そういう訳ではない
「今まで僕と話していたサオリさんは、もういないんですか?」
多重人格を疑ったが、サオリは横に首を振る。
「消えちゃった。私の中に人格として残っていない」
<会いに来ていたおじちゃん>のように、前の人格が視覚していたことは覚えているけど、とサオリは肩を竦める。
「…そうですか。もう一つ、聞いていいですか?サオリさん、過去のことは覚えていないんですよね?」
「過去?」
「サオリさんの身体は成人女性と同等の成長をしています。<外>で過ごしている期間があって、何らかの理由であの中に入ったのか。それとも最初からあの貯水槽の中にいたのか気になりましてね」
崎下がサオリを見つけた時には、既にこの姿だったという。数十年前の時点で、だ。その頃の容姿を保っているのならば、ある程度成長してから培養液の中で<保存>されていた可能性もあるだろう。
「私は多分、あの中で生まれたと思う。記憶は…」
記憶という言葉に、サオリは難色を示す。
「記憶はないけど、夢は度々見ていたかな」
「夢、ですか?」
「心地いい夢も多かったけど、悪夢も多かった。悪夢の方は必ず私が知らない人になっていて、人を傷つけ、また傷つけられ、他人も自分も不幸になる夢ばっかりだった…今思い出しても、不快になる」
サオリはあの貯水槽の中で造られた存在。屋敷の主人である崎下が、サオリを造ったのか?だが造ったこと自体を、崎下は思い出せていなかった。
人体生成という重大なことを、普通忘れるだろうか?何か理由があって、忘れてしまったのか?
「…お互い、記憶がないんですね」
「お互いって…エイトも?」
「僕の場合は、興味がなさすぎてですがね。自分のことも、他人のこともあんまり覚える気がないんです」
なにそれ、とサオリはプッと吹き出した。その顔は嘲笑っているのでは無く、本当に不意打ちで面白さを感じていたようだった。
「ごめんね。私はどちらかというと、過去に縋りたかったから。なにもない自分って恥ずかしいことだと思ったの。だけどエイトは過去に執着を見せないんだって聞いて、人って面白いなと思って」
仏頂面の詠斗に、サオリはまたププッと笑う。
「過去に縋っても、何にもならないじゃないですか。覚えていたって、人とのすり合わせに多少影響があるだけで、仕事をする上では必要がない」
サオリに笑われたことが、少し詠斗をムッとさせていた。なぜこんなに出会ってまもない女性に、自分の心が振り回されるのだろう。その振り回しが、詠斗にとって不快なことだった。心が無機質で、他人に対して不快になることも、ほぼなかったというのに。
「人とのすり合わせ、か。確かに疲れちゃうものなんだろうね。でも、私はエイトと話しても、すり合わせもなにもない。純粋に、楽しいなって思ってる」
「…」
「エイトの言う通り、お仕事中はこの家にいるね。だけど、お休みの時は、外を見ていたいな」
話をしっかり覚えていてくれていたようだ。
「仕事が終わり次第、すぐ帰りますからご安心を」
今日は午後から出勤しなければならない。確か上層部から新しいプロジェクトを任されるはずなのだ。
政府上層部は相変わらず穿った研究を提案してくるのが御家芸になっているが、果たして今日は何を言われるのだろうか…。