8.それじゃあ行こうか
骨が砕け、肉は飛び散り、意識はこの世から吹き飛んで……という悲惨な事態を想像していたけれど、私を待ち受けていたのは柔らかな感触だった。
待ち受けていたというより抱き止めてくれたと言っても過言ではない。
「……?」
私はゆっくりと目を開けた。
まず視界に入ったのは木の天井だった。
今までいた不思議な空間の鮮烈さに感覚が麻痺したのか、日の光が漂う優しい目の前の空間にいまいち現実感が持てない。
眠りから醒めたばかりのようなぼんやりとした心地で体をのっそりと起こす。
そこは一面帽子の山だった。
棚にきれいに並べられているものもあれば、窓際の作業台に無造作に重ねられているもの、壁に掛けられているもの、頭だけのマネキンの上に鎮座するもの……とにかくそこは隅々まで帽子で埋め尽くされていた。
私のお尻の下にも、色とりどりのあらゆる帽子が積み重なっていた。
「いやぁ、無事到着。よかったよかった」
斜め後ろからチェシャ猫の声がして振り返ると、彼は帽子を陳列している棚の上に座ってにやにやと私を見下ろしていた。
「ちょっと! ここどこよ!」
「どこって見れば分かるだろう」
チェシャ猫は帽子が落ちていない床の上に身軽に降り立った。
そして口の端をさらに持ち上げてこう言った。
「帽子屋さぁ」
「……帽子屋」
辺りを見渡す。
確かにここは掃いて捨てるほど帽子がたくさんある。
けれどどれも雑に置かれていたり、ほこりを被っていたり、古びていたりしてとても売り物になりそうな感じではなかった。
そもそも帽子屋に連れ去られる理由が全く思い浮かばない。
私は立ち上がって、自分の足元に転がっているシルクハットを手に取り手でいじった。
「……この帽子を作った人が私をさらうよう依頼したの?」
「ああ、そうだよ」
「人さらいを依頼する人間だからてっきりマフィアのような裏社会の人間かと思っていたわ。でもここには誰もいないわね。出掛けてるのかしら……」
部屋を見渡すけれど、私たち以外に人の気配はない。
「ここは失敗作やお気に入りを置いておく部屋なんだ。彼は隣の部屋にいるよ」
そう言ってチェシャ猫はドアを指差した。
ドアの向こうに私をさらうよう依頼した男がいると思うと、途端に緊張が高まった。
一体なぜ私なんかをさらおうと思ったのか。
自分で言うのも悲しいけれどはっきり言って私をさらったところで何のメリットもない。
そもそもこの世界に私を知る人がラビ以外にいるのだろうか。
その人と私の関係は……?
疑問が疑問を呼ぶ。
考え出したらきりがない。
手でいじっていたシルクハットをぎゅっと握る。
「……いいわ。私を依頼主のところに連れて行って」
私は意を決してチェシャ猫を見据えた。
チェシャ猫は眉を少し上げて驚いた表情を作った。
「へぇ、度胸があるねぇ」
「度胸があるとかそんなんじゃないわ。ただあまりに私の知らないことばかりが溢れていてうんざりしているの。疑問ばっかりで頭が爆発しそう。だから少しでも何か知りたいの。そのためには進むしかないでしょう」
「勇敢な好奇心だねぇ。でも知らないよ? もしかしたらこの先には君にエッチなことをしようとしている変態がいるかもしれないし、女の子を残虐にいたぶるのが好きな殺人鬼がいるかもしれない。それでもいいの?」
にやにやと意地悪く言うチェシャ猫の言葉に一瞬躊躇いが生じた。
けれどすでにここは相手の懐なのだ。
そして目の前にはプロのさらい屋がいる。
もうこの先にどんな奴がいようとも逃げられないのだ。
カラカラの喉に唾を送って口を開いた。
「いいわ、構わない。それにもし依頼主がそんな奴だったら……」
チェシャ猫の目を真っ直ぐ見詰める。
「その時はあなたに私をさらってどこかに逃げるよう依頼するわ」
チェシャ猫は私の言葉にポカンとしていたが、しばらくするとお腹を抱えて笑い始めた。
「な、なによ!」
「いや、面白いこと言うなぁと思って。いいねぇ、いいよ、その作戦。うん、了解。その依頼、引き受けるよ。ただしオレの仕事は高いよ」
「請求はラビにしておいて」
「あははは、了解」
チェシャ猫が本気で受け止めているかは分からないけれど、とりあえず契約は成立した。
「それじゃあ行こうか」
チェシャ猫が私の手を握った。
逃がさないようにしているのか、安心させようとしているのかよく分からない手だったけれど、私はその手を握り返した。
そして彼に引かれるまま、依頼主の元へと向かった。