柳祥子、目覚める
「おい…マジかよ」
柳が居ると思われる実験室まであと一歩のところに来ていた玄森だが、フロアを上がった瞬間から生命の危機を本能が感じ取って足を進ませることが出来ずにいた。
一歩踏み出せば、とてつもなく濃い悪意に包み込まれ精神が壊れる。そう直感させるほど凝縮された瘴気の端切れが既にこの階を侵食しているようだ。
「ショーコ!」
苦し紛れに玄森が叫ぶと、実験室の扉がギギイと音を立てて開かれた。
見ただけで戦慄するほど妖しく、狂気を感じられる笑みを携えた柳が部屋から出てきたのだ。
(本当に…あのショーコなのか…!?)
もう一度、玄森は柳の名を呼んだ。
声に気付いた柳はゆっくりと声の主である玄森のいる方向へ顔を向ける。
玄森が必死さを顔に出しているのを見つけ、柳は地獄に住まう悪魔のようにニタァと笑うだけだ。
「貴方も、良いオモチャかな?」
「ショーコ…俺のこと、覚えていないのか?」
「何を言ってるのかな。私はアナタなんて知らない☆」
「…!」
柳は右腕に瘴気を纏わせ、禍々しいブレードを形作っていく。
腕の周りには漆黒の靄が徐々に絡み合い、見ているだけで全身の血が逆流しそうなプレッシャーを放っているようだ。
「アナタはここにいた人たちのように狂う?狂わない?どっちか知りたいな☆」
タンッ、と床を軽やかに蹴る音がした。
一気に柳が間合いを詰め、瘴気のブレードで斬りかかってくるのを玄森も左手をブレードに変えて阻止する。
柳は手練れの殺人鬼だが、動きそのものはキレた一般女性が闇雲に包丁を振り回すのと変わらない、素人だ。
警戒しなければいけないのは刃ではなく、正気を失わせる瘴気の能力だろう。
「へえ、止めれるんだ☆面白い面白い!もっと遊ぼ?」
祥子はバックステップで一旦下がり、今度は本気とばかりに無数の高速の突きを繰り出してきた。
それを玄森は全部ブレードではじき返すのだが、一つ壊し損ねた瘴気の触手が蛇のように絡まり付いてきた。
『やめてよ…私の宝物を壊さないで!』
『バーカ、こんな薄汚い枯れ花が宝物?頭湧いてるぜ』
『大事なものなの、やめて!』
瘴気の触手から流れてきたのは。柳の本当の記憶だろう。柳はしばらく、玄森が渡した草冠を大切に持っていたようだ。
それを当時のいじめっ子が、嘲笑いながら踏みつぶした記憶だった。
「ショーコ…」
「あれー、おかしいなあ。今の攻撃なら、どこか傷を負わせられたはずなのになあ。それに、何でアナタは泣いているの?」
戦闘中であるにも関わらず、玄森の左目からは一筋の涙がスーッと流れていた。
そのことに柳は戸惑っているようで、微妙に曇ったような表情をしていた。
隙だらけならば斬りかかればいいのに、柳も瘴気のブレードを揺蕩わせながら玄森のことを見て動けないでいた。
『そのくらいにしてもらおうか、<クローデル>」
「おじさま☆」
フロアに館内放送が響く。ネットリとした気色の悪い、老人の悪声だ。
「お前の願いを叶えてやる、ユタカをそっちにやるから、その男と共にある場所へ派遣する」