恋とはなんですか、黄瀬さん。
鍵のインストールが終わると、詠斗の腕輪が一瞬熱を帯びた。
「この腕輪が、最奥の実験棟に入る許可証になる。入るときにモニターに翳せば、扉が開く。ああ、極秘書庫もこの腕輪で開くからね。まずは行ってみようか。最奥に」
黄瀬は詠斗を連れて、研究棟の光の射さない一階のフロアを前かがみになって歩きながら進んでいった。
「時に詠斗君、君は休暇の間になにかあったように見えるね。君は有意義な時間だったと言っていたが」
黄瀬の歩みは少しゆっくりで、歩く速さを合わせるのが難しい。
「何故そうお思いに?」
「目を見ればわかるよ。表情もまるっきりの無機質から、少し何かに考え事をしているように見える」
「…」
些細な表情の変化にも、黄瀬はすぐに気づくことを忘れていた。黄瀬にサオリのことを伝えたら、黙秘してくれるだろうか。
「ある女性と、出会ったんです。それだけですよ」
ぼかすように詠斗は呟いた。
「恋をしたのかい」
「分かりません。その女性は、今の僕には計れないんですよ。どんな存在なのかね。ただ、何に対しても興味を持たなかった僕の頭の中に、焼き付いて離れないんです。何故か、彼女のことが頭に浮かぶたび胸の鼓動がぶれるのです」
一度会っただけなのに、と苦々しい表情をする詠斗に、黄瀬は振り向かずに微笑んだ。
「それは恋だと思うよ、詠斗君。君もその感情を知る機会に巡り合ったんだねえ」
「恋、ですか」
「君の脳に一度で焼き付いて心を揺らしているなら、それは特別な感情だよ。恋は心を自我に関係なく揺さぶって焦がされるのさ」
恋。これが恋なのか。サオリに自分が恋をしている?いや、ただ彼女に興味を惹かれるだけで恋ではない、と黄瀬の言葉を否定しようとしたが、揺さぶられているのは事実だ。精神が未熟だった最初や、大人の意識になった瞬間の表情が、ずっと心の中で反芻しているのだから。
「黄瀬さんは、恋をしたことがあるんですか?」
詠斗が相変わらずの無表情で問いかけると、黄瀬はククッと声を漏らした。
「一度だけ、恋をしたね。叶わないものだと分かっていたが、その女性はとても魅力的な性格だった」
「どんな方ですか」
「50年前にデータを取っていた女性だった。名前は…白藤さん。当時20代半ばだったかな。今生きていれば、70代か」
「実験者だったんですか。公私を分ける黄瀬さんには珍しい話ですね」
「それまでは研究一筋で、恋などにかまける時間はなかったんだがね。数えきれないくらい出会った人の中でも、彼女の存在感や優しさは飛びぬけていた」
黄瀬曰く、白藤という女性は当時の<能力者プロジェクト>を管理する司令官にとっても特別な存在だったと言われていた。
「彼女の詳細は、極秘書庫に保管されているよ。あまり口外できない話なんだ。よかったら、調べてみて」
そんな話をしているうちに、最奥に繋がる扉の前に到着した。