道」を自転車で通っていた。よくチームの仲間と自転車で競争しては監督に見つかって怒られたりした。
それでも懲りずに無謀な走りを繰り返していたっけ……いま考えると背筋が冷たくなるくらいに危険な走りだったのだが。
「あ!」
突然、麻衣子が声を上げた。
彼女は欄干に駆け寄ると下を覗き込んだ。ちょうど橋の下を船が通過するところだった。
「なんだよ――」
僕は鼻で笑った。
「そんなモン、めずらしくも何ともねえだろ」
軍艦とかならともかく、ドコにでもある普通の遊覧船だ。
「だって~、こんな近くでみることないじゃない」
彼女は無邪気な笑みを浮かべたままそういうと船を見下ろした。両手をしっかりと欄干にかけて……。
「あ~あ。おまえ、手ぇ見てみ」
僕は彼女の手を顎で指した。
「あ……」
欄干を掴んでいた麻衣子の両手は真っ黒に汚れていた。都会の排ガス量をナメてはいけない。
それはともかくとして、麻衣子はは両手を見つめたまま呆然としていた。まるで凍りついてしまったかのように固まっている。
そんな彼女の姿に、僕は肩を竦め、小さく首を傾げた。
「もうすぐ着くから、ソコで手ぇ洗わしてもらうべ、な?」
僕はなだめるようにしてそっと彼女の背中を押した。
***
隣の席のお兄さんは悪戦苦闘いていた。
鉄板と対峙したスーツ姿の彼は、おそらく「もんじゃ」ってモノを食ったことがない種類のヒトだった。
そして僕の目の前……ココにも「食ったことがない人」がいた。
麻衣子は何も乗っていない鉄板を前に固まっていた。かれこれ四、五分はこうしている……。
「貸してみな」
見かねた僕は麻衣子の手から『大ベラ』を取り上げた。
「こんなもんはさ、ちゃっちゃと手際よくやらなきゃよ――」
僕はいいながらボウルに入ったキャベツやなんかを鉄板の上にぶちまけると、ソレを二本のヘラで細か~く刻んだ。
我ながら手際がいい。
麻衣子は興味津々といったカンジで、隣のお兄さんのツレも感心したように僕の手つきに見入っている。
具がしんなりとしてきたところで、ドーナツ状の土手を作った。そしてボウルに残った汁を土手の内側に流し込んだ。
麻衣子と隣のお姉さんは相変わらずは無言のまま鉄板に見入っている。
「……そろそろいいべ」
僕は頃合いを見て呟いた。
そして大ベラで全体を混ぜ合わせると「後はよ、コレでこうやって食うんだよ」とハガシを使って、火の通ったもんじゃをペタペタと鉄板に押し当て、慣れた手つきで口へと運んだ。
しかし麻衣子は鉄板を見つめたまま固まっていた。なんだかさっきから固まってばっかりだ。
「なんだよ。食わねえの?」
「だって……」
麻衣子は鉄板を見つめたまま呟いた。
「……これ、まだ焼けてないんじゃないの?」
「こーゆー食いもんなの!」
僕がいうと、彼女は首を傾げながらも僕と同じようにもんじゃを口に運んだ。
「――あ、あふ!」
口に入れたとたん、彼女は目を白黒させた。
僕が水を差しだすと、彼女はそれを一息に飲み干した。
「……ダイジョウブか?」
結構熱かったはずだ。
「……大丈夫」
彼女は火傷した舌を出しながらいった。
とりあえずはコレで「冷ましてから食べる」ということを学んでくれたはずだ。
そして隣のお兄さんたちもようやく「もんじゃ」にありつけたようだった。
「――ねえ」
「ん?」
「ディズニーランドってココから近いの?」
鉄板をつついていた麻衣子が顔を上げた。
「まあ、近いっちゃあ近いな」
僕はコップに手を伸ばし「葛西のちょっと先だからな」といった。
「カサイ……?」
麻衣子は首を傾げた。
このあたりの地理に疎い彼女は葛西がどこにあるかきっと知らない。
「ま、ここからはそれほど遠くないよ」
「ふ~ん。そうなんだ」
彼女はわかったのかどうかさえアヤシイ口ぶりで相槌を打った。
「じゃあさ、今度行こうよ。ディズニーランド」
「え……ナニしに?」
「はあ? 『ナニしに』なんて聞く? フツウ」
麻衣子は僕を睨みつけてきた。
「まあそうなんだけどさ……」
僕は思わず肩を竦めた。とっさのコトだったはいえ、確かに「ナニしに」はいい過ぎたかもしれない。
だけど、正直いって彼女の口から『ディズニーランド』なんていうコトバが出てくるとは思いもしなかった。それに……いまはどう考えても行けない理由があった。
「悪いけどいまはムリだわ」
ぜんぜんカネねーし――。
僕は明るくいったが、麻衣子は拗ねた視線をじっと僕に向けていた。
「……おカネがあるときなんてあるの?」
彼女は少しの間を置いてからいった。
僕は首を横に振ると「ないな。たぶん」とさびしく嗤った。
「じゃダメじゃん」
麻衣子はため息まじりに呟いた。
そしてそれっきり口を閉ざしてしまった――。
鉄板のジュージューという低い音がやたら耳につく。
隣の席の話し声ばかりが耳に入ってくる。
……気まずいな。
僕は話題を変えようと思いを巡らせた。
しかしなんにも思い浮かばない。考えれば考えるほど『ナニモ』出てこなかった。
しばらくして僕は考えることを放棄した。
気まずい空気が僕らを包んだまま、ただ時間だけが過ぎていった。
***
店を出た僕らは、さっき通ってきた道を逆方向に歩いていた。
来たときには船を見たくらいではしゃいでいた麻衣子も、いまでは何ら反応を示さなくなっている。船に見飽きたから、なんていう平和な理由ではないのだろう。
僕は非常に後悔していた。
ほんの少し前まで彼女はご機嫌だったのだ。それを不機嫌にしてしまったのは紛れもなく僕の適当な受け答えのせいだった。いつもみたいに怒りをぶつけてくれるなら嵐が過ぎ去るのを待っていればいい。だけど今日みたいに無言の圧力を加えられるとどう対処したらいいのかわからない。
しかしそんな沈黙を彼女の方から破ってくれた。
「――ねえ。ハルミってちかいの?」
彼女は僕を見上げていった。
「ああ、晴海は近いね」
僕は頷くと、東南の方向を指さした。
「ちょうどあっちのあたりが――」
「じゃあ今から行ってみたい」
「え……」
なんでまたそんなトコに……この子は本当に面倒なことをいうときがあるよな。
「ココから歩くんじゃ、ちょっとキツいな」
僕は静かにいった。
極力、彼女を刺激しないように気を付けて。
「いいじゃん。ちょっとくらい歩いたって平気よ?」
「いや、そうじゃなくて……」
あんな真っ暗な倉庫街に女の子を連れて行くのは抵抗がある、ただそれだけの理由だったのだが……どうやら彼女には上手く伝わらなかったみたいだ。まったく困ったヒトだ。
「わかった! 明日の昼間行くべ!」
僕はいった。
麻衣子は顔を上げて何かをいおうとしたが、僕はソレを遮り「中華街あたりで昼飯でも食ってさ。なっ、そうすんべ。それでいいだろ?」と畳みかけるようにコトバを続けた。
「……わかった」
少しの間を置いてから麻衣子は呑み込むようにいった。
しかしその表情は「納得している」とは到底いいがたい様子だった。
それはともかくとして、無理矢理な僕の提案でとりあえずはこの場を収めることができた。
麻衣子はしばらくのあいだブツブツと何かをいっていたが、佃大橋を渡りきったころには「いつもの彼女」に戻っていた。
「――ねえ」
不意に麻衣子が僕を窺ってきた。
「中学のときの話、聞かせてよ。野球のこととか、さ」
そういうとほっとするような微笑を浮かべた。
「まあ、べつにいいけど――」
そういいながら僕は首を傾げた。
麻衣子に中学の頃の話をした記憶はなかった。一緒にいる時間は結構多いのに「過去の自分」について話そうと思ったことは一度もない。
だけどそれは「野球に興味がない」麻衣子に「僕の昔話」を聞かせたって仕方がないと思ってのコト……僕なりに気を遣ってのコトだった。
小中学校の記憶を辿れば、どの部分を切り取っても必ず野球が絡んでくる。そしてそれは麻衣子にとって興味のない退屈な話題だというのは明らかだった。
「……聞きたいか? そんな話」
僕は彼女の顔を窺うと、もう一度首を傾げた。
彼女は微笑したまま頷くと「ええ……是非聞いてみたいわ」と少し茶化すようにいった。