真央編 第2話 家庭教師の空
カウンタードアを喰らい、意識が朦朧としていた僕であったが、典子さんに氷を頭に当ててもらい、なんとか生還することができた。
「冷たっ!」
「さあさあ、早く起き上がって下さい。ここからが、あなたの本当の仕事でしょ?しっかり頼みますよ」
「ちょっと待ってください。僕、今、結構なダメージ受けた直後なんですけど。宿屋で一泊くらいさせてほしいんですけど」
典子さんは、微笑みながら契約書を指さす。
「そんな時間ありませんよ。今のうちに部屋に入らないと、トイレから戻ってきちゃいますから」
「りょ……了解しました」
子供の方もそうだが、親の方もなかなかなのではないだろうか。
「じゃあ、私は下にいますから」
典子さんは、一階へと戻っていった。
僕は何とか立ち上がり、諏訪真央の部屋へと入った。
6畳程度の部屋に、マットやバランスボール、ストレッチポールやダンベルなどが置かれている。一応、勉強机も置かれているが、学校の教科書とか、そういう類のものは、どこにも見当たらず、体操の雑誌や漫画が、机の上に数冊置かれていた。
「誰ですか!?あなた!」
声の方を振り向く。諏訪真央が立っていた。
諏訪真央は、少し丸みのある顔だちをしていて、髪型はベリーショート、勝気な目が特徴的な容姿をしている。学年は高校3年生、一応、受験の年ということになる。
「僕は藤宮空!華の大学生!君の家庭教師だよ!」
僕は、満面の作り笑いを浮かべて、彼女を出迎えた。人間の関係というのは、第一印象がたいせ……否、第一印象がヘボかったとしても、第二印象で挽回できるはずだ。なんとか、好印象を与えなくてはならない。
諏訪真央は訝しがるように僕を見る。
「不審者が子供を誘拐する時に使う表情ですね」
「そ、そんなわけないじゃないか。僕は何の穢れもない、善良な大学生なんだぜ」
「ホントですかね?少なくとも、まともな大学生活を歩んでいる人の作り笑いじゃないんですけど。華の方の方なら、リア充さんなら、もっと上手く笑うでしょう?」
こ、こいつ……言わせておけば。
「そもそも、私の家庭教師になってる時点で……道、外れてますし」
諏訪真央は、少し目を伏せつつ僕に近づき、僕の体を部屋の扉のほうに押し始める。
「出てってください!私、今、トレーニング中で忙しいんです!勉強なんか、してる暇、ないんで!」
「ちょ、ちょっと待ってくれよ」
僕は身をひるがえして、彼女の背面に回り込んだ。
「へえ。案外、軽い身のこなしができるんですね」
「まあ、高校時代はちょっと運動やってたからな」
「ふ~ん。まあ、どうでもいいです。さすがに、今までのような運動不足の大人たちならともかく、あなたを力づくで追い出すのは、さすがに骨が折れそうですか。私としても、男の大学生とガチでバトルのは、面倒なんで」
真央は、徐にマットでストレッチを始めた。
「この部屋にいるのは認めてあげますけど、私の邪魔はしないでくださいね」
しかし、ストイックな子だ……どうしてここまでモチベーションが維持できるんだろう?
「真央ちゃん、体操の地方大会で一位になったんだって?凄いじゃないか」
「何も凄くないですよ。本当は、全国で、世界で、一位を取るはずだったんですから」
「へ、へえ……そうだったのか。残念だったな。どこで負けちゃったんだ?」
「この家です」
「えっ?」
「ウチの親が、受験に影響するからって、地方大会後の大会に出ることを禁じたんです」
「えっ!?そうだったのか!?」
典子さんのスタンスからして、対立しているのは明らかだったが、まさかここまでだったとは……。なるほど。それなら、諏訪真央が未だに体操をやり続けたいと思う気持ちも、なんとなく理解できる。
「まだ、体操、諦めてないの?」
「悪いですか?」
「いいや。全然」
諏訪真央は、スクワットを始めた。
ただ、僕としても、ここで彼女の言い分だけを通すわけにはいかないのだ。おめおめと負けを受け入れるわけにはいかないのだ。僕は僕の目的のために、ここに来たのだから。
「でもさ、勉強もしてくれると助かるんだよな。僕、契約上、君に勉強させないと、クビになっちゃうんだよ」
物理の問題集を1冊、勉強机の上に置く。
「とりあえず、この問題集の中の5問くらい、どの問題でもいいから、適当に解いてくれないか?そうすれば、君のお母さんへの示しもつくんだけど」
「生徒に適当に解いてもらうって、自分はお金を貰おうって魂胆ですか」
「それぞれがそれぞれの利益に則って行動するのは、当たり前のことだぜ。そんなことに引っかかってるようじゃ、まだまだ甘いな。そんなんで世界一なんかになれるかよ。君だって自分の利益のために、他人の言うことを聞かずに、体操に熱中しているんだろ?子供の言うことを聞かずに、勉強に熱中させようとしている母親と、その点においては違いはないだろ」
「理屈っぽいこと言ってるけど、全部屁理屈です。人間、やりたいことをやれない人生なんて、意味がありません。親が何と言おうが、あなたが何と言おうが、私は私のやりたいことを貫き通しますから」
「イマドキ、君みたいな子、いるんだな」
「むしろ、私みたいな考え方がイマドキだと思いますけど。おじさん」
諏訪真央の言っていることは、至極真っ当だと、僕は思った。だが、僕としてもここで引くわけにはいかないのだ。バイトのためだけではない。僕は物理を教えたいのだ。現状、自分の関係することにしか、興味を持てないほど、追い詰められているこの子に。
正面から世界の本質に迫ることができる最強で最高の学問、それが物理学なのだから。
「なあ、真央ちゃんは、どうして物理を科目選択したんだ?化学とか生物とか地学とか、他にもあっただろう?」
「別に、理由なんてないです。選べって言われたから、適当に印つけて、たまたまそれが物理だったってだけ」
「運がいいな」
「えっ?」
「こんな素晴らしい学問を勉強する機会を掴みとれたんだから」
「何を言ってるのか、さっぱりわかりませんが」
「物理っていうのはさ、この世の全てなんだよ」
「……頭、大丈夫?さっきの衝撃から、まだ回復しきってないんじゃないですか?」
「大丈夫だよ。君と同じように、至極真っ当なことを言っているつもりだぜ」
諏訪真央が、トレーニングの動きを止め、僕の方をじっと見てきた。
「物理学の学問範囲は、この世の全てだ。この地球も宇宙も。逆に、僕らの目には見えないような、もっと小さい世界だって、僕たちは物理を使って探求できる。当然、体操もな」
「体操?体操も物理の範囲なんですか?」
「当然だろ。力学中の力学じゃねえか」
「力……学?」
「運動とか力とかを扱う学問のことだ。それこそ、体操そのものだろ?」
「まあ……そうなのかな」
「だから、物理を学ぶことは、体操を学ぶことなんだよ」
「……私、騙されませんから。勉強なんかしたって、体操が上手くなるなんてないから」
「物理だけじゃない。数学だって、体操に関係すると思うな」
「数学?バカ言わないでくださいよ。あんな訳のわからない数字と文字の羅列、体操とどう結びつくって言うんですか」
「強い人の体操ってさ、美しいよな。例えば、黄金比や白銀比といった比率が、芸術作品でよく現れるように、数学と美の間には、密接な関係性があるんだ。そんなことも知らないで、世界一の体操選手になろうなんて、おこがましいと思うぜ。僕は」
数学の問題集を勉強机の上に置く。
「こっちの問題集から5問でもいいぜ」
「そんな口車に乗せられませんから。数学とか物理とか勉強したって、体操が上手くなるわけがありません。あんまりバカにしないでください」
ちっ。さすがに、無理ゲーだったか。
半分本気で説得しに行っただけに、少し残念だけれど、これ以上、この子に勉強を押し付けるのも主義に反する。
どうやら、諏訪真央の4人目の犠牲者として、すごすご敗走するしかなさそうだ。
ふと、僕の目に、体操日本代表の「橋村琴美」のポスターが目に入る。
「あっ、橋村琴美だ」
「ちょっと!橋村先生を呼び捨てだなんて、おこがましいですよ!許せません!」
「お、おこがましい?」
「橋村先生の体操は、圧倒的に優雅で美しい。他のどの人類よりも!私は、橋村先生の体操を見て、絶対に体操選手になろうって思ったんですから!」
なるほど。この子のルーツか。仕方ない。最後にダメもとで、適当にはったりでもかましとくか。
「そうえいば、橋村……先生って、学生時代、物理と数学、得意だったらしいな」
「本当ですか!?」
真央の瞳が、キラキラ輝き出した。
えっ、まさか、信じた?




