10.人違いです!
聞き間違いでなければ、男は今私をメアリーと呼んだ。
私はアリス。
私の頭があの妙な暗闇を落ちている最中にイカレてなければ、それは間違いない。
不本意ながら、顔に似合わないこの名前は死ぬまで変わらないはずだ。
私はアリス。
私はアリス。
私はアリス……--。
ドン、と男の体を突き放した。
彼は目を丸くして、驚きと戸惑いを隠せずにいた。
「メ、メアリー……?」
「す、すみません、私はメアリーじゃありません。その、ごめんなさい……」
私は全く悪くないのに、彼の目が傷ついたように見えたので、思わず謝ってしまった。
男は私の言葉にしばらく固まっていたけれど、急に何かを思い出したように、私に背を向け作業台へ向かった。
そしてすぐに私のもとへ戻ってきた。
手に握っていたのは鋭い裁ちバサミだった。
「ちょ、ちょっと、待ってください! そ、それなんですか!」
「裁ちバサミだ。見れば分かるだろう」
さっきまでの感極まった声とは対照的に、淡々と男が答える。
そんなことは分かってるわよ!
それを何に使うつもりなの!
そう聞き返そうとした時には、男は私の胸ぐらを掴んでいた。
そしてハサミが振り上げられた。
ハサミが狙う場所は明らかだった。
ハサミのあまりの鋭さに喉がすくんで、抵抗の言葉さえ出てこない。
ハサミが振り下ろされた。
もうダメだ……!
絶体絶命の状況に為す術を考える余裕さえなく私はぎゅっと目を瞑った。
布を切り裂く音がした。
けれど、いつまでたっても恐れていた痛みは襲ってこなかった。
私は恐る恐る目を開けた。
胸元の服はザックリと裂かれていたけれど、皮膚にはかすり傷すらついていなかった。
ほっとしたのも束の間、男は服の裂け目を両手で引き破った。
小振りだけれど歴とした女の、私の胸が露わになる。
「……い、いやぁぁぁぁぁぁ!」
あの妙な暗闇を落ちた時と同じくらいの、いや、それ以上の悲鳴が喉を破って出た。
男は鬱陶しそうに眉根を少し寄せた。
「うるさい、黙れ」
「だ、黙ってられないわよ、この状況! や、やっぱり変態だったのね! チェシャ猫! 今すぐ私をさらって逃げて!」
「いいから少し黙ってろ」
「むぐっ……」
男の手が私の手を塞ぐ。
片手で私の口を押さえながら、もう片方の手で器用に裂けた服を広げて、私の胸をじっと凝視している。
ただ、その視線にいやらしさは全くといってなかった。
そこには身震いするほどの狂気的な真剣さがあるだけだ。
「……あった」
男がぼそりと呟いた。