信州丸子城
大久保彦左衛門忠教曰く――。
「当方ことごとく腰がぬけはて、震えて返事も出来ず、下戸に酒を強いたるが如し」
その日の神川は日頃の三倍に近い水位になっていた。激しい水流は大地から土石を削り取り、樹木を薙ぎ倒した。それら全てが含み込まれた水は、黄色い土そのもの色になっている。
土色の濁流は、その中にさらにあまたの人馬をも巻き込んで、轟々として千曲川へ流れ落ちて行った。
大久保忠教は著書「三河物語」に
「身方の死者三百五十余名」
と書き残している。
他方、真田源三郎信幸は沼田に残してきた家臣に宛てた書状に、
「敵方千三百余を討ち、身方四十余死す」
と記している。
どちらが正しいとは言い難い。おそらくは両方間違っている。いや、わざと違えている。
どちらも、自軍の損失を少なく、戦功を高く記しているに違いない。
残された数字が現実的でないことを踏まえてもなお、この戦で徳川方は大敗したといって良い。
真田方として上田城に入った者、その周囲の城や山陰などに潜んでいた真田方の兵数は、城下の村々の民まで入れて三千に少し足りない程度だったという。
攻手の徳川軍の兵数は、確実に七千を超えていた。大部隊と呼べるほどの多勢とは言い難い微妙な数字だが、それでも真田方の倍を優に超える兵数だ。
それなのに、上田本城は元より、支城の一つすらも落とせない。
よしんば「この戦場においての問題」ではない「何事か」が徳川家中で起きていたとして、そしてそれが勝敗に影響を与えていたのだとしても、この戦に関しては「徳川が敗北し、真田が勝利した」のである。
しかも、主戦であった上田城下での戦闘は、呆気のないことにたった一日で終わってしまっているのだ。
時に|天正十三年閏八月二日《西暦一五八五年九月十五日》のことだった。
上田城下から敗走した徳川勢は、暴れる神川を超えて――城下で討ち死にしたのと同じ位の兵を濁流に流されて失い――その東岸で兵を整えた。
そして街道を二里ほど戻り、大屋地籍の手前で西に折れ、千曲川を渡り越えた。たどり着いた場所は長瀬という。
そこから今度は、これも千曲川の支流である依田川に沿って南進した。
彼らが始めたのは、丸子城攻めだった。
誇り高い三河武士が、小勢の真田を攻めて返り討ちにあったなどと、易々と復命できようか。
少なくとも一つ二つの城を落とさねば、主君・徳川家康に顔向けができない。
丸子城は堅固な山城だ。加えて城主の丸子三左衛門は強情者で、徳川方が何をどう仕掛けても動こうとしなかった。
諦めて兵を下げると、途端に城から少数の兵が出てきて、矢を射かけ鉄砲を放つ。あるいは舞い踊って徳川勢を挑発する。
腹立たしいことこの上ない。徳川勢が転進して攻めかけると、少しばかり槍を合わせる素振りを見せ、直ぐに退却する。
攻め手の兵士達は、これに乗せられて深追いしてしまう。
慌てて引こうとすれば、横腹を伏勢に突かれ、殿軍を叩かれる。
手勢はじわじわと削られて行く。