法螺を吹く
氷垂は忍者ではない。
生まれも育ちも武家である。
かつて真田の頭領であった亡き真田左衛門尉信綱の遺児であり、今の真田の頭領である真田安房守昌幸の姪であり、やがて真田の頭領となるであろう真田源三郎信幸の妻だ。
他の武家の娘と違うのは、真田の産土神である白山権現の巫女の役目も担っているというところだ。巫女の役目柄、彼女は様々な知識を持ち、諸々の技能を有している。そして誰よりも健脚であることが自慢である。
氷垂はそういう特技があるだけの、若殿様のご正室様だ。
武家のご正室様の本来の仕事というのは、館の中を取り仕切り、夫を支え、子を産み、育てることである。実家と婚家の橋渡し役、その結びつきを強める鎹、あるいは一種の人質の役割もあった。
だから本来は夫の居館にいなければならない。
氷垂は違った。違うことを源三郎に許されている。いや、違って欲しいと願われている。
氷垂だとて夫の源三郎が城や館にいるならば、城や館にいる。
源三郎が外出するときに「付いて来てくれ」と言ったなら、氷垂は彼に付いて行く。
源三郎に「行って来てくれ」と言われれば、氷垂は行って、彼の元へ帰ってくる。
源三郎が戦場にいれば、氷垂も戦場にいる。
『若様の武運長久をご祈願するのが、巫女としてのあたくしの役目ですからね』
そう理屈を付けて、彼女はできるだけ夫の傍らにいようとする。
源三郎の「武運長久」の為に役立つならば、自ら山を、里を、戦場を走り回る。
巫や僧侶や修験者というような「聖なる存在」は、衆生が勝手に定めた境界線を無視して歩く。
人々が取り決めた国と国との境、家と家との境、身分の上下の境、男と女の境、敵と身方の境、常識と非常識の境を、彼らは易々と超越する。
彼らの本来の仕事は、衆生を救い、善男善女を結びつけ、人と人との間に良き関係を構築することだ。この使命のために必要であるならば、人々の噂を集めるし、諸人に噂を広めもする。
氷垂は巫女である故に「武家の奥方様」という身分を持ちながら、人が境と呼ぶものをひょいと飛び越えて、思うままに動動き回ることができた。
巫女として動き回る氷垂は、時として忍者のように働くことを厭わなかった。また厭わずに働くが為に忍者たちの動きを常に把握している。
これによって彼女が得た情報が、源三郎の行動を決める材料となる。
だから源三郎は、氷垂が当然把握しているであろう「子檀岳辺りを探っている身方の忍者」の動きを彼女に尋ねたのだ。
「五助の爺様でございますよ」
「ああ、あの山がつの……」
源三郎の脳裏に一人の老爺の顔が浮かんだ。
深い皺が刻まれた顔、皮膚の肌理の奥まで土が染み込んだような手足、貧しい農夫か杣人のような出で立ちがよく似合う、つまりはそのような人々の間になじみ込んで情報を集め、情報を運ぶことを得意とする、優秀な忍者だ。
「今の爺様は、髷を落として山伏の格好をしていますよ」
「なるほど、山伏か。なるほどあの辺りの山々ならば、山がつのふりよりも修験者の姿の方が馴染みがよかろうよ」
源三郎は氷垂の声のする方へ顔を向けた。
「走りやすい」という理由で常日頃から――たとえ城・屋敷の中であっても――農婦の形をしている氷垂は、今日も地味目の色合いの小袖に短裳袴をつけて、頭は桂包にしている。
普段と違うところがあるとすれば、抱えている法螺貝だ。
「ごめんくださりましょう」
ぺこりと一礼すると、氷垂は頭を巻包んでいる長い布の、両耳の上の際を引き下げて、耳をすっぽり覆った。
『何を始めるつもりか』
源三郎は氷垂の挙動をぼんやりと眺めた。
息を大きく吸い込む音がして、彼女の胸元が大きく膨らんだ。




