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昔々の話⑤

巫女がおずおずと石に座ると、男はニコニコと笑って頬杖をついている、

「なんだって、市の日に貧街に入っちまったんだい?」

「あの…えっと…。土地勘が、なくて…」

巫女が土地勘がないのは事実だ。そこは嘘をついていない。

「ふーん…??どっかからの流れ者かい?でもここは交易盛んな土地でも、土壌のいい地でもないのに?」

「あんな市が開かれていても?」

「ありゃ三月に一回の大市だ。それ以外は寂れた集落だよ」

アワアワと漫画の様に慌てる巫女を見て、男はプッと噴き出した。

「悪い悪い。流れてきた人に突き詰めるのも野暮だな」

カッカッカ、と豪快に笑う姿は、巫女から見れば本当の太陽のように眩しく見えた。

家では一族から仕える者皆がお高く留まり、冷静に勤め感情の起伏を不快以外表わすことをよしとしなかった。

従属を意識していた巫女でも一族の中では怒りや喜びを表してしまい、鞭を打たれることが度々あったため、今ここで戸惑っていても表情は能面が張り付いている様な状態だ。

そんな闇の深い巫女でも、この男は全く気にせず笑い飛ばしてくれている。

「…助けてくださり、ありがとうございます」

巫女はとりあえず礼を言わねばと、深々と手をついて頭を下げた。

「なーんも、そんな仰々しい!女子が絡まれてれば、助けるのが普通だろうよ!」

「…!」

「こな器量よしなら、猶更の!」

男は巫女が下げていた頭にフワリとそのごつごつした手を乗せ、優しく撫でた。

――——巫女の心は、その時点で心臓を打ち抜かれた。

ドッドッド、と鼓動の音が耳元まで聞こえてくるようだ。

無色だった巫女の心が、生まれてはじめて無限の色を取り込んでいる。

これが、本来の『下界降り』の意味なのだろう。


「貴方様のお名前をお聞きしてもよろしいでしょうか?」

色々な陽動が心の中で止めどなく溢れる中、巫女は男の名前を尋ねた。

「俺か?スイっていうんだ、水って漢字でスイ。あんたは?」

「私はミコトと申します」

「ミコトさんかー。高貴な名だのう。この街には長くいる予定なんか?」

「いえ、ほんの一日で。もう少ししたら、また別の場所へ行くのです」

ミコトのその言葉で、スイは何かを察したようだ。それでも、ニコニコと笑う表情は変わらない。

「そうか。その時間まで、一人でいるつもりだったとか?」

「ええ。そのつもりでした」

一人でいることを喜んでいたミコトだが、スイは「あぶねえぞ」と笑う。

「スイ様。その時間まで…一緒に居ていただいても…よろしいでしょうか?」

ミコトが頬と耳を真っ赤にして、思い切って気持ちを伝えると、スイは鳩が豆鉄砲を喰らったような顔をした。

「え?え?え?気持ちはとても嬉しいが…いいのか、それで。俺で」

男もあまり女のそういう面での扱いには慣れていないのか、ポリポリと指で頬を掻いて首を傾げた。

その指をミコトは両手で掴み、「どうぞお願いします」と告げる。


残り数時間を、ミコトは一生分の思い出を作るようにスイと過ごした。

もうこんなことは、起こりえないのだから。

せめてこのひと時を永遠に心に焼き付けようとしていた。

だが時間までに馬車に戻ろうとあばら屋を出ると、そこには黒子の服装をした監視の者が立ちふさがっていた…。


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