この浦舟に帆を上げて
天正十三年閏八月二日――。
上田城から打って出て来た真田軍は、どう見積もっても三百を割り込んだ小勢であった。七千余の兵力を持つ徳川軍が電光の素早さで突き進むと、小勢はあっという間に潰走した。
「真田弱し! 押せ! 押し込め!」
そう声を出したのが誰であるのかは判らない。
「進め、進め!」
これは命令か、それとも誰かのわめき声なのか、誰にも判らなかった。
そもそも多くの者たちが、誰が指揮を執っているのか、命令は誰が出しているのか、誰に従えば良いのかを理解していなかった。
しかし今この時は、そんなことは些末事だと言える。
敗走軍を追い立てるのは勝ち組の定法なのだ。
装備の多い弓隊と鉄砲隊は後方に残して、徳川勢は逃げる田舎侍どもの背中に襲いかかった。
軽装備の騎兵と歩行兵達の足は速かった。
皆、脇目も振らずに突き進んで、城下町へなだれ込んだ。
町といってもそれほど立派なものではない。小屋に毛が生えたような家が道なりに並んでいるだけのことだ。しかも人の気配がない。
道筋のあちこちに馬防柵に似たものが中途に張り出していたが、その程度のものが「勢いに乗った兵団」にとって侵攻上の問題になる筈がなかった。町の先に木戸門があった。門の両脇は土塁だ。門扉は開いていいて、道が鈎の手になっているのが見えた。
徳川軍はつっかえながら進んだ。道を鈎の手に曲げるのは、敵軍をそこで詰まらせて、石垣や土塁、あるいは櫓の上から攻撃をするためだ。しかしあってしかるべき真田勢の攻撃がない。
「山猿どもには、城を型どおりに作ったところで、良く用いることができないのだ」
徳川方は嗤い、ねじ曲げられた細道を推し通った。
そこから一丁先に、土塁と木の櫓が見える。手前にはおそらく堀があるだろう。それでも粗末な構えの城だと、彼らは見てとった。
その土塁の上に数人が立っている。
きらびやかな装束を着た者が、扇を開いて頭上で振っている。
太鼓や鼓の音がする。
大きな旗が打ち振るわれている。
彼らは何かをいっていた。
いや、謡っていた。
騒がしい戦場だというのに、その声は犇く攻め手の耳にも聞こえた。
……聞こえてしまった。
たーかーさーごーや
こーのうらふねにーほをあげーてぇー
こーのうらふねにーほをあげて
つきもろともにいーでーしおーの
なみのあわじのぉしまかげやぁ
とおぉくなるおのぉおきすぎて
はぁやすみのぉーえにつきにけりぃ
はぁぁやすみのえぇぇにつきにぃけーりー
「高砂」の謡いだ。
めでたい歌である。祝いの歌である。婚礼の歌である。
戦争の最中に、圧倒的劣勢にある城方の者が、奏で謡い舞って良い歌であるはずがない。