サオリさん
「初めまして」
詠斗は抑揚なく声をかけた。
サオリは身体に付いている培養液を犬のように身震いで取ろうとしてから、詠斗のことを黒曜石のように濁りのない目でじっと見つめる。言葉が分かっているのだろうか?詠斗の言葉が、サオリの頭の中にはあまり浸透していないようだ。
「言葉、分かりますか?」
続けて尋ねても、サオリは首を傾げるだけだった。そういえば雑記に、彼女を1度もこの貯水槽から出したという記載は出てこなかった。
身体は成人だが、言葉という概念は培われていない可能性がある。
「貴方の名前は?」
一応、名前を尋ねてみる。
「…サ、サオリ。 」
名前という言葉は、分かっているようだ。
「サオリさん。君はなんでここにいるんですか?」
そう尋ねると、またサオリは首を傾げて言葉を発さない。その後も年齢や崎下との関係を尋ねたが、結局サオリは言葉を理解しなかった。
崎下が守りたかった彼女は、一体何者なのだろうか。
サオリが全裸なのも、余計に詠斗のなんとも言えない気まずさを増幅させる。女体に興味がないと思っていたが、サオリの姿はフェロモンのように詠斗の本能を刺激する。
「とりあえず、これ羽織ってください」
詠斗は来ていた白衣をサオリの身体にかけた。
男物の白衣はサオリにはブカブカになるくらい大きかったが、掛けられた白衣になんとか袖を通してくれた。
さて、彼女をどうするべきか。正直に言うと、詠斗にとってサオリはお荷物以外の何者でもない。だが父である崎下の遺言を守らない訳にもいかない。崎下には育ててもらった恩があるのだ。
また培養液の中に戻すのも気が引けていた。彼女はやっと自由になれるのではないか?
(崎下の雑記に寄れば)数十年間培養液の中に居続けたサオリは、何も知らないのだ。
崎下は常々、色々な事を知るのはなによりも大切な事だと説いていた。ならばサオリに外の世界を見せて、精神的にも成熟させ、彼女なりの人生を歩いてもらおうと詠斗は思いついた。
気になるのは、崎下の遺言にあった『サオリを政府に渡すな』という言葉だった。
研究者から見れば、人間の培養は今でも難易度が高い技術だ。完成を公表すれば政府から手厚い研究費が交付される案件である。
それを秘匿する理由が、詠斗には理解できなかった。