笑顔
しかし氷垂は不満げに口を尖らせる。
「御免被ります。もしあたくしが男に生まれておりましたなら、こうして若様のお側にいることができませんから」
氷垂はすねた子供のように頬を膨らませた。
女が人前で感情を表に出すことを「はしたない」などと言う者が多い時勢であるが、氷垂は自分の心の通りの顔をする。
そこが源三郎の気に入りだった。
「なるほど、な」
源三郎はニカリと笑い、立ち上がった。並の者よりも一尺弱ほどは背が高い。堂々たる体躯であった。
振り向きつつ、
「大蔵」
静かだが良く通る声で、源三郎は厩別当、すなわち馬丁頭の水出大蔵を呼んだ。
大柄で頑丈そうな馬を牽いて来た大蔵は、チラリと氷垂を見てから、地面に膝を突いて源三郎へ深々頭を下げる。
背の高い源三郎だから、乗る馬も大柄であったほうが都合が良い。
ひらりと馬の背に乗った源三郎は、馬上から氷垂へ手を差し伸べた。
「お主も、砥石へ行くか?」
行くなら二人一緒にこの馬に乗って行こう、というところまでは口にしなかったが、言わぬ言葉も十分に氷垂へ伝わる。
氷垂は眉を八の字にして、口惜しそうな、不満そうな顔を作った。
「心引かれますが、いま一度上田のお城に戻らなければなりません。若様が砥石のお城に入った、と、殿様に伝えるところまでが、今日のあたくしのお仕事です」
「そうか」
源三郎も眉を八の字に寄せて、口惜しそうな、不満そうな顔をした。
その顔を見た氷垂は、強めの語気で、
「御大将がそんな顔をしては皆に示しが付きませんよ。ほれ、このようになさいませ」
言うと、両の掌で自分のふくれっ面を、パン、と軽く叩く。
掌が頬から離れたときには、表情は晴れやかな笑顔に変わっていた。
「うむ、こうか?」
源三郎は馬上で両の掌で自分のふくれっ面を、ポン、と叩いて、笑った。
氷垂の作り笑顔が本物の笑顔に変わった。
「ようできました」
子を褒める母親のように頷いたあと、氷垂はすっと背筋を伸ばし、
「では、後ほど」
言い置いて、台地の斜面を北の方向へ駆け下りていった。
驚くほど脚が早い。すぐに姿が見えなくなった。
あっという間さえなく見えなくなったその背中の行く先を、源三郎はしばらくは名残惜しげに眺めていた。
やがて姿を追いようがないと諦めが付いたらしい源三郎は、馬の口取りをしている大蔵へ視線を向けた。
大蔵は幾分か腹立たしげな顔を氷垂が走り去った方へ向けている。
「どうした?」
何か不満があるか、と問おうとした源三郎だったが、
「ああ、お前はずっと砥石城に詰めていたのだったな?」
質問の言葉を変えた。
「へい」
水出大蔵がひれ伏そうとするのを、源三郎は手で制した。