5.さらい屋、チェシャ猫
ごくりと唾を飲み込む。
「……人さらい、ね。つまり誘拐ってこと?」
「それは依頼主次第だね。オレはただ人をさらってくるだけのさらい屋だ。その後、依頼主が身代金を要求すれば誘拐ってことになるんだろうね」
「……まさか私をさらおうと思ってるの?」
私は無意識にクッションを握りしめていた。
「まさかもなにもここには君しかいないだろう。オレは獲物を間違えない」
「そう、有能な人さらいなのね」
「そう、有能なさらい屋なのさ。お陰でこの仕事も繁盛してて十日に一回は仕事をしなくちゃならない」
「……それは繁盛してるといえるの?」
「オレとしては仕事なんか年に一回くらいでいいと思ってるよ」
チェシャ猫はふわぁと大きな欠伸を漏らしながら言った。
仕事に対する熱意のなさは私と似たものがある。
意外と話せば仲良くなれるかもしれないけれど、あいにく私たちにそんな時間はないようだ。
「さぁ、早く面倒な仕事は終わらせて上等な酒を飲みながら寝るとしようかな」
チェシャ猫が準備運動をするみたいに腕を回した。
こめかみにいやな汗が伝った。
「……あいにくだけど、ここには鍵が掛かってるわ。鍵は特殊な仕掛けが施されていて開けばすぐに家主に分かるようになってるし、柵はダイヤより硬いのよ」
つらつらと淀みなく嘘が出てきた。
チェシャ猫はさっき自分にはどこだって入り口で出口だと言っていた。
もしかすると彼は鍵師なのかもしれない。
しかも自信ありげな口ぶりから察するに有能な部類の。
そうだとしたらこんな南京錠なんて簡単に開けてしまうだろう。
だから一か八かで嘘をついてみた。
少しでも彼が尻込みしてくれればいいのだけれど……。
「へぇ、そうなんだ。そりゃあ困ったなぁ」
チェシャ猫は困った風に言って頭を掻いた。
けれど口は笑ったままだ。
「確かにこの柵は硬い。とてもじゃないけど折ったり曲げたりは無理そうだ」
チェシャ猫は柵を両手で握って大きく左右に広げようとしたけれど、柵はビクともしなかった。
いつも私の自由を奪う柵だけれど、今日ばかりはこの柵の頑丈さに感謝するばかりだ。
チェシャ猫は鳥籠の扉の方へ回って、鍵を手に取ってじっと見詰めた。
自分の心の中を覗かれているような緊張で、鼓動が速まった。
「……特に仕掛けもなさそうに見えるけど、あの白ウサギのものだからなぁ。油断は出来ない。困ったなぁ」
チェシャ猫は鍵から手を離すと腕を組んで「うーん」と唸り始めた。
ちらりと窓から差し込む日の光を見る。
夕日の色がだいぶ暗くなってきている。
ラビ、早く帰ってきて……!
早鐘を打つ心臓の音に紛れて私は祈った。
チェシャ猫が大きくため息を吐いた。
「仕方ない、鍵を開けるのは諦めよう」
あっさりとチェシャ猫が諦めたので私は目を丸くした。
「ほ、本当に……?」
「ああ、だって鍵を開けたら白ウサギに知れてしまうんだろう? そんな危険はおかしたくない。だって……--」
瞬間、チェシャ猫が姿を消した。
「え!」
私は驚いて不安定なベッドの上でよろけながら鳥籠の扉まで駆け寄った。
そこには恐らくチェシャ猫のものと思われる靴跡はあったけれど、他には何も残っていなかった。
一瞬のことで私の頭の中は混乱状態だった。
彼は一体どこに……?
自分の家に帰ってくれたのなら有り難いけれど、そうとは思えない嫌な胸騒ぎを残して彼は消えた。
ツン。
唖然とする私の頬に何かが当たった。
嫌な胸騒ぎが鮮明な輪郭を持って胸の中から溢れ出た。
私は恐る恐る振り返った。
そこには不気味な三日月型の笑みが浮かんでいた。
私の頬に当たっていたのは、ワイシャツと同じ色のマニュキアを塗ったチェシャ猫の人差し指だった。
「……言っただろう? オレにとってはどこだって入り口で出口だって」




