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黄瀬の指す方角に身体を向け、サオリは黙って壁と向き合うように数秒棒立ちしていた。
突然のサオリの棒立ちに困惑した詠斗と黄瀬だったが、その困惑が解ける前にサオリは再びいつもの微笑んでいるような表情に戻った。
「エイト、その場所に行ってみようよ。ワタシ、ここよりはいいかなって思う」
夢を具現化できるこの場所は、サオリはあまり好きではないと言う。
「白藤お姉ちゃんが持ってた思い出はあっても、それはワタシのモノじゃないしね」
夢は所詮夢。詠斗が居ない間好きな空間に変えようとしても、経験の足りないサオリにはイメージができない。できるのは白藤の遺した記憶の具現化だとすれば、サオリにはあまり意味のないことだった。
それに、サオリはこの空間に違和感を覚えるらしい。
空間を変質させる時に身体の何かを吸い取られるような感覚がして気持ち悪いと言うのだ。
「なるほど、吸い取られる感覚…。この空間が形を自在に変えるということは、思念を吸い取っているという説と合致するな」
「完成した時、できた!っていう歓びがスッと消えちゃうのも不思議~」
サオリがおちゃらけているが、詠斗と黄瀬の表情は真剣だ。
「黄瀬さん、サオリさんも望んでいるようですし私たちはその島に行きます」
サオリの言う言葉には、詠斗にも噛み合うところがある。
この空間にいると、感情の起伏や焦燥が喪失していくような感覚になっているような気がするのだ。
クローデルが引いたのも、その要素があったのではないだろうか。
元々詠斗は感情の起伏があまりないが、クローデルと対峙した際にサオリを守るという焦りは強く感じていた。あのまま対峙していれば、判断を下せなかっただろう。
だが、能力を放たれるまでの間に不思議とその焦りはかき消されるように治まっていったのだ。
そしてクローデルが倒れた自分や、吐息を確実に漏らしたサオリに追撃せず退いたのは狂気を静められていたからではないだろうか。
この空間は不自然すぎて不気味なのだ。
「では、もう転送させてもらうよ。桜井司令官から転送用の座標は伝達されている」
黄瀬はストレスカウンターの画面を操作し、転送の準備を始めた。
「すまない、詠斗君」
「?なんですか、黄瀬さん」
画面を見たまま、黄瀬は言葉を零した。
「結局いつの時も、私は何もできないのだね。部下の君にも、何もしてやれない」
今生の別れとでもいうように、苦笑いをしつつ心境を吐露する。
黄瀬の立ち位置では、情報を黙秘する以外のことはできない。
上級研究員といっても、結局はただの実験担当員なだけで、(部下に上の意向を伝える為に)会議に参加することは会っても権限は持っていない。
「そうですか?私は黄瀬さんを見ていて面白かったですよ。学ぶところが多々ありました」
いつもの無表情で、詠斗がそう言ったのを黄瀬は心の中で反芻しているようだった。
「…そう思ってくれたのなら、何よりだよ。君の何かの実りになってくれただけで、私は嬉しい」
「エイト」
サオリがいつになく神妙な顔をしている。どうしたのかと聞くのも憚らせるような表情だ。
「さあ、転送するよ」
詠斗とサオリの足元に、転送陣が光で描き出される。
「…あの」
そう言いかけたときにはもう遅く、二人の身体は転送された。
何故だろうか、最後に見た黄瀬の顔は言葉では言い表せない複雑な顔に無理に笑みを張り付けたような顔だった。