女性
一年ぶりに崎下邸の鍵を開けた。
家の中はしばらく放置されていたせいかやや埃っぽく、咳き込みがちになる。
玄関には詠斗用のスリッパが綺麗に置かれたままだったので、それを履いて隠し扉のある部屋へ向かう。
まるでスケートを滑るように足跡が付いていくが、致し方ないことだろう。
隠し扉があるのは、崎下がいつも居た書斎だ。本棚を動かすスイッチは、手紙によると仕事机のデスクライトを3回点滅させることだった。
3回オンオフを繰り返すと、本棚が動いて茶色の扉が姿を現した。
扉を開けると、無機質な人一人通るのがやっとの階段がある。照明が自動で点灯し、道が露わになった。
階段を降りると、暗証番号を入力する分厚い鉄の扉が付けられていた。暗証番号は全て手紙に記されている。
扉は約20メートル置きくらいに4つ設置されていた。扉は新しく出てくる度に分厚くなっていたが、一体何があるのだろうか?
最後の扉の鍵を解除すると、地下室にようやくたどり着いた。
照明はないが、何やら奥の方から淡い緑色の光が怪しく地下室を照らしている。少し手元が暗いが、見えないわけではない。光源がある最奥へすぐに足を運んだ。
古びた木製の扉を開けると、そこには培養液が満たされた巨大な貯水槽が置かれていた。貯水槽のすぐ側に、書斎にあったものと同じロッキングチェアとサイドテーブルが水槽を見るように佇んでいた。
そして、貯水槽の中では一人の若い女性が手を胸元でクロスさせて穏やかな顔で眠っていた。
「に、人間…?」
培養液は澄んでいて、女性の姿は鮮明に確認することができる。近づいても女性は気づかないのか、まだ眠っている。外見は20代半ばくらい。知性を感じる横顔をしている。黒髪は女性らしいショートカットで、若干の癖っ毛。
そして、彼女は左手がなかった。事故か何かで欠損したわけではなく、体が左手の構築を止めているように見受けられる。血管や肉が少しはみ出ているからだ。
女性を見終わった後、サイドテーブルに目をやると一冊のノートが上に乗せられていた。
ノートの表紙はかなりボロボロになっており、年季が入っている。中を見ると、どうやら崎下の雑記のようだった。
崎下は記憶を無くした直後に、政府の人間にこの屋敷に軟禁を宣告されたらしい。元々外出を好まない崎下は苦にしなかったが、頭の中に焼き付いている存在がいた。それが、この地下室にいる女性らしい。地下室のことも何故か覚えており、軟禁宣告後地下室に行くと既にこの女性はいたと言う。この女性を『サオリ』と名付け、崎下は夜な夜な見守っていた、と雑記には記されている。
崎下の雑記には、サオリに対する感情がぶつけられていた。ある種の恋心が、年甲斐も無く燃え上がっていたのが分かる。
だが数十年見守っても、左手が創り上がることはなかった。何かが培養を阻害しているのだろうと崎下は予測し、色々試したようだが効果はなかった。
サオリは時々目を覚まし、不思議そうな顔で崎下をじっと見ることがあったようだ。時々取り止めのない話をすると、首を傾げるのが愛おしかったと記されていた所で雑記は終わっていた。
「さて、どうするかな。まずは起きるのかどうか、確認だ」
詠斗は少し強めに、サオリの顔近くのガラスをノックした。
サオリはパチッと目を開け、すぐに詠斗のことを見た。泳ぐように体を動かし、雑記にあったように興味深そうに詠斗を眺める。装置を操作し、培養液を抜くと、その放出速度にサオリは驚いていたが、抜けきった時にはキョトンとした顔をしていた。
底にペタンと座り込み、サオリは培養液をケポンケポンと小さく吐き出した。