見て見ぬふりをする僕は最低だって知っている
検査室に行くという割には、礎は部屋から出ようとはしない。
「検査、行くんですよね?」
柳が問いかけても、礎は頷いて
「まだ時間がありますから」
とだけ言い、パイプ椅子に座って俯くままだった。
いつもは流暢に柳をエスコートしてくるはずの礎がこんな態度を取るのも初めてで、柳としてもどうしていいか対応に困る。
「…あ、そうだ。礎さんと一緒に図書館に行ったときに借りた『花火を知らない』、面白かったですよ!切ない話ですね、これ。阿良々木が最後に消えゆくヒロインの鳴奈にかけたセリフ、泣いちゃいました」
「確か、『もういいよ』でしたね。霊となってずっとそばにいた鳴奈の未練を断ち切らせるために、離れたくない気持ちを抑えて言うセリフ」
「そうです。本当は幽霊だとしても別れたくなかったのに言った言葉。哀しいですよね」
私にとって、『もういいよ』という言葉は絶望でしかなかったのにと柳は言う。
「少し思い出したんです、昔の事。勉強しても一番になれなかったとき、親にも担任にも、見放すようにそう言われていたので。だからもっと頑張ったんですけど、一番になっても褒められることもなく無視をされてたみたいです」
苦笑いしながらポツポツ話す柳を、不意に礎は軽く抱きしめた。
「ふえっ!?礎さん…?」
あまりに突然な行為に、心の準備が出来ていなかった柳は頬を真っ赤に染め、心臓な脈打ちが礎に伝わるのではないかというくらいバクバク鳴る。
礎の付けている柑橘系の香水が、フワッと彼の首元から香った。
しばらく両者無言だったが、礎がハッと我に返ったように抱きしめていた手を離した。
「あ、あはは。僕は何をしているんでしょうね…こんなの、僕らしくもない」
そう、僕らしくない。礎はもう一度呟いてまた視線を切らし黙り込んでしまった。
「礎さん」
柳が何かを聞こうとした瞬間、部屋の引き戸が乱暴に開けられる。
「検査の時間だ、柳祥子」
肩幅の広い軍人が三名部屋に入り込み、呆然としている柳に『立て』と命令する。
「え…?い、礎さん?」
礎は軍人が入ってくるタイミングが分かっていたのか、パイプ椅子ごと通路側の洗面台までいつの間にか下がっていた。
「…」
「礎さん?」
「無駄口を叩かないでさっさと立ち上がれ!こんなことに時間を取らせるな!」
礎は目が合わせられないと言うように肩を震わせて下を見ているだけだった。
恐怖で震えながら柳がベッドから立ち上がると、軍人は小銃を突き付けて押し出すように柳を部屋から出し、どこかへ連れていくのだった。
「柳さん…ごめんなさい。僕はもう、貴方を守れないんです…」
土砂降りの雨のように、礎の目から涙が流れて止まらなかった。